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『 棚のない商店街 』 ストーリー 4
第九章 最初の客
午前九時。
商店街の入口に、朝の光が差し込んでいた。
老人はまだ立っている。
小さな買い物メモを何度も見直している。
その姿に気づいた涼が、店の入口から出た。
「おはようございます」
老人は顔を上げた。
「ああ、おはよう」
「何かお探しですか?」
老人は手元の紙を見せた。
「ボールペン」
「文房具のお店ですね」
「どこですか?」
「こちらです」
涼が案内板を指した。
老人は案内板を見上げた。
大きな文字で、文房具と書かれている。
「ああ、これか」
老人は少し笑った。
「分かりやすいね」
涼は文房具店まで案内した。
店の中には、すでに店員が待っている。
ボールペンの棚には、黒、青、赤。
太さの違うもの。
書き味の違うもの。
数種類の商品が並んでいる。
老人は棚の前で立ち止まった。
「こんなにあるのか」
「何かお探しのものがありますか?」
店員が声をかける。
「仕事で使うんだけどね。字が少し薄くなってきたから、濃いやつがいい」
「それでしたら、こちらが書きやすいと思います」
老人は一本を手に取った。
試し書き用の紙に線を引く。
ゆっくりと。
もう一度引く。
「ああ、これならいい」
一本をレジへ持っていった。
百十円。
支払いを済ませると、老人は商品を袋に入れてもらった。
それで終わるはずだった。
ところが、老人は店を出る前に隣の棚を見た。
「これは何?」
小さなメモ帳だった。
「メモ帳です」
「これも百十円?」
「はい」
老人は少し考え、手に取った。
「じゃあ、これも」
最初の買い物は二点。
売上金額、二百二十円。
それが、この一年間の実験の最初の数字になった。
井上はすぐにデータを入力した。
来店時刻。
年齢層。
購入商品。
購入点数。
滞在時間。
「二百二十円」
井上が小さく言った。
「これが最初の数字か」
田島が笑った。
「少なすぎるだろ」
「最初だからいいんだよ」
志保が言った。
「問題は、今日一日で何人来るか」
午前十時を過ぎると、少しずつ客が増え始めた。
文房具店には学生が来た。
キッチン用品の店には近所の主婦が入った。
収納用品の店では、引き出しの中を整理するための小さなケースが売れた。
掃除用品の店では、スポンジとゴミ袋が売れた。
季節商品の店では、夏物の小さな扇風機が売れた。
しかし、すべてが順調だったわけではない。
ある女性が、キッチン用品店から出てきた。
「どこにあるの?」
店員に聞く。
「何がでしょう?」
「洗濯ばさみ」
「掃除用品のほうにあります」
「ここにはないの?」
「はい」
女性は少し困った顔をした。
「じゃあ、どこ?」
店員が案内する。
女性は店を出て、商店街の奥へ歩いていった。
涼はその様子を見ていた。
これだ。
企画を考えているときには、簡単に思えた。
ジャンルごとに分ければ分かりやすい。
しかし、客にとってはそうとは限らない。
洗濯ばさみは台所用品ではない。
掃除用品でもない。
日用品なのか、洗濯用品なのか。
分類する側には明確でも、買う側には曖昧な商品がある。
「涼」
冴が後ろから呼んだ。
「今の見た?」
「見た」
「分類を見直したほうがいいかも」
「うん」
「それと、案内板」
「もっと細かくする?」
「細かくしすぎると、逆に分からなくなる」
涼は頷いた。
商店街を一つの店にする。
言葉にすると簡単だった。
実際に客が歩き始めると、思っていた以上に難しい。
午後になると、さらに問題が出た。
文房具店に客が集中した。
学生が学校帰りに立ち寄ったためだ。
一方、掃除用品店にはほとんど人が来ない。
「入口の位置が違うだけで、こんなに差が出るんだ」
井上が数字を見ている。
「これは重要なデータになる」
「でも、売上を上げたいなら、店舗を入れ替える?」
田島が言った。
「まだ早い」
加藤が答えた。
「初日のデータだけでは判断できない」
午後五時。
商店街に学校帰りの高校生が増えた。
文房具店の前に、数人の女子高校生が立っている。
「これ、かわいい」
「こっちも」
小さなノートを手に取っている。
一人が買うと、別の子も買う。
それを見た別の女子高校生が店に入る。
その後ろから、さらに二人。
文房具店だけが少し騒がしくなった。
涼は店の外からその様子を眺めていた。
隣で冴も見ている。
「人が集まるね」
「うん」
「でも、文房具だけ見て帰ってる」
冴が商店街の奥を見る。
「他の店まで行ってない」
涼はその言葉を聞いて、商店街を見渡した。
六店舗を一つの店にする。
そのためには、客を歩かせなければならない。
文房具店だけ繁盛しても意味がない。
「何か必要だな」
「何が?」
「理由」
涼は答えた。
「次の店へ行く理由」
冴は黙って考えていた。
そのとき、文房具店から出てきた女子高校生の一人が、向かいの店を見た。
「あれ、何の店?」
「収納じゃない?」
「行ってみようよ」
二人が歩き出した。
残りの二人もついていく。
涼と冴は顔を見合わせた。
仕掛けたわけではない。
ただ、目に入ったから歩いただけだ。
けれど、それでいい。
商店街を歩く理由は、必ずしも大きなイベントでなくていい。
次の店に何があるのか。
それを少し見てみたい。
その程度でいいのかもしれない。
閉店時間。
六人は集会所に戻った。
井上が一日の売上をまとめる。
全店舗合計。
来店者数。
購入点数。
客単価。
店舗別の売上。
画面に数字が並んだ。
「初日の売上は……」
全員が画面を見る。
井上が読み上げた。
「十八万四千六百二十円」
田島が口笛を吹いた。
「思ったよりいったな」
「ただし、目標にはまだ届いてません」
「初日から目標を見るなよ」
加藤が笑った。
井上はさらに画面を切り替えた。
「それより、こっちです」
そこに表示されたのは、来店者の店舗間移動だった。
文房具店から収納用品店へ移動した客。
収納用品店からキッチン用品店へ移動した客。
キッチン用品店から日用品店へ移動した客。
小さな線が、商店街の地図の上にいくつも伸びている。
まだ少ない。
けれど、確かに人は動いている。
「これ、面白いな」
加藤が言った。
冴が画面を見つめる。
「一店舗だけじゃなくて、二店舗、三店舗と回っている人がいる」
「最高で?」
「五店舗」
田島が笑った。
「五店舗も回る人がいるのか」
「買い物目的だけじゃないと思います」
志保が言った。
「見て回ってる」
涼は数字を見ていた。
最初の一日。
まだ何も判断できない。
それでも、商店街の中に人が歩いている。
シャッターが下りていた店舗に、人が入っている。
それだけで、昨日までとは違う。
「今日は成功ってことでいいんじゃない?」
田島が言った。
加藤は笑った。
「まだ初日だ」
「分かってますよ」
「一年間やるんだからな」
加藤は画面を見た。
「初日の数字で喜んで、一か月目で落ち込んで、半年で諦めるようなことだけはやめよう」
その言葉に、全員が黙った。
実験は始まった。
そして、ここからが本当の仕事になる。
