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「 尾道の坂を下って 」 ⑧ー⑥
第十章 歌わない朝
朝、里奈は静けさで目を覚ました。
窓の向こうが白んでいた。
いつもなら、テルさんの下手な英語が聞こえる時間だった。
音楽プレーヤーは机の上に置かれたままだった。イヤホンは畳へ落ちている。
「テルさん」
返事がなかった。
肩へ触れると、体が重く揺れた。
「テルさん」
里奈は廊下へ飛び出した。
「春江さん!」
自分の声が、家の中で大きく響いた。
春江が杖をついて出てきた。
「どうしたん」
「テルさんが起きません」
救急車を呼んだ。
住所は番地まで答えられた。
「倒れた方の年齢は?」
「四十歳くらいです」
「正確には分かりますか」
里奈は春江を見た。春江も首を横に振った。
救急隊員は、昨日の様子や持病、飲んでいる薬を尋ねた。
「分かりません」
里奈は何度も同じ答えをした。
毎日一緒にいたのに、テルさんのことを何も知らなかった。
担架が狭い階段を下ろされていく。里奈は上着だけを羽織り、救急車へ乗った。
春江は玄関に立っていた。
「一緒に行かなくていいんですか」
「私は坂を下りるほうが時間がかかるよ。あんた、行きんさい」
扉が閉まる直前、春江が小さく咳をした。
「こほ……起きたら、朝ご飯食べんさい言うて」
病院の待合室で、里奈はこの一週間のことを考えた。
歌を途中でやめた朝。坂の途中で立ち止まる回数が増えたこと。上がり框へ置かれた買い物袋。
一つずつなら、どれも理由のあることに見えた。暑い日だった。重い袋だった。歌詞は初めから曖昧だった。
毎日見ていたことと、分かっていたことは同じではなかった。
名前を呼ばれた。
医師は、意識は戻っていると最初に言った。
里奈の膝から力が抜けた。
「今のところ、命に関わるような異常は見つかっていません。ただ、意識を失った原因を調べる必要があります。今日は入院して、詳しい検査をしましょう」
「私が何かすればよかったんでしょうか」
「倒れた時刻も分かりませんから、今は何とも言えません。発見して救急車を呼んだ。それで十分です」
十分ではないと思った。
病室のテルさんは、いつもより小さく見えた。
「朝ご飯、食べんさいって」
里奈は言った。
「誰が?」
「春江さんです」
「里奈ちゃんは食べた?」
「まだです」
「ほんなら、里奈ちゃんに言うたんよ」
声は弱かったが、いつものテルさんだった。
「家へ戻って、取ってきてほしいもんがあるんよ」
「何ですか」
「音楽を聴くやつが載っとる台。あれの下に封筒を貼っとる」
「封筒ですか」
「そう。それを持ってきて」
「分かりました」
「封筒の中も見て」
「見ません」
「お札が抜けとっても、分からんじゃろ」
「誰が抜くんですか」
「知らんよ。じゃけえ数えて」
テルさんは少し笑い、目を閉じた。
第十一章 テーブルの下
春江の家へ戻ると、食卓に朝食が二人分残っていた。
「どうじゃった?」
「意識は戻りました。詳しい検査をするそうです」
「そう」
春江はそれ以上聞かなかった。
「怖くないんですか」
「怖いよ」
春江は冷めた味噌汁を温め直した。
「怖がっても、検査は早うならんけえ」
里奈は二階へ上がった。
音楽プレーヤーが載った小さな台を持ち上げると、裏側に茶色い封筒が貼られていた。
端が何度も貼り直され、テープが重なっている。
中を見てもいいと言われたことを思い出した。
封を開けた。
一万円札が二十枚入っていた。
いちばん下に、古い葉書が一枚あった。
角が丸くなり、宛名の文字も薄れていた。消印には京都とあった。
裏には、短い文だけが残っていた。
〈父さんが倒れました。母さんは、帰るなら駅まで迎えに行くと言っています。返事だけでもください。千鶴〉
里奈は畳へ座り込んだ。
里奈は、三百円を数えることで、テルさんの暮らしまで分かったつもりになっていた。
葉書には日付があった。十五年以上前だった。
テルさんが京都へ帰ったのか、その返事を出したのかは分からなかった。
封筒の古い紙の匂いを嗅いでも、その金が何のために置かれていたのかは分からなかった。
封筒を鞄へ入れ、一階へ下りた。
「病院へ戻ります」
「お金、あった?」
春江が言った。
「知っていたんですか」
「知らんよ。テルちゃんが隠すところは、だいたい決まっとるけえ」
「二十万円ありました」
「ほう」
「驚かないんですか」
「私のお金じゃないけえ」
春江は弁当箱を差し出した。
「これ、持っていきんさい」
「テルさんのですか」
「病院のご飯が出るじゃろ。あんたのよ」
病室で封筒を渡すと、テルさんは中を確かめ、ベッド脇の引き出しへ入れた。
「葉書も見たん?」
「見ていいと言ったでしょう」
「お金だけのつもりじゃった」
「千鶴さんは?」
「妹」
テルさんは枕元の水を一口飲んだ。
「高校を出た春に、父親と喧嘩して家を出たんよ。尾道の喫茶店で働かせてもろうてね。あの葉書が来たときは、帰る服まで買うた」
「帰らなかったんですか」
「何を言うか決まらんかった。明日考えよう思うた」
テルさんは目を閉じた。
「その明日が、長うなった」
「返事は?」
「書いたよ」
「出したんですか」
テルさんは答えなかった。
里奈は封筒へ目を落とした。
「この二十万円は、京都へ帰るためですか」
「最初はね。手ぶらで帰ったら格好悪い思うた。五万円貯まったら、十万円あったほうがええ。十万円貯まったら、もう少しあったほうがええ」
「どうやって貯めたんですか」
「喫茶店を辞めたときに残ったお金と、三百円を少しずつ。帰る日が決まらんけえ、使う日も来んかった」
「今は?」
「病院代にちょうどええね」
テルさんは引き出しを閉めた。
「里奈ちゃん」
「はい」
「話せる人がおるうちに、話しときんさい」
「両親にですか」
「誰でもええよ。言わんかったことは、あとから重うなるけえ」
家へ戻ると、春江が玄関で言った。
「小川さんから電話」
「テルさんのことですか」
「違うよ。牛乳がないんじゃって」
「断りますか」
「頼まれたのは、あんたじゃろ」
里奈は二階へ上がった。
鞄へノートと財布を入れた。
小川の頁を開き、牛乳の横に今日の日付を書いた。
「行ってきます」
春江は食卓から里奈を見た。
「病院へ?」
「スーパーです」
里奈は坂を下りた。
第十二章 戻らなかった人
倒れてから二日目の午後、テルさんの検査結果が出た。
医師は、頭や心臓に大きな異常は見つからなかったと説明した。疲れと水分不足に、血圧の変動が重なった可能性があるという。ただ、意識を失った原因を一つに決めることはできないため、もうしばらく様子を見ることになった。
「血圧が少し高いですから、定期的に診てもらってください。無理をしないこと。食事も、塩分を控えて」
テルさんはうなずいた。
「りんごは食べてもええですか」
「果物は食べすぎなければ」
「一日三個は?」
「多いですね」
テルさんは残念そうな顔をした。
テルさんが戻らないあいだも、朝になると電話は鳴った。
小川の牛乳を届け、田辺と病院まで歩いた。靴屋の主人は、テルさんはいつ帰るのかと聞いたあとで、荷物を一つ受け取ってほしいと言った。
春江は毎晩、食卓に茶碗を三つ出した。二つしか使わないと分かると、一つを伏せて戸棚へ戻した。
里奈は頼まれごとを終えてから病院へ行った。テルさんは二日目には窓際まで歩き、三日目には看護師から、廊下で歌わないよう注意されていた。
退院したのは、倒れてから五日目だった。
病院から春江の家まで、二人はゆっくり歩いた。坂の下で何度も休んだ。
「家へ電話したん?」
テルさんが聞いた。
「まだです」
「そう」
テルさんは坂の途中で立ち止まった。
「私は、もう少しここにいます」
「そう」
「頼まれたことも続けます。でも、一人で行かない家と、断ることを、ノートの最初に書きます。時間のかかることは、先に金額を決めます」
「面倒じゃねえ」
「面倒にしておかないと、続きません」
テルさんは少し笑った。
「賢うなったね」
「りんごは食べていません」
二人はまた坂を上った。
春江の家の前には、小川が立っていた。手に牛乳の空き瓶を持っている。
「テルちゃん、もう大丈夫なん?」
「歌えるよ」
「歌は休んでもええよ」
小川は里奈へ三百円を差し出した。
「昨日の分」
「もう受け取りました」
「あれは牛乳の分。これは、ちゃんと来てくれた分」
「同じです」
「ほんなら来週の分」
「まだ買っていません」
「先に払うたら、来週も来るじゃろ」
里奈は迷ったあと、受け取った。
「来週、卵は?」
「要らんよ。まだ四個あるけえ」
小川は坂を下りていった。
テルさんが里奈の手の三百円を見た。
「来週も行かんといけんね」
里奈は硬貨をポケットへ入れた。
「約束しましたから」
