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第十七章 残すもの、渡すもの

 

 フィールドリンクの報告は、京都市内の外からも届くようになった。

 

 学生が実家へ帰ったとき、父親の工場で見つけた工夫。アルバイト先で、客を待たせなくなった注文の取り方。留学生が気づいた、外国人にも意味が伝わる案内の書き方。

 

 山下は、報告が届くたび、すぐ顧客へ持っていくのをやめた。

 

 その会社が本当にどこへ行きたいのか。最初に見せられた困り事の奥に、何があるのか。それを聞いてから、紹介する相手を選んだ。

 

 ある老舗旅館では、外国人客への案内を変えたいという相談があった。

 

 学生は、玄関で靴を脱ぐ場所が分からないことを報告した。宏は、英語の案内を増やせば済むと考えた。

 

 現場を見た宏は、英語のできる仲居だけが、若い仲居へ説明を移していることに気づいた。帳場の脇には、客からよく聞かれることをまとめた手書きのノートがあり、表紙に〈来年からの案内〉と書かれていた。女将も打ち合わせのたび、「来年から困らんように」と口にした。

 

 山下は、女将に尋ねた。

 

「ほんまに変えたいのは、玄関ですか」

 

「ほかに、どこがあります」

 

「英語のできる仲居さん一人に、何でも任せてはると聞きました。来年から困らんようにする資料ばかり増えてます」

 

 女将の顔から笑みが消えた。

 

「その人、来年、辞めはるんと違いますか」

 

「誰から聞かはったんです」

 

「聞いてません。けど、あのノートも、若い人への教え方も、残る人のための準備に見えました。玄関の話だけやったら、女将さんが私らを呼ばはると思えへんかったんです」

 

 長い沈黙のあと、女将は茶を替えさせた。

 

「新しいお茶が出たら、話が続くいうことですか」

 

「余計なことまで覚えはりましたな」

 

 女将は、ようやく仲居の退職を話した。

 

 佳織は、外国人対応に成功した別の旅館の女将を紹介した。二人は同じ席で、うまくいった話より、最初に従業員から反対された話を長くした。

 

 宏は、案内板より先に、仲居たちが同じ質問へどう答えているかを見た。真由美は、英語のできる人を新しく雇う費用と、いまいる人が少しずつ覚える費用を並べた。

 

 導入後、女将は言った。

 

「英語のできる仲居が、英語の説明ばっかりせんようになりました。やっと、お客さんの顔を見る時間ができました」

 

 京都テクノリンクの仕事は、機械を紹介するだけではなかった。

 

 困っている会社と、もう同じことには困っていない会社をつなぐ。その間へ入り、成功した理由と失敗した理由を聞き、相手の会社で残すものを決める。必要なら機械を入れ、人の動きを変え、結果が出るまで通う。

 

 顧客が買ったのは、成功した会社の真似ではない。

 

 自分の会社で失敗する可能性を小さくしながら、新しいものへ進む方法だった。

 

 売上が事故前へ戻るまで、一年近くかかった。

 

 同じ売上でも、残る利益は大きくなった。真由美は紹介料だけを利益にせず、調査、設計、導入後の支援へそれぞれ値段をつけた。

 

「紹介だけで取ったら、楽やのに」

 

 山下が言う。

 

「紹介料をようけくれる機械ばっかり、勧めるようになります」

 

「僕を信用してへんのか」

 

「人は信用してます。仕組みは信用してません」

 

 真由美は、うまくいった会社へ支払うノウハウ協力費を先に分けた。

 

「人の信用を守るために、数字で逃げ道をふさぐんです」

 

 山下は返事をせず、判を押した。

 

 宏は、自分一人ですべての現場を見るのをやめた。若い技術者を連れ、機械を開ける前に、人がどう動いているかを見せた。

 

 木崎の工場で、その様子を見られた。

 

「やっと、自分の耳を貸せるようになったな」

 

「貸したら、返ってきませんか」

 

「耳は減らへん。増える」

 

 木崎は機械を動かした。

 

 一定の回転音の中で、若い技術者が耳を澄ませた。

 

 佳織も、以前のように一人で仕事をつながなくなった。

 

 ゴルフ場で聞いた話を、相手の許しを得て町家へ持ち帰る。次に会うときは山下を連れ、現場へは宏を送り、金の話になる前に真由美を入れた。

 

「うち一人のほうが、早いんやけどな」

 

「ほな、一人でしたらええ」

 

 山下が言うと、佳織は首を振った。

 

「うち一人が倒れたら、また全部止まるやろ」

 

 事故のことを、自分から仕事へ結びつけたのは初めてだった。

 

 山下は何も言わなかった。

 

 新しい赤い車は、以前より乗り降りしやすい四ドアだった。色だけは変わらない。

 

「赤は変えへんのやな」

 

「うちが事故に合わせて、何もかも変えると思う?」

 

「残すもんは、残すんやな」

 

「ようやく、京都テクノリンクらしいこと言うようになった」

 

 佳織は助手席を顎で示した。

 

「乗る?」

 

「運転、荒ないやろな」

 

「降りる?」

 

「まだ乗ってへん」

 

 赤い車は、二人を乗せて町家を離れた。

 

第十八章 明日の欄

 

 フィールドリンクを始めて五年、京都テクノリンクは創業七年目を迎えていた。

 

 京都テクノリンクは、二年前に小さなビルへ移っている。創業した町家は、学生が報告を持ち寄り、会社同士が経験を話す場所として残した。

 

 高瀬は大学を卒業し、京都テクノリンクへ入った。沙耶は別の会社へ進んだが、月に一度、学生の集まりへ顔を出した。

 

 春の説明会で、一人の学生が山下へ尋ねた。

 

「僕らの見つけたことが、会社の利益になるんですよね」

 

「なる。ならんかったら、続けられへん」

 

 学生たちが少し身構えた。

 

「そやけど、君らを安う使うて利益にするんやない。君らが、うまくいってる現場を見つける。河村が、ほんまにうまくいってるか確かめる。僕が、それを必要としてる会社を探す。村上が、教えてくれた会社にも金が戻る形にする。大野が、両方の会社を同じ席へ連れてくる」

 

「代表は、何するんです?」

 

 後ろにいた高瀬が聞いた。

 

 笑いが起きた。

 

 以前の山下なら、誰より働くと答えていた。

 

「どこと、どこをつないだらええか決める」

 

「矢印を書く人ですね」

 

「そういうことにしとこ」

 

 説明会が終わり、学生たちが帰り支度を始めたころ、町家の電話が鳴った。

 

 真由美が受話器を取った。

 

「はい、京都テクノリンクでございます」

 

 相手の声を聞き、宏へ渡した。

 

 西陣の帯地問屋の主人だった。

 

〈いや、何も困ってへんのですけどな〉

 

 主人はそう言って、しばらく黙った。

 

 電話の向こうで、何かを引きずる音がした。人の声が重なり、すぐに遠ざかる。

 

〈河村さん、明日、こちらのほうへ来はる用事、ありますやろか〉

 

「何時ごろが、よろしいですか」

 

〈いや、急ぎまへん。ほんまに、近くへ来はるついでで〉

 

 宏が返事をする前に、佳織が顔を上げた。

 

 山下は口を挟まず、宏の返事を待っている。

 

「朝の九時でしたら、伺えます」

 

〈ほな、お茶ぐらい用意しときます〉

 

 通話が切れた。

 

「何も困ってへんのやろ」

 

 山下が尋ねた。

 

「困ってはります」

 

「何で分かる」

 

 佳織が先に笑った。

 

「お茶が出るそうや」

 

 真由美は明日の予定表を確かめた。山科の開始を三十分早められるか連絡し、伏見の担当者にも無理がないことを確かめてから、西陣の欄へ宏の名を書いた。

 

 表で自転車の止まる音がした。

 

 高瀬がフィールドリンクの冊子を持って戻ってきた。

 

「さっきの問屋、報告があります。若い職人が荷を運ぶたび、奥の作業場が止まってます」

 

 宏は、電話の向こうで聞こえた音を思い返した。

 

「明日、一緒に来てもらえますか」

 

「はい」

 

 真由美が町家の灯りを一つ消した。

 

 山下と佳織が先に格子戸を出る。二人は、明日の西陣へ誰を紹介できるか、もう言い合っていた。

 

 宏は鞄を持ち、真由美とあとに続いた。

 

 暮れかけた西陣の道に、家々の灯りが一つずつともっている。戸を閉めた店の奥から、まだ仕事を続ける音が聞こえた。

 

 社員証を返した日の正門が、ふいに浮かんだ。

 

 五年分の私物は、紙袋一つに収まった。その少し先で、長い髪の女が送迎バスを待っていた。

 

 あの日には、まだ名前も知らなかった。

 

 五年会わなかった先輩は、宏のことを忘れていなかった。何をさせるかも決めないまま、町家へ連れてきた。

 

 その町家の前へ、やがて赤い車が入ってきた。

 

 運転していた女は、閉じた戸を見ると、開かない理由より、どうすれば中の人が開けたくなるかを考えた。

 

 三人は、宏の少し先を歩いている。

 

 山下が振り返った。

 

「河村、明日の西陣、何時や」

 

「九時です」

 

「ほな、遅れんなよ」

 

「先輩も来るんですか」

 

「俺が見つけた会社や」

 

「仕事を見つけたのは、フィールドリンクです」

 

 佳織が笑った。

 

「誰の仕事か決めてる間に、明日になるで」

 

 真由美は何も言わず、宏の歩調に合わせた。

 

 町家を出たときには見えなかった月が、屋根の間に出ている。

 

 宏は鞄の中の予定表を開いた。

 

 明日の西陣の欄に、真由美の字で、河村、と書かれていた。