この作品は盗用禁止です。
AIに登録してネット監視していますので、ご注意ください。
『 一人分の幅 』
第十章 誰の仕事か
催しの名前が決まると、必要な仕事が一度に増えた。
参加店の案内文。
店先へ置く看板。
商店街全体の地図。
相談を予約する店と、当日受け付ける店の区別。
持ち込んでよいものと、写真だけで相談するもの。
市の広報誌、ウェブサイト、地域の掲示板へ出す日程も揃えなければならない。
最初の準備会に、産業振興課の職員だけが来た。
京子は入口の戸が鳴るたび、一度だけ顔を上げた。時計店主が遅れて入り、次は河合が紙袋を抱えてくる。冨永が来る予定ではないことは、最初から知っている。
三度目に顔を上げたところで、京子は手元の紙へ視線を戻した。
催しが始まれば、市役所が毎回ここへ来る理由はなくなる。冨永と一緒に考える仕事にも、終わりがある。
店主たちの声を聞きながら、京子は鞄の中のカメラへ触れた。確かめるものは何もない。京子は指を離すまで、少し時間をかけた。
商店街の会合では、京子が催し全体の見せ方をまとめることになった。
提案したのは河合である。
「長谷部さんに、店ごとの看板と、当日の置き方を見てもらいたいです」
種井がすぐに聞いた。
「いくらかかる」
河合は、京子から受け取った見積書を出した。
店への聞き取りはすでに終わっている。ここから先は、七つの案内内容の整理、看板の配置、当日の確認。開催前日までの仕事として、金額が書かれていた。
「高いのか安いのか、わからんな」
塚口が紙を遠ざけて見る。
「叔父さん、眼鏡」
京子が言う。
「今日は持ってきた」
「胸に掛かってる」
塚口は眼鏡を掛け、もう一度見積書を読む。
「京ちゃん、これで店を何日休む」
「全部は休まない。閉店後に回れるところは回る」
「なら、少し安くしろ」
「営業時間のあとに働く方が、安くなるんですか」
「商店街のためだぞ」
「私の店も参加するから、自分の店の分は見積もりから外してる」
「そうなのか」
「下に書いてあるでしょう」
塚口は眼鏡を上げた。
「字が小さい」
「時計屋さんと同じこと言ってる」
種井が見積書を手に取る。
「市の金は使えるのか」
産業振興課の職員が、催事支援の要項を開いた。
「案内物の作成、会場表示、外部協力者への謝金は対象になる可能性があります。ただし、申請前に業務内容と金額を確認します」
「なら、市に出してもらえばいい」
「全額ではありません。商店街の負担もあります」
「いくら」
補助される割合を聞き、店主たちは一斉に計算を始めた。
一店舗あたりにすれば、大きな額ではない。
市の金が入ると、京子の仕事は河合たちとの打ち合わせだけでは済まなくなった。商店街全体が見積書を見る。
時計店主が見積書を見る。
「ほかに頼める人はいないのか」
「探せばいると思います」
京子が答えた。
「自分で言うのか」
「私でなければできない仕事じゃないから」
「今までの話を知ってる分、早いでしょう」
衣料品店主が言う。
脇道から離れた金物店の店主が、資料を畳んだ。
「写真も案内も、結局は京ちゃんの店か。外から見たら、市と商店街のどっちが頼んだ仕事かなんて分からんよ」
京子を責める声ではなかった。自分の店には市役所の職員が一度も来ない、と言って視線を落とした。
「それは、そう」
「ほかの人に頼んだら、また最初から説明するの?」
河合は七店分の聞き取り記録を机へ置いた。
「私たちは、長谷部さんにお願いしたいです」
「市役所は、どうなんだ」
種井が冨永へ向く。
冨永は見積書から目を上げた。
「誰に依頼するかは、商店街が決めることです。市は、申請内容と金額が支援の対象になるかを確認します」
「長谷部さんで問題ない?」
「事前にこの催しへ関わっていることは、経緯として説明できます。ただし、商店街の会計上、ほかの見積もりが必要かどうかは確認してください」
産業振興課の職員がうなずく。
「金額によっては、一者の見積もりで申請できます。今回は、その範囲です」
「じゃあ、決まりでいいだろ」
塚口が言う。
時計店主は、まだ納得しきっていない。
「組合に入ってない店へ、組合の金を払うのか」
店の中が静かになる。
京子は、長机の端に座っている。
「私の店が参加することと、仕事を受けることは分けてください」
時計店主を見る。
「組合の外の人へ払いたくないなら、私は引き受けません」
「払いたくないとは言ってない。組合の店にも、こういうことができる人がいるかもしれんだろ」
「なら、聞いてください」
「京ちゃん」
塚口が止める。
「いいんだよ、叔父さん。確かめるのは、その通りだから」
京子の声には、怒りより先に区切りがある。
自分へ頼むことが最初から決まっているなら、見積書の意味がない。誰がやるかを決める前に、何を頼むのかを決める必要がある。
冨永は、見積書の業務内容を読み直した。
各店の案内内容の整理。
会場表示の助言。
当日の配置確認。
「この三つを、商店街の中でできる方がいるか、確認してはどうでしょう」
冨永が言う。
河合が不安そうに見る。
「長谷部さんに頼まないということですか」
「決める前に確認するということです」
「時間がありません」
「明日まででいいと思います。できる方がいなければ、長谷部さんへ正式に依頼する」
時計店主がうなずく。
「それならわかる」
京子も何も言わない。
会合の翌日、参加店へ確認が回った。看板だけ、案内文だけならできる店はあったが、七店の内容と配置を通して見る者はいなかった。
夕方、商店街組合から京子へ正式な依頼書が届く。
見積書と同じ内容である。
京子は署名した。
冨永は申請書の中に、長谷部京子の名前を見つけた。
役割は
「催事企画監修」
と書かれている。
その日のうちに、商店街へ電話をかけた。
「長谷部さんへ依頼した業務名を確認したいのですが」
電話に出たのは塚口だった。
「京ちゃんは全部見るんだろ。監修でいいじゃないか」
「見積書には、案内内容の整理と、配置の助言とあります」
「だから監修だ」
「催事全体を決定する立場に見えます」
「違うのか」
「日程や予算を決めるのは、商店街です」
「細かいな」
「仕事の範囲が違います」
「じゃあ、何て書く」
「見積書と同じ内容にしてください」
申請書の
「催事企画監修」
は消され、
「案内内容整理・会場表示助言」
へ変わった。翌日、京子から、案内の一案ができたと電話があった。
翌日、冨永が
「余計なお世話」
へ行くと、作業台の上に七枚の案内が並んでいた。
すべて同じ大きさの紙である。
上には店名、その下に、できること。
左下に、持ってきてよいもの。右下に、受けられないもの。
料金が決まっている店は、一番下へ目安を入れてある。
色も書体も揃えていない。
衣料品店は深い赤。
時計店は濃紺。
喫茶店は茶色。
「つづき」
は青と緑。
「余計なお世話」
は白地に黒い文字だけだった。
「店ごとに違うんですね」
「同じにすると、どこの看板かわからなくなる」
「商店街全体の催しには見えません」
「上のここだけ、揃える」
京子は、それぞれの紙の上端を指した。
まだ使えますか。
同じ言葉が、同じ位置に入っている。
その下は、店ごとに違う。
「これなら、同じ催しだとわかります」
「下まで揃えなくていいでしょう」
冨永は一枚ずつ読む。
時計店の案内に、古い置き時計、柱時計は扱いません、とある。
衣料品店には、洗濯した服をお持ちください。
喫茶店には、器具は持ち込まず、写真をお見せください。
「『高価な品』のところ、変えました」
京子が自分の店の案内を渡す。
大切な品は、その場で確認し、お預かりしない場合があります。
「こちらの方がいいですね」
「値段の話じゃなかったから」
冨永は案内を並べ直した。
「『つづき』の予約先が入っていません」
「全体案内に入れるんじゃないんですか」
「店の前で見て、相談したい人もいます」
「じゃあ、ここ」
京子は青と緑の紙の下へ、鉛筆で細い枠を書く。
「電話番号ではなく、予約用のコードを入れます」
「年配の人は?」
「電話も残す?」
「受付中に出られますか」
「出られない」
「留守番電話にする方法もあります」
「三人に聞きましょう」
二人は作業台の両側に立ち、一枚の紙を間へ置いた。京子が余白を決め、冨永が必要な情報を足す。文字が増えれば削り、削りすぎれば戻した。
店の扉が開き、客が一人入ってきた。
京子はすぐに作業台を離れる。
客が持ってきたのは、留め具の外れたネックレスだった。
「今、見てもらえますか」
「はい」
京子は別の小さな台へ案内し、ネックレスを受け取る。
冨永は七枚の案内を重ね、作業台の端へ寄せた。客の品へ視線を向けず、空いた椅子へ座って待つ。
留め具は、金属の輪が一つ開いているだけだった。
「部品を替えなくても直ります」
「いくらですか」
「五百円。十分くらい」
「お願いします」
京子は工具を取り、輪を閉じる。
冨永は手帳を開き、先ほどの予約先について書いている。
客が鏡の前で直ったネックレスをつける。京子が後ろから留め具を確認し、髪を挟んでいないかを見る。
「これで大丈夫」
客は五百円を払い、店を出た。
京子が作業台へ戻る。
「お待たせしました」
「十分でした」
「測ってたんですか」
「予約枠の参考に」
「嘘でしょう」
京子が笑う。
冨永も少し遅れて笑った。
作業は六時過ぎまで続いた。
七枚の案内を、商店街へ戻す形まで整える。
京子が最後の紙を封筒へ入れた。
「これで、二人でする仕事は終わりですね」
冨永は鞄へ手帳を入れかけて、止めた。
「商店街の確認は残っています」
「それは、みんなでする仕事でしょう」
「そうですね」
京子は封筒を机の端へ置いた。
二人で紙を挟んで考える時間は、これで一区切りになる。
そう思うと、京子は少しだけ手持ち無沙汰だった。冨永も同じことを考えたのか、手帳を閉じたまま、しばらく立っていた。
格子戸の外では、時計店がシャッターを半分まで下ろしている。通りからは、作業台の両側に二人がいることだけが見えた。
「長谷部さんには、華がありますね」
京子が顔を上げた。
「元モデルだから、という意味ではありません。長谷部さんがいると、人が自分の仕事を少しよく見せようとする。答えをもらうのではなく、自分で決めたくなる。そういう華です」
「褒め方まで、市役所ですね」
「すみません」
「謝らないで。嬉しいから」
京子は封筒の端を指で揃えた。
「冨永さんには、芯があります」
「頑固だということですか」
「押さないのに、引かないところ。誰にも見えないところで線を守っている」
二人の間には、七枚分の仕事を終えた作業台がある。
「私、冨永さんが好きです。魅力的な人だと思っています」
京子は笑わなかった。
「でもね、プライベートな私の生活には合わないわ」
「合わない?」
「奥さんと潤君と一緒にいる冨永さんを見て、わかりました。あの家族の中にいる人だから、私はあなたを好きになった。そこから出てきた人を欲しいわけじゃない」
冨永の中で、返事に使えない言葉がいくつも動いた。
「私もです」
それだけ言って、冨永は黙った。
京子の言葉が、胸の中に残っている。
家に帰る。
それは変わらない。
それでも、京子に会うと嬉しい。
そのことも、変わらない。
二つを一つにしなくていいのだと、冨永は初めて思った。
家族といる自分。
仕事をしている自分。
京子と話しているときの自分。
どれも嘘ではない。
格子戸の向こうを、自転車が一台通り過ぎる。シャッターの下りる音が、少し離れたところから聞こえた。
「家に帰ります。それは変わりません」
「知っています」
京子の返事は早かった。
「何も変えなくていいんでしょうか」
「変えたいですか」
「変えたくありません」
京子は少し笑った。
「なら、明日も四時ですね」
「はい。『つづき』の予約先を確認して持ってきます」
「それなら、仕事はありますね」
「あります」
「では、また明日」
「はい」
冨永は店を出る。
格子戸の鈴が鳴り、外の空気が少し入った。
京子は作業台へ戻る。
好きだと言った。
それで二人の間に新しい名前がついたわけではない。
明日の仕事も、いつものように残っている。
