山から降りて帰る場所 〜幻想の世界をリアルに生きれるか | かんながら

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旅の記録です

 

誕生日だから、って特になにもなかった。

 

ヨギの治療師は「女中じゃん」っていう。

言われたとおりにご飯作って出して、洗い物して。

 

野菜炒めとか、伊勢平氏おじさんがいつも買うアジフライとか。

 

別にいいんだ、それで。

なにか特別なことを望んだらキレられるし。

 

でも一年目はレストラン連れて行ってくれたんだよな。

 

考えるのはやめておこう。

自分を苦しめるような考えは。

 

 

今回は料理を美味しい、って言われた。

3年目にしてようやく。

 

このあいだも、野菜炒めを薄味でシャキッと仕上げたら、

「飲食店で出すものとは素材が違うんだから、家庭料理というものは火をよく通して味付けは濃くするものだ」みたいに言われて悲しかった。

 

 

だから、自分は美味しいって思わないけど、茹で過ぎで塩もきつすぎる枝豆とか、

びちょびちょになった野菜炒めとかを作って出した。

だから、美味しいって言われても複雑。

 

 

しろくまさんにもよく「お店の味だね」って言われて、

すごく心の深い部分で傷ついていた。

彼の場合は、褒めてくれていたんだけど。

 

 

わたし、家庭の味ってしらない。

 

祖父が自死しちゃった9歳から夕食材料セットを自分で作ってて、

家庭料理食べたことないんだもん。

母は仕事でいつも忙しかった。

たまにする外食も、母の同僚のみなさんと懐石料理だったりとか。

 

 

お子さまランチとか食べたことない。

保育園行ってるときから、伊勢志摩のアワビとかうなぎとか、松坂牛とか食べてたもん。

 

羨ましいって思われるみたいだけど、

マルシンハンバーグとか赤いウィンナーとかを食べたかったんだよ。

子どものときは。

 

 

ほんとに誰かの子どもとしてのわたしの居場所ってなかったな。

父のところにも、母のところにも。

 

 

だからこそ得られた能力も視点もあるから、もう母を恨んだりなんかしていないけど、

わたしの中には、海の底の冷たい水のような悲しみが横たわっていると感じる。

 

 

 

 

以前より、おじさんは、やさしくなった、と思う。

「情がわいた」ってやつかな。

でも、わたしを愛してくれてるわけじゃない。

愛は行動だもん。わたしにとっては。

 

 

 

あなたのように、自分と自分の家族のことしか考えない人が、

自分より弱い立場や貧しい人への思いやりが持てたらこの世の中は変わるのに。

 

 

 

 

あなたが成功できたのは、弱い立場の人たちの思いや能力を搾取してきたからだ。

大企業は、わたしが勤めていたような小さな名もない会社に安く作らせて、自らの利益を確保してきた。

 

 

建築現場だってそう。

トンネルも、橋も、実際につくるのは下請けの会社。

以前の記事(意思のチカラの使い方 〜ネガティブと、どうつきあうか)に書いたけど、

 
高度成長期の全国のダムや道路、橋は、そこに名を刻まれる大企業に働く高学歴高所得のサラリーマンによってではなく、
住所もない彼らの労働によってつくられた。
それどころか、エアコンの効いたオフィスにいるサラリーマンたちは、
炎天下で汗水流して身体を張っている彼らに養われてきた。
 
 

 

大企業の製品は「安心安全」。

そう思う消費者がいて、それはなりたつ。

それがたとえ、実態はパッケージのロゴマークだけだったとしても。

 

 

そんなの幻想だったって、牛乳を真夏の屋上で詰め替えていた事件とか、

原発の事故とかで明るみにでてわかったはずなんだけどな。

でも、私たちの意識は何も変わっていない。

 

 

 

おじさんは、「給食費が払えない子どもがいる」ってことを驚いて、

「ここまで酷くなった世界のために行動しなければ」と言った。

 

 

創ったものの手によって、壊すしかないと思う。

まいた種は、刈り取るのだ。

 

 

わたしの、無関心が生み出した、愛のない社会。

 

 

でも、今のおじさんには、あなたの無関心が創ったって自覚はないんだろうな。

だから、この世界を変えることは今の彼にはできないだろうなって思う。

 

 

帰り道、とあるわたしの反応を責めた。

「びっくりした」なんてマイルドな言葉をつかっていたが、

彼がキレていたのを知っている。

 

説明を求められたから、詳細に状況を説明した。

彼は都合のいいようにしか聞いていなかった。

 

今までに、彼にはいろんなことを提案されたが、ことごとく「状況が変わった」からと反故にされた。

 

「状況が変わったらできない」と言った、とおじさんはいうけど、

そんな条件つけていたら、約束したことにならない、ってわたしは思う。

 

確かに状況が変わったら、できないこともある。

それを「詫びる」っていうことで埋めるのではないか?

 

詫びることも必要ないと思っているおじさんは、本当に「反吐が出る」くらい最低なやつだと思う。

それもわたし自身がかつて言われたことであり、きっと自分自身の投影なんだろうなとも思う。

 

 

わたしは、以前の記事(時間と空間をワープする 〜聖徳太子はなぜ消えたのか)に書いたけど、

過去の場面にワープして全部みえる。

おじさんが、「君は計算ができないのに、なぜ成績がよかったのか」って聞くから、

そのことを教えた。

その授業をしていた場面にそのまま飛べるから、温度とか、そこに虫が飛んでたとか、そういうのわかるんですよ、って。

 

 

誰かが「忘れる能力が少ない人は自殺しやすい」って言ってたけど、

わたし、自分もそうだと思う。

祖父は完全にそう。

わたしが今まで死ななかったのは、親にも子にも自死されたら母が苦しむだろうなって思ったことと、

鬱が強いからそれだけの衝動を発揮できなかっただけ。

 

 

ヨギの治療師が前に指摘したように(なぜか、こんな流れに)わたしには見える世界に強弱がないのである。

これはわたしの推測だが、生まれたばかりのころは皆そうなのだと思う。

 

そのうち「自我」ができて、「(自分にとって)大事なこと」と「そうでないこと」ができる。

そうして、自分の世界を形成していく。

 

 

でもそれは、人との関わりの中で必ずしも一致していないから、苦しみの種にもなる。

 

 

わたしはいつも変わっていて、人との関わりのなかで「大事なもの」が一致しなかったから、それにこだわることをやめた。

平(たいら)かにみる訓練をした。

それは、奇跡のコース(A course in Miracles)のレッスンとも同じだった。

 

 

結局おじさんは、わたしの「強弱のない世界」を聞いて、

「会話というものは、ポイント以外はどうでもいいこと」と言って、

結局彼が勘違いしてわたしが抗議したことを謝ることもしなかった。

 

 

多くの人たちが、自分の都合のいい世界を作ってそれが真実だと思っていることは知っている。

それでいいって思う。

でも、それは幻想なんだけどな、って思う。

 

この世には、虫も、花も、水も、海も、木々も、存在してて、

そのエネルギーに強弱は存在しない。

 

 

自分と、それ以外の人も。

社会的な立場がある人も、ない人も。

わたしには同じにしかみえない。

 

 

でも、わたし、人それぞれ「自我のつくった価値観」を理解しようと努力しているよ。
逆はないのかな、逆は。
わたしも、理解されたい、って思うだけなんだけど。
人間以外の地球代表として。

 

 

会津で、亀ヶ城が崩れてるのをみて、「亀、もう無理だって!」って言ったけど(西の守りは東にあった!?赤べこと白虎隊の街・会津 〜夏越大祓の前に その2)、

この大きな歪みを飲み込むのがもう限界だってかんじる。

 

 

 

サルタヒコが「ガラバンダルの聖母」について告げてきた。

 

 

ガラバンダルは、北スペインの小さな村だった。

そこにマリア様があらわれて、ルルドやファティマのようにメッセージを告げた、とのことである。

 

このあいだ、目に止まったキルメン・ウリべの「ビルバオ-ニューヨーク-ビルバオ」(繭のなかにいる時間)の、ビルバオの近くだ。

北の道、って言われる巡礼路の近くでもある。

 

 

 

望んだとおり、「世界」は近くなってきた、ように思う。

 

 

でもなんだろう、でも「これでいいの?」と思う自分もいる。

引き戻されてるのだろうか。

 

 

 

前回大神島から帰ったときと同じく(そして、東京 〜過越の祭の時期に)、

ヨギの治療師はあらためて絶交を言っては来ないけど、また自分のドラマに戻ろうとしている。

 

伊勢平氏おじさんも、ヨギの治療師も、敵と戦うことを選択しているような気がする。

 

「戦い」っておじさんはいうんだけど、

次の世界には「敵」はいない、ってかんじる。

 

 

敵は、自分の恐れが生み出しているだけだもん。

何度見ても映画やドラマの内容はスルーしちゃうわたしだけど、

ゴーストバスターズってそんな話じゃなかったっけ。

 

 

伊勢平氏おじさんの話やヨギの治療師の話を聞いていて、

自分が作った敵に向かっていってるようにしかわたしにはみえなくて全く共感できない。

 

 

彼らの思い描くビジョンを一緒にみようと思って、今まで他の人たちや相談者に対してそうしてきたように

同じ場所から同じ映像を見ようとしているけど、いよいよ難しくなってきた。

 

 

なんていうのかな、自分に挑んでるようにみえんだもん。

自分を打ち付ける拳であり鞭。

 

 

彼らは平和な社会を望んでるみたいだけど、

その思いの先に、それができるの?って素朴に思う。

 

 

 

だんだん隔たってきちゃった。

あと、どれくらい、ここにいられるんだろう?

それまでに、やっておきたいこと、やっておかなくちゃな。

 

 

 

 

 

 

 

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