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『 長崎 名前のない写真 』
第三章 消えた写真
知らない番号から届いたメッセージを、沙羅は何度も読み返していた。
「その写真を撮った場所には、もう行かないでください。」
文章だけを見れば、忠告とも警告とも取れる。けれど、問題は、その相手が四人の行動を知っていることだった。
祖母の家で写真を撮ったことも、その写真の中に「9」という数字が写っていることも、つい先ほどまで四人以外には知られていなかったはずである。
沙羅は画面を閉じたものの、すぐにはスマートフォンをバッグへしまわなかった。海の向こうを眺めながら、母親に連絡するべきか迷っている。孝も、同じことを考えていた。
ここで怖がって旅行を中止するほどのことではない。少なくとも、今のところ誰かに直接危害を加えられたわけではないし、届いた文章も具体的な脅迫ではない。知らない人間からのいたずらという可能性だって残っている。
ただ、いたずらにしては、知っていることが多すぎる。
涼子はさきほど撮った写真をもう一度確認していた。問題の「9」が写っている場所は、祖母の家の居間にある古い木箱のそばだった。写真そのものには、木箱以外に特別なものは見当たらない。
それでも母親は、その数字を他人に知らせるなと言った。そして、ほとんど時間を置かず、別の誰かが同じことを知っていた。浩一がスマートフォンを覗き込みながら、しばらく黙って考えていた。
「この番号、調べられないかな」
孝は首を横に振った。
番号を検索しても、個人のものなら簡単に身元がわかるわけではない。それに、今ここで相手を探そうとすることが、かえって状況を悪くする可能性もある。四人は、結局その場で何もせず、ホテルへ戻ることにした。
帰り道、誰も昨日までのように観光地の話をしなかった。それでも、四人の間に重苦しい沈黙が続いたわけではない。長崎の街は夕方を過ぎても人の往来が多く、土産物店の灯りや飲食店から漏れる声が、歩道まで流れている。
そうした普通の街の様子が、むしろ四人を落ち着かせてくれた。
何か特別な事件が起きているようには見えない。長崎には今日も普通の生活があり、観光客は観光客として歩いている。自分たちだけが、そこに妙な意味を見つけようとしているのではないか。孝は何度もそう考えた。
けれど、ホテルの近くまで戻ったところで、沙羅が足を止めた。
向かい側の歩道に、昼間の祭りの準備をしていた年配の男性が立っていた。男性は四人を見ているわけではない。店先に並べられた祭りの道具を確認しているようだった。
孝が気づいたことに気づいたのか、男性が一度だけこちらを見る。視線が重なった。男性は何もせず、そのまま店の中へ入っていった。
孝は、昼間にこの男性と視線が重なったときの表情を思い出した。祖母のことを知っている。それは間違いない。しかし、それ以上のことはわからない。
男性に尋ねれば何かがわかるかもしれないが、今の段階で自分たちから近づくのはやめておいたほうがいい。少なくとも、沙羅の母親が何かを知っている以上、家族の事情を外から来た三人が勝手に掘り返すべきではない。
ホテルへ戻る。四人はロビーで別れ、それぞれの部屋へ向かった。
ところが、孝が部屋へ入ってしばらくすると、浩一からメッセージが届いた。今から少し話せないか、という。孝は部屋を出た。
廊下の突き当たりにある小さな休憩スペースで、浩一が窓の外を眺めていた。そこからは長崎駅の周辺が見える。夜の街に路面電車が走り、建物の灯りが斜面に沿って広がっている。
浩一は、昼間からずっと考えていたことがあるらしい。あの写真についてだった。
祖母の家で撮った写真には、「9」だけではなく、もう一つ気になるものが写っている。
孝も写真を確認した。木箱の後ろに、壁掛けの古い写真がある。その写真自体は小さく、人物の顔までは判別できない。ただ、写真の右端に、何か白い建物が写っている。浩一は、それが気になっていた。
写真を拡大しながら、長崎の古い地図と照らし合わせているという。しかし、現在の地図では一致する場所が見つからない。
孝は画面を見ながら、昨日祖母の家へ向かう途中で見た石垣のことを思い出した。
あの辺りには、観光案内には載っていない古いものがいくつも残っていた。長崎では、街の姿が何度も変わっている。
埋め立てられた土地もあれば、道路になった場所もある。原爆によって建物が失われ、その後に新しい街がつくられた場所もある。
古い写真の背景を現在の地図だけで探すのは、最初から無理があるのかもしれない。浩一は、それ以上調べるのをやめた。むしろ、調べすぎないほうがいい。そういう結論になった。孝も同じだった。
この旅行は、まだ始まったばかりなのだ。何かがおかしいと感じても、すぐにそれを事件と決めつけてはいけない。
その夜は、それ以上何も起こらなかった。
*
翌朝、沙羅がホテルの朝食会場に姿を見せたとき、昨日より表情が明るかった。母親から連絡があり、祖母は大きな怪我はないという。四人の間に、ようやく安堵の空気が戻った。
ただ、祖母は昨夜から親戚の家にいるらしく、詳しいことはまだ聞けていない。本人は元気だというから、とりあえず大きな心配はない。それなら、今日は予定どおり観光できる。浩一がそう考えたのも無理はなかった。
昨日のことは気になる。けれど、祖母が無事なら、それだけで状況は大きく違ってくる。
沙羅も、母親から「友達との旅行を続けて」と言われたらしい。
四人は朝食を済ませ、長崎の街へ出た。最初に向かったのは眼鏡橋だった。
中島川に沿って歩くと、昨日までとは違った長崎が見えてくる。観光客が写真を撮る橋のすぐそばで、地元の人が自転車で通り過ぎる。川面には朝の光が揺れ、石造りの護岸にはところどころ古さが残っていた。
孝は橋の上から川を眺めた。
京都にも川はある。
鴨川のように街の中を大きく流れる川とは違い、中島川はもっと身近で、街の隙間を縫うように続いている。涼子が橋の下を覗き込んでいる。沙羅は川沿いの道を見ていた。そのときだった。沙羅のスマートフォンが鳴った。
母親からだと思ったらしい。しかし、画面に表示された番号は昨日とは違っていた。
沙羅はしばらく画面を見つめたあと、電話に出た。孝たちは少し離れて待った。電話は長くなかった。沙羅が戻ってくる。その表情から、さきほどまでの安心感が消えていた。祖母は親戚の家に到着していなかった。
昨夜、親戚の家へ向かったあと、途中で一人になっていた。親戚の家には、結局到着していない。
母親は、祖母が自分の意思でどこかへ向かったのではないかと考えていたが、警察に確認したところ、その時間帯に祖母が一人で歩いている姿が防犯カメラに映っていた。ただし、その映像には不自然なところがあった。
祖母は、普段なら決して歩かない方向へ向かっていた。浦上方面だった。
四人は川沿いに立ったまま、しばらく動かなかった。昨日までなら、浦上へ行くことを観光の予定として考えただろう。祖母が向かった場所として、その地名が出てきた。
しかも、昨日見た写真には「9」という数字があり、知らない人物からは、その写真を撮った場所へ行くなと言われている。
それでも、沙羅はすぐに浦上へ行こうとは言わなかった。むしろ、三人を見て、申し訳なさそうにしている。ここから先は自分の家族の問題だ。三人まで巻き込むべきではない。その気持ちは、孝にも理解できた。
だからこそ、孝は自分たちから何かを決めるのではなく、まず警察や沙羅の母親に任せるべきだと思った。四人はその日の観光を続けることにした。事件を追うためではない。
沙羅が一人で抱え込まないようにするためでもあり、何より、今はまだ自分たちが何をすべきなのか誰にもわからないからだった。眼鏡橋を離れ、四人は寺町へ向かった。
寺が並ぶ通りには、観光客の姿もあるが、朝の時間帯ということもあり、どこか静かだった。長崎には、キリシタンの歴史だけが残っているわけではない。
多くの寺院があり、海外との交流によって異なる文化が流れ込んできた一方で、それ以前から続いてきた日本の暮らしも残っている。そうしたものが、互いに消し合うことなく同じ街の中にある。
孝は、長崎という街の複雑さを少しずつ理解し始めていた。
そして、その複雑さこそが、今回の出来事を難しくしているのかもしれない。
古い写真一枚を手掛かりにしても、そこから先にはいくつもの時代が重なっている。キリシタンが信仰を守った時代。鎖国の中で外国との窓口になった時代。幕末に新しい世界が流れ込んできた時代。
そして、原爆によって、それまでの街が一瞬で失われた時代。そのすべてが、現在の長崎の中に何らかの形で残っている。昼過ぎ、寺町を抜けたところで、沙羅が足を止めた。道路の向こうに、古い石垣が見えたからだった。
そこは昨日通った道ではない。
けれど、沙羅はその石垣を見て、何かを思い出そうとしているようだった。孝も目を向ける。石垣の一部に、小さな金属板が取り付けられている。観光案内のものではない。古い文字が刻まれているようだが、遠くからでは読めない。
沙羅が近づこうとした。その瞬間、後ろから自転車のベルが鳴った。四人が道の端へ寄る。
自転車が通り過ぎる。その荷台には、祭りの道具らしい木箱が積まれていた。孝は何気なくその木箱を見た。側面に、赤い文字がある。
九。
昨日、祖母の家の写真に写っていた数字と同じだった。自転車はそのまま坂を下っていく。ただ、孝の中で、いくつかの出来事が静かにつながり始めていた。祖母の家。古い写真。
「9」という数字。
祭りの道具。そして、浦上へ向かった祖母。まだ、何の意味があるのかはわからない。けれど、少なくとも一つだけはっきりしてきた。この数字は、祖母の家だけに残されているものではない。
長崎の街のどこかに、同じ数字を知っている人間がいる。そして、その人間は、四人の行動を見ている。
孝はそう考えながら、坂の下へ消えていった自転車を見つめていた。そのとき、沙羅のスマートフォンに新しいメッセージが届いた。送り主は、昨日と同じ知らない番号だった。今度は写真が一枚だけ添付されている。
四人は画面を覗き込んだ。そこに写っていたのは、今いる場所だった。
さっき四人が石垣の前に立っている姿を、少し離れた場所から撮った写真。撮影されたのは、ほんの数分前だった。写真の隅には、見覚えのない男の姿が小さく写っている。その男が誰なのか、四人にはわからない。
ただ、その手には、昨日の写真に写っていたものとよく似た、小さな灯籠が握られていた。
