山から帰ってきたあとは、とてもきつかった。
島に1週間いて、そのまま山に行って。
「天気の子」の街、代々木に暮らしていた時間を「時の川を横切るような」って書いたけど(代々木の街とアフリカと)、あの頃と同じような空気感だった。
この街の波動が落ちたのか、単に自分自身が自然の中にいて、人の波動と隔たっているのか。
とにかく海の生物が陸にあげられたような、空の生物が地上に降りることを運命づけられたような、そんな違和感の中で過ごした。
そんなときは、自然がとてもやさしく感じる。
水滴が、花びらのひとつひとつが、森のさざめきが、わたしに語りかけてくれるかのように。
ヨギの治療師は、大神島から帰ってきたとき(そして、東京 〜過越の祭の時期に)と全く同じで、わたしが共感できない「やりたいこと」に邁進しようとしていて、
またわたしに対する態度がまるで彼の死んだ愛犬に対するそれと同じで気分が悪かった。
あのとき、友人が飲みに誘ってくれ、「まるで愛犬2号じゃん、今度言ってみな、『愛犬2号でーす』って」ってわたしに言った。
彼女の予測は、「犬のように扱っていたことに気づいて反省する」ということだったが、
予想に反してヨギの治療師はそれを嬉しそうに聞き、「ちっとも悪気がない」とわたしは理解した。
でも今回の一連のいろいろを「デジャヴ」だと思って眺めながら、距離を置いたほうが相手のためであろうと思った。
わたしは、自分の望まないことは全力で阻止してしまう。
見えない力で。無意識に。
そう思いながらも、誕生日を祝ってもらったお礼に、その足でヨギの治療師バースデープレゼントを買いに行った。
近いうちに渡そうと思っていたら、わたしがビジネスモデルの調査に行く予定を建てて準備をしていたものを、感情的にけなしてぶち壊したまさにその治療院に行くので時間がない、と告げてきた。
そのこと自体、こちらは動き始めたすべての応援をキャンセルすることになり、お金では修復不能な、不可逆な損失を被ったことを思い出して気分が悪かった。
しばらく会えないというなら、気分も変わるし買ったプレゼントは返品しに行こうと思った。
ら、明日時間を作るから、ご飯を食べに行こう、と言ってきた。
わたしたちはなぜか25年くらい前、目と鼻の先に住んでいた。
もちろん知らない。お互いのことは。
わたしは亀好きの元ダンナのもとに居候させてもらっていた。
その当時のことを彼に出会うまで思い出すこともなかった。でもなんかがあってあの場所に呼ばれたのだと感じる。
そして1度はひとりで歩いてみたこともある(シンクロの重なる場所には、やはり 〜練馬・江古田)。
彼の方は、馴染みがあるこの街が気に入っていて住んでいたらしいが、わたしが住んだのは、元ダンナが当時そこに住んでいたから、という受動的な理由である。
でもこういう偶然は間違いなくなにかの「ひき」である。
その「ひき」の実態はさっぱりわからないが、せっかくの接点なので、ご自慢のラーメン屋にいこう、ということになったのだった。
前回の絶交前(そして、東京 〜過越の祭の時期に)と同じように、楽しい時間を過ごした。
近々、絶交することにはなるだろうな、とは思いながら。
彼の選択している現実は、わたしの望むものと大きくズレている。
長いつきあいになるんだろうけど、今じゃない、って感じがすごくする。
しろくまさんのお母さんに、彼女が好きなお寿司を届けた。
お盆には行けなかった。
この街にも川があり、三島神社がある(産土さまにお礼と挨拶に 〜結婚の意味)。
しろくまさんとはゆっくり歩いたことがなかった。
いつも彼のバイクのうしろに乗っかって駆け抜けていたから。
古(いにしえ)からのご縁だったんだなって思う。
「後醍醐天皇に仕えていた家」とか言ってたし。
霊止って書いて(ひと)って読むらしいけど、自分の意思で動いていると思っているのも幻想だなって感じるときがある。
わたしたちは、なにかに動かされている。
ひと時雨 すぎゆくあとの空見れば ちりも残らず照る日かげかな
しろくまさんが亡くなった年の重陽の日は、代参で加波山に行っていた。
その帰りに寄ったと思う、笠間稲荷神社のおみくじ。
そのときの投稿がSNSにあがってて、不思議な気持ちになった。
あのときは、伊勢平氏おじさんとも穏やかで普通の関係だった。
このおみくじの歌を電話で告げたら、伊勢平氏おじさんは「よかったね」と言っていた。
だけど、このあと稲荷の御用で不思議な流れの中に巻き込まれていったんだった。
よく考えたらこの2年って不思議だったな。
自分の人生じゃないみたい。
ま、「美志摩かな」を生きたって感じかな。
伊勢平氏おじさんがめずらしく訪ねてきた。
淹れたお茶を飲みながら、
このあいだの帰り道(山から降りて帰る場所 〜幻想の世界をリアルに生きれるか)に話した
「すべてのことを記憶している」ということについて、
「会話というのは強弱があるものだから」ということと、
「人間はそうじゃないから(わたしのような人間は)コミュニケーションが難しい」ってことを言ってきた。
もちろん他の人は、自分が話したいことだけしか覚えてない、ということは知っている。
だから、わたしは自分のことを話さないのだ。
相手にとってどうでもいいことだから。
多くの人は、「自分の世界」を理解してほしくて話すということを理解している。
だから、それを仕事にしている。
クローゼット代わりにしているボックスが軋んできていて、元に戻そうと思って片付けた。
思いがけずたくさんのゴミがでてきて、思い切って大掃除をした。
そこにサイババつながりの友人から電話がきた。
彼もわたしも、同じ体験をしている。
自我を消していったら、現実社会で生きていくのが不自由になった、と言っていた。
わたしはしろくまさんがいたからとりあえず生きられた。
あと、なぜかコロナがきたことと、旅をしているときは非日常だから、今日まではなんとかやってこれた。
でも。
「わたしたち、騙されてたんじゃないかな」
「なんかね、自我を消したら、自我を持つものの奴隷にされちゃうような気がする」
わたしたちのババは、自我を消しなさいなんて言わなかった。
「しあわせでいなさい」と言った。
解脱する唯一の方法は、「貧しい人への奉仕」と教えてくれたが、「解脱しなさい」とは(わたしには)言わなかった。
話しているうちに、ヨギの治療師からのペット扱いを受け入れている自分と、ババ友の窮状と、世の中の貧しい人たちの悲しみが共鳴して、腹が立ってきた。
「実は最近、地球に火を放ちたい、っていうくらいの怒りを感じる時があるんだよね」
「それってさ、インドの女神様みたいだね」
「ん?なに、それ?」
「カーリー神。」
聞いた瞬間、わたしのお腹のそこに溜まっていた悲しみと怒りがこみ上げてきて大泣きした。
腹の中がひっくり返ったんじゃないかと思うくらいに。
わたしひとりの感情じゃないなにか。
これか、インドの女神。
このあいだ、まさにヨギの治療師と行った、率土神社のインドの女神(千葉の熊野の馬と鹿 〜旧暦七夕・天竺の姫と諏訪の神!?)。
あのときヨギの治療師が青ざめるほどの強風はこの予兆だったのかもね。
「変わりたい」なんていうからだよ。
「良くなりたいも欲」って言ったのに。
将門の女、っていうのも。「朝廷の偉い人を騙した九尾の狐」と殺傷石に変えられてしまった天竺の美女、玉藻(うつぼ、くず、そして、くす〜”九尾の狐と陰陽師〜玉藻の前という天竺から来た美女”)も。
彼の話によるとカーリー神は、美しいパールヴァティーという女神だったらしいのだが、悪と戦うためにすごい姿になって暴れまくったらしい。
誰も手がつけられなくなったところに、夫であるシヴァ神が呼ばれて、シヴァを踏んづけることで我に返って大暴れが止まる、ということみたい。
そうそう、虎とかライオンの上に乗ってるらしい。
虎の口ガマじゃん(瓢箪から駒が出て琉球王朝、そして、その先へ?!・新しい時代のゆくえ 〜アトランティスの記憶、から7年・次の、ステージへ)。
大石林山から大神島の先はやっぱり天竺(インド)だった。
wikiによるとこんな感じ
パールヴァティーはサティという女神の化身らしくて、それがシヴァの最初の妻。
サティはシヴァとの結婚を親に反対されて、自死するとか、サティの亡骸をもってさすらうシヴァをサティの遺体を切り刻むことで正気に戻すとか、理解できるけど、なかなか神話って強烈だな。
「シヴァが現れないと」
ババ友は言った。
カーリー神を止められるシヴァは現れるのか。
(関連記事)
真名井の縁の伊勢神宮〜橿原神宮〜罔象の女神〜大神神社に続く旅まとめ【その1】
うつぼ、くず、そして、くす〜”九尾の狐と陰陽師〜玉藻の前という天竺から来た美女”