大神島から東京に帰ったら、たくさんの愛が届いていた。
モーゼとか龍とか、ホーミーとか。
いろいろ東北からもたらされる、この先へのヒント。
白山のサルタヒコとは台風の大神島で縁が復活したけど、
何が面白いって、ちゃんと最近rukoちゃんが伝えてきてくれて、よくわかっていなかった
「ホーミー」をドンピシャで解説してくれたことであった。
サルタヒコは、わたしが何を考えているかわかっているかのように「チベットのモーツァルト」という本のことを話し出した。
「モーツァルトって、作曲するとき、映像を思い浮かべてそのメロディーを伝えて楽譜にしたっていうよね」
「ほーぉ」
「あ、もしかして、ヨギの治療師がいう『倍音声明』とやらもそうかな」
「やってみせるね」とサルタヒコ。
「あ!たしかにふたりがお経よんでるみたいだね」
なんかいろんな人の興味の本質が重なり合ってきたよ?
ヨギの治療師はちょっと前に
「美志摩ちゃんの仲間と集まってなにか話してる夢みた」
っていうから、
「わたしを送る会なんじゃん?」って言った。
いちおう、なぜか主だった友人知人は彼に紹介しておいてあるから、
「送る会はよろしくね」と言ってある。
「いや、美志摩ちゃんもいたよ」
なんの会議だっていうんだろう?
でもなんかおもしろいかも。
いよいよ次のタームは大勢の人といろんな次元との関わり合いかもしれないな。
ヨギの治療師が弱っているので、水族館にいくことに。
とにかく飲みにいってコロナの話してもしょうがない。
赤いひとつ目の狐(神の島 Day? 〜 次のタームへ?)と戦う夢のとき、
ヨギの治療師らしき人に執拗に酒を飲ませようとしているおじさんに
「やめてください!」って怒ってる夢もみたし。
酒をたくさん飲んでる時の彼は、伊勢平氏おじさんとは逆で感じ悪い。
わたしも島で完全にリセットされてきたから、娑婆世界の話がとてもつまらなくかんじる。
それがまずいんだけど。
この世の中は、島にいるとき「どうでもいいこと」こそが大事な世界だ。
「顔のない人」って記事に書いたけど(顔のない人)、この世は、イエスや釈迦が否定したそれを体現する場所である。
でも、わたしのサイババ、バーラサイは否定しなかった。
否定どころか、「仕事しなさい」ってわたしに言った。
いまだにわたしは仕事がなくてふらふらしているけど。
わたしは、出家して悟るって簡単だと思うし、意味ないと思う。
人の中に生きて、地上に天国をつくる、っていうのが、最難関の修行だって思える。
でも「お金のため」に仕事しててもそんな境涯にいきつくのは到底不可能のように思える。
そもそも目的地が違うのだ。
ババはそうしていた。
「しあわせでいなさい」と教え、自らもストリートチルドレンの母親にミシンを与え、子供達に無料の学校を作り、
無料の病院を作っていた。
イルカショウを久しぶりにみた。
動物愛護の活動家には評判悪いけど、しろくまさんは、
「水族館の子(いるか)たちは、人を癒したくてそうしてる」と言っていた。
わたしは彼の写真をみてて、彼らは犠牲になっているのではない、って思った。
水族館の子たちも彼の前では笑っていたから。
でも、わたしたちが彼らが伝えたいものを受け取れないなら、彼らは水族館にいて人の相手をしている意味がなくなる、って思う。
前回の記事(神の島 Day? 〜 次のタームへ?)のコメントに書いたけど、
わたしたちは、昔今よりももっと高い知性を持っていた。
アトランティスとかムーとかレムリアとか言われるそれ。
で、あるとき文明が行きすぎて私たちの大陸は海に沈んだ。
そのとき、水の中でいきられるイルカにわたしたちの叡智を託したのだ。
だからきっと、イルカは人のことを理解し、高度な知性を備えているのだってわたしは思う。
rukoちゃんは、岩の隙間からみえる空の写真に悲しみを感じた、といっていたけど、
たぶん、それが私たちが共有しているあの体験なんじゃないかなって思える。
4半世紀前にわたしのそばにいたヒロさんも、同じような感想を送ってくれたけど、
今わたしの周りにいる仲間は、みんなこの記憶を持っているんだって思う。
311。東北を襲った津波は、わたしにそれを思い出させた。
肉親を失って何ヶ月も探し続けた人を知っている。
みつかったのか、そうでないのかも聞いていない。
震災前、うちの地域ではイルカを食べるんだよ、って彼女は教えてくれた。
追い込み漁は和歌山にもある。
しろくまさんとも行ったことがある。
それこそ、311の頃。
イルカと人間との関わり。
神の島にも同じような匂いを感じた。
イルカ漁がいいとか悪いとかはわたしにはわからないけど、
その風習のあるところには、なにかメッセージがあるような気がする。
イルカが全力で教えてくれているなにか。
これは偶然なのだろうか?気仙沼のそばには、霊山室根山があり
(安曇の庭に誘われて(安曇野から丹後へ その8) 〜 一関の造り酒屋 編
・松と梅と東北の地震・次の、ステージへ ・シャチの夢)、島との繋がりは、熊野信仰っぽい。
熊野信仰は、くろしおハイウェイで旅で見聞したことだけでも東北〜千葉〜琉球〜インド(天竺)と繋がっているようだし。
なんの知らせ?
イルカが教えてくれてるような気がする。大事なこと。
今年は秋の訪れが早い。
島から帰ってきた翌日どんぐりが落ちているのを発見したが、
すでに栗も落ちていた。
しかも熟したやつ。大きい実はさきに見つけただれかに抜かれてるし。
まだ8月だよ?確かに夏の訪れも3週間くらい早かったけど、さらに早まってない?
この景色は9月か10月でしょ。
ケツァコアトル の横には島に行ってる間に百日紅が咲いていた。
季節は移り変わっていく。
たぶん、この街も見えない何かが変わって動いているってことなんだと思う。
人の意識も、その投影であるこの街の現実も。
ヨギの治療師が誕生日を祝ってくれた。
「酒のみたくない」っていって喫茶店でコーヒー。
最近酒が美味しくない、っていうか飲みたいって思わない。
こんなのは娑婆世界を捨てた2009年ごろ以来。
その前は自分が壊れて、アフリカを放浪したころ。
ワインの美味しいケープタウンに行かなければ、酒飲まなかったかもしれないな、今思えば。
この世界に馴染むには、酒飲んで騒いでるほうがいいように思うんだけど。
しろくまさんが「一生に飲めるお酒の量って決まってるんだって」っていって、
「あんまり欲しくない」って言い始めてから1年くらいで本当に死んでしまったから、
なんとなく、自分も「もうすぐなのかな」って期待半分で思ったりする。
2年前、彼の年齢を超える自分を想像できなかった。
だから、2年間本当にやり残すことがないように、って生きた。
コロナ禍でも関係なく。
行きたいところに行き、会いたい人に会い、やりたいことをやる、肉体的、精神的、経済的自由。
それしか求めていなくて、それはいつも完璧に与えられてきた。
まだわたし、その先の人生用意されてるのかな。
で、ハッピーバースデー トゥー ミー。
ついにしろくまさんの歳を超えた。
めずらしく伊勢平氏おじさんはわたしの誕生日にあわせて山に行こうと言ってきた。
しかもずいぶん前から予定して。
でもいつもドタキャンするから、わたしは排水管清掃の予定を入れたままにしていた。
そんな予定でもないと島から帰れなくなるし、おじさんのために島から帰ってきて、ドタキャンされたら心が折れると思ったから。
何気なく振り返ってみたら、しろくまさんがいなくなってから、毎回、とりあえず自分の誕生日の相手をしてくれているのは伊勢平氏おじさんだった。
1年目は普通の関係でそれなりに楽しかったけど、連れて行ってもらったレストランで写真を撮ろうって言ったら窓が割れるんじゃないかっていう大声で怒鳴られて拒否られた。
2年目。ヨギの治療師と前日深酒したせいで、朝5時の約束を遅刻して怒鳴られた(そして、七夕 〜旧暦七夕の1週間(旧盆)に起きたこと)。
怒鳴られてばっかりだな。
2度あることは3度ある、のか、3度目の正直、なのか。
おじさんは、「大切な話がある」っていった。
話の内容は、「自分の人生を生きる」ってことだった。
籠から龍は出た、って思った(籠から出た鳥は 〜伊勢平氏おじさんとくくりひめ、のその先は)。
あの、サギを見たときに(鹿の国から馬の国へ 〜アカルヒメとヒボコが出会ったら)。
よかったね。
わたしも2年間頑張った甲斐があったってもんだよ。
「母を卒業する日(母を卒業する日☆)」みたいにその先のビジョンがみえてないとまた逆戻りパターンになりかねないんだけど。
でもないな、この強情なおじさんの場合は。
たぶん、わたしがしがみついたところで、あっさり振り払うだけの残酷さがあるからね。
本人も「非情」って言ってるけど(恋することは、できなくても。〜愛する、という挑戦)。
わたしを次のステージに追いやってくれるのは、こういう人なんだろうなとも思う。
白山のサルタヒコが「お前だけを愛してくれる人がいないだけ」って言ったけど(千葉の熊野の馬と鹿 〜旧暦七夕・天竺の姫と諏訪の神!?)、
わたし、確かに自分を愛してくれる人に答える自信ないもん。
その人だけを思い続けるとか見つめ続けるとかたぶんできないし。
それは浮気心があるっていうのではなくて、やっぱり目の前にいる人に全力になっちゃう。
恋心はなくなったおかげで、大事故はないけどね。
わたしは、自分の家族をもつより、家族の枠から外れた人たちと大きな家族を持つことを選んだんだって思う。
島のおばあがわたしに教えてくれた、「ともだちがきょうだい」っていったあの子のように。
地球家族に出会う旅に出られるかな。
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