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まるすうじ

 

「 尾道の坂を下って 」  ⑧ー④

 

第四章 三百円を受け取る

 

 商店街のスーパーで、里奈は春江に渡された紙を二度見た。

 

 牛乳、卵、じゃがいも、湿布、封筒。

 

 封筒だけは、どの売り場にもなかった。

 

「文房具は二階よ」

 

 テルさんが言った。

 

「知っています」

 

「ずっと紙を見とるけえ」

 

「間違えないように確認しているんです」

 

「確認しとったら、じゃがいもが出てくるん?」

 

 里奈は紙を畳み、野菜売り場へ向かった。

 

 小川の牛乳と卵を籠へ入れた。じゃがいもは春江の肉じゃがに使う。湿布は小川のものか春江のものか分からなかった。

 

「この湿布は、どちらのですか」

 

「ハルさん」

 

「紙を分けて書いてください」

 

「私が書いたんじゃないよ」

 

「では、春江さんに言ってください」

 

「里奈ちゃんが言えばええじゃろ」

 

 テルさんは、りんごを一つ籠へ入れた。

 

「それは誰のですか」

 

「私の」

 

「会計を分けます」

 

「一緒でええよ」

 

「駄目です」

 

 レジへ行く前に、里奈は籠の中を三つに分けた。小川のもの、春江のもの、テルさんのりんご。レシートも三枚になった。

 

「面倒じゃねえ」

 

「お金のことは、面倒にしておいたほうがいいんです」

 

「何で?」

 

「あとで、もっと面倒にならないためです」

 

 テルさんは返事をしなかった。

 

 店を出ると、里奈は小川の買い物を右手に、春江の買い物を左手に持った。封筒には釣り銭とレシートを入れた。

 

「持とうか」

 

「一人で行けます」

 

「坂は一人で行けるかどうかを聞いとらんよ。重いかどうかを聞いとる」

 

「重いです」

 

「ほんなら持つよ」

 

 テルさんは春江の袋を取った。

 

 小川の家へ着くと、里奈は玄関先で買ったものを一つずつ見せた。小川は封筒から釣り銭を出し、何度か数えた。

 

「三百円、入っとらんよ」

 

「受け取りません」

 

「どうして?」

 

「買い物へ行っただけですから」

 

「買い物へ行ってもらったけえ、払うんよ」

 

 小川は割烹着のポケットから百円玉を三枚出した。

 

「でも、お金がないと——」

 

「誰が言うたん?」

 

 小川の声が少し硬くなった。

 

 里奈はテルさんを見た。テルさんは、玄関脇の鉢に生えた葱を見ていた。

 

「すみません」

 

「謝らんでええけえ、手を出して」

 

 里奈が手のひらを開くと、小川は百円玉を一枚ずつ載せた。

 

「払わんかったら、次に頼みにくいじゃろ」

 

「次も、私に頼むんですか」

 

「嫌なん?」

 

「嫌ではありません」

 

「ほんなら、来週も牛乳をお願い」

 

 小川は戸を閉めかけ、もう一度顔を出した。

 

「卵は要らんよ。まだ六個あるけえ」

 

 戸が閉まった。

 

 里奈は手のひらの三百円を見た。

 

「取ったね」

 

「受け取ったんです」

 

「同じじゃろ」

 

「少し違うと思います」

 

 テルさんは笑い、また坂を上り始めた。

 

 三日目の朝、春江は食卓で言った。

 

「今日までじゃね」

 

 里奈は箸を止めた。

 

「はい」

 

「どうするん?」

 

「まだ決めていません」

 

「決まらんかったら出ていく約束じゃったね」

 

「覚えています」

 

 テルさんが味噌汁をすすった。

 

「忘れたことにしたら?」

 

「あんたが忘れんさい」

 

 春江は里奈を見た。

 

「肉じゃがは昨日作ったね」

 

「はい」

 

「じゃがいもが少し硬かった」

 

「すみません」

 

「もう一回作ったら、柔らこうなるかもしれんね」

 

 里奈は顔を上げた。

 

「それは、もう三日泊まってもいいという意味ですか」

 

「うちは旅館じゃないよ」

 

「分かっています」

 

「裏に小さい部屋がある。昔、縫い物をしよったところ。掃除して、月に一万円」

 

「一万円でいいんですか」

 

「風呂は最後。晩ご飯は三日に一回。買い物は別」

 

「別というのは?」

 

「頼んだら、三百円払う」

 

 里奈はすぐには答えなかった。

 

 泊めてもらうのではない。働く代わりに置いてもらうのでもない。家賃を払い、頼まれたことには金を受け取る。

 

「お願いします」

 

 春江はうなずいた。

 

「ほんなら今日、掃除しんさい。埃は家賃に入っとらんけえ」

 

 テルさんが里奈の茶碗へ、残っていた卵焼きを一切れ置いた。

 

「お祝い」

 

「テルさんが作ったんですか」

 

「ハルさん」

 

「では、テルさんからのお祝いではないでしょう」

 

「私があげたけえ、今は私のよ」

 

 春江が小さく咳をした。

 

「こほ……人の卵焼きで、ええ顔せんさんな」

 

第五章 一人で下りる坂

 

 裏の部屋には、机が一つと古い箪笥があった。

 

 窓を開けると、隣の屋根しか見えなかった。少し身を乗り出せば、その向こうに海の端が見えた。

 

 里奈は机の上にノートを置いた。

 

 最初の頁に、小川の名前を書いた。

 

〈牛乳。一週間に一本。卵は残りを確認。三百円〉

 

 次の頁には、商店街の靴屋の主人を書いた。

 

〈話を聞く。息子のこと。テルさん担当〉

 

 書いてから、里奈は線を引いて消した。話の中身は書かないほうがよいと思った。

 

 その週の終わりに、里奈は一度だけ大阪へ戻った。

 

 月末で部屋を引き払わなければならなかった。朝の電車で出て、電気と水道を止め、冷蔵庫に残っていた調味料を捨てた。

 

 会社から届いた段ボール箱は、開けたときのまま部屋の隅にあった。

 

 マグカップとハンドクリームを、今度は自分の手で別の箱へ詰め直した。必要なものは尾道へ送り、家具は引き取りを頼んだ。

 

 母から電話が来た。

 

「今、どこにいるの」

 

「広島」

 

「広島のどこ」

 

「まだ決めてない」

 

 嘘ではなかった。いつまでいるかは、まだ決めていなかった。

 

「元気なの?」

 

「ご飯は食べてる」

 

「聞いていることが違うでしょう」

 

 里奈は返事をしなかった。

 

 夜の電車で尾道へ戻った。駅前から、空になったキャリーバッグを引いて春江の家まで上った。

 

 三日前には何度も止まった石段を、その日は一度休んだだけで上れた。

 

 玄関を開けると、春江が食卓に肉じゃがを残していた。

 

「じゃがいも、柔らかいですね」

 

「作った人が違うけえ」

 

 テルさんは二階から顔を出した。

 

「おかえり」

 

 里奈は、その言葉に返事をするまで、少し時間がかかった。

 

 翌日の午後、テルさんが戸を叩いた。

 

「上田さんところへ行くよ」

 

「何をするんですか」

 

「行ったら分かる」

 

「先に分からないと、準備ができません」

 

「電球を替える」

 

「脚立はありますか」

 

「知らん」

 

「電球の大きさは?」

 

「丸い」

 

「電球はだいたい丸いです」

 

 上田の家には脚立がなく、電球の口金も、買ってきたものとは違っていた。

 

 二人は一度坂を下り、電器店で交換し、また上った。

 

「先に聞いておけば、一度で済みました」

 

「上田さんも知らんかったよ」

 

「見れば分かります」

 

「見に来るために上ったんじゃろ」

 

「写真を撮って送ってもらえばいいんです」

 

「上田さん、電話は線がついとるよ」

 

 里奈は黙った。

 

 新しい電球が点くと、上田は三百円を里奈へ渡した。テルさんも一緒に働いたから百五十円ずつにしようとしたが、テルさんは受け取らなかった。

 

「私は見とっただけじゃけえ」

 

「坂を二往復したでしょう」

 

「歩くのに金をもろうたら、どこにも行けんようになるよ」

 

 上田の家を出たあと、テルさんは坂の途中で石垣へ手を置いた。

 

「少し休みますか」

 

「電球一つに二往復したけえ、景色も二回見んと損じゃろ」

 

 そう言ったが、海を見ているあいだ、テルさんはしばらく口を開かなかった。

 

 里奈は三百円をノートの間へ挟んだ。

 

 頼まれごとは、少しずつ増えた。

 

 郵便局へ封筒を出しに行った。病院の予約時間を紙へ大きく書いた。携帯電話に届いた孫の写真を、何度も同じ人に見せた。

 

 できないこともあった。

 

 屋根へ上がって雨樋を見てほしいと言われたときは断った。病院でもらった薬を代わりに選んでほしいと言われたときも断った。

 

「屋根、上らんの?」

 

 帰り道でテルさんが言った。

 

「落ちたら、三百円では済みません」

 

「三千円なら?」

 

「上りません」

 

 翌朝、テルさんが二軒分の紙を持ってきた。

 

「どちらへ行きますか」

 

「私は海岸のほう。里奈ちゃんは栗原さん」

 

「一人でですか」

 

「嫌なら私が行くよ」

 

 里奈は紙を受け取った。

 

「行けます」

 

「道、分かる?」

 

「分からなければ聞きます」

 

 テルさんは何も言わず、海岸へ向かう坂を下りた。

 

 里奈は反対側の細い道へ入った。一つ目の角を間違え、行き止まりになった。戻って別の階段を下りると、見覚えのない寺の前へ出た。

 

 約束の時間まで、あと十分だった。

 

 里奈は走らなかった。石段で転べば、もっと遅くなる。近くで鉢植えに水をや

 

第六章 待っていた人

 

 一人で坂を下りるようになってから、里奈は頼まれたことを、何でもノートへ書くようになった。

 

 名前。時刻。すること。預かった金。

 

 一つずつなら、どれも難しくはなかった。

 

 難しくなったのは、同じ日の同じ時刻に、二人から頼まれたときだった。

 

 雨の朝、小川の牛乳を届けた帰りに、靴屋の主人が店から顔を出した。

 

「里奈ちゃん、十分だけ店を見とってくれん?」

 

「これから田辺さんのところへ行くんです」

 

「九時半じゃろ。まだ十五分ある」

 

 主人は腕時計を見せた。

 

「荷物を一つ受け取るだけじゃけえ。すぐ戻る」

 

 田辺は、九時半に家へ迎えに来てほしいと言っていた。眼科へ行く日で、受付の紙を一緒に読んでほしいらしい。

 

 靴屋から田辺の家までは、坂を上っても五分ほどだった。

 

「十分だけですよ」

 

「分かっとる」

 

 主人は傘も差さず、商店街の向こうへ走っていった。

 

 里奈は店の奥から丸椅子を出した。軒先から雨を見ながら、何度も時計を確かめた。

 

 九時二十分になった。

 

 荷物は来なかった。主人も戻らなかった。

 

 店を空けてよいとは言われていない。電話をかけようにも、主人の番号を知らなかった。

 

 九時二十五分、宅配便の車が止まった。

 

 大きな段ボール箱を二つ受け取り、伝票に店の名前を書いた。配達員が車へ戻ったところで、主人が駆けてきた。

 

「助かった。向こうで話が長うなって」

 

「十分の約束でした」

 

「まだ十五分くらいじゃろ」

 

「約束は十分でした」

 

 主人は、濡れた髪を手でなでつけた。

 

「客も来んかったんじゃけえ、同じよ」

 

 里奈は言い返さず、坂へ向かった。

 

 雨で石段の色が黒くなっていた。急ぐと靴の底が滑った。転ばない速さで上るしかなかった。

 

 田辺の家に着いたのは、九時四十二分だった。

 

 玄関は閉まっていた。

 

「田辺さん」

 

 戸を叩いたが、返事はなかった。

 

 軒下に、折り畳みの椅子が一つ出ていた。座面に雨粒が残っている。里奈を待つあいだ、田辺がそこへ座っていたのだと分かった。

 

 里奈は傘を閉じることも忘れ、しばらく椅子の前に立っていた。

 

 坂の下から、電車の音が上ってきた。屋根に落ちる雨のほうが近く、いつもより短く聞こえた。

 

 昼を過ぎて、田辺は一人で戻ってきた。

 

 片手に濡れた診察券を持ち、もう片方の手で石垣に触れながら坂を上ってきた。

 

「すみませんでした」

 

 里奈は坂の途中まで迎えに下りた。

 

「靴屋さんに十分だけ頼まれて、荷物が遅れて、それで——」

 

「病院には間に合うたよ」

 

「受付の紙は?」

 

「看護師さんが書いてくれた」

 

 田辺は里奈の横を通り、家の前まで上った。鍵を出す指が震えていた。

 

「三百円は」

 

 里奈が言うと、田辺は振り返った。

 

「来てくれた日に払うよ」

 

 責める声ではなかった。

 

 それが、かえってつらかった。

 

「次の病院は、いつですか」

 

「来月」

 

「その日は、私に行かせてください」

 

「まだ頼んどらんよ」

 

 田辺は戸を開け、家へ入った。

 

 残された椅子を、里奈は畳んだ。濡れた座面を袖で拭き、玄関脇へ立てかけた。

 

 春江の家へ戻ると、テルさんが台所でりんごの皮をむいていた。細くつながった皮が、膝の間まで垂れている。

 

「田辺さん、行ってしまっていました」

 

「そう」

 

「靴屋さんが戻ってこなかったんです」

 

「そう」

 

「私が悪いと思いますか」

 

 テルさんは途中で切れたりんごの皮を見た。

 

「田辺さんは、誰を待っとったん?」

 

「私です」

 

 それだけでよかった。

 

 里奈は部屋へ戻り、ノートを開いた。

 

 同じ時刻に二つの約束を入れない。終わる時刻を先に決める。遅れると分かったら、頼んだ人へ知らせる。

 

 三行書いてから、最後の一行を消した。

 

 知らせれば遅れてもよい、という意味に見えた。

 

 翌月、田辺の診察日の朝、里奈は約束より二十分早く家の前へ行った。

 

 折り畳みの椅子は出ていなかった。

 

 戸を叩かず、石段に座って待った。

 

 屋根の向こうから朝日が差し、濡れていた石の色が少しずつ乾いていった。

 

 九時になると、戸が開いた。

 

 田辺は帽子をかぶり、診察券を首から下げていた。

 

「早いね」

 

「待つのも、頼まれたうちですから」

 

 田辺は何も言わず、玄関に鍵をかけた。

 

 坂を下りきったところで、田辺が歩みを止めた。ポケットから百円玉を三枚出し、里奈へ渡した。

 

「まだ病院へ着いていません」

 

「今日は来たけえ」

 

 里奈は三枚を握った。

 

 雨の日にもらえなかった三百円と、同じ金ではなかった。