繭のなかにいる時間 | かんながら

かんながら

旅の記録です

 
からのつづき。
 
壇ノ浦から明らかに変わったが、続いて、成田山の祇園会で、大日如来をおまつりしてる石室に入ったのと、「天国(あまくに)の宝剣」加持の影響なのか、その後もいろいろある。
 

 

壇ノ浦から帰ってきた日の東京は、新幹線が止まるくらいの豪雨だったらしいが、空の上はいつも晴れ。なんの影響もなく帰ってこれた。

船にしないでよかった。

そんな豪雨だったら間違いなく揺れていた。

 

 

帰ったら土砂降りで清められた東京に、真夏の太陽が輝いていた。

 

 

 

 

壇ノ浦に行って、世界中をひとりで飛び回ってた頃の自分を思い出した。

 
なんでこんなふうになっちゃったんだろ。
歳とったからかな。
最近、本当にへたれな旅しかしていない。
 
久々にドミトリーに泊まったせいだと思うけど、ダニにくわれたっぽく、しかも化膿してきて薬の世話に。
もっと鍛えなきゃ。
 
そうだ、そもそもカミーノではドミトリーに泊まったけど、しろくまさんと一緒だったから、ひとりで泊まったのはやっぱりアフリカ以来か。
25年は経ってる。
 
冬のカミーノは人も少なく、開いてるアルベルゲ(宿泊所)もまばらで、次の宿は30キロ先までないとか(30キロ徒歩で行くには丸一日かかるのである。しかも街灯がないから行動できる時間が短い)もあった。
 
ようやくたどりついて管理人も他の宿泊者もいなくて、真っ暗な中で電気のブレーカーわからないとかもあった。
 
たしかにあれ、今思えばひとりだったら怖い。
 
 
あーあの旅も、あの当時ウチに居候してたしろくまさんが「別れてくれ」って出ていって、しかたないから家を引き払って海外にでも出ようと思ったんだった。
だって体温が急激に下がってきちゃって動けなくなったんだもん。
 
 
何日かそのままにしてたけど、わたし、人に必要とされなくなったら、死んじゃうんだなって気がついた。
 
 
死にたくないわけじゃないから、そのまま死ぬの待とうって自分が弱っていくのをそのままにしてた。
 
でも薄れていく意識の中で、
 
わたしは今まで捨てた夫や子どもたちがいるわけで、
たくさんの人に迷惑をかけて自分を生きてきたのに、
それだったらもっと前に自分のいのちを放棄してたら彼らに迷惑かけずにすんだじゃん?
 
って気づいた。
 
 
で、「生きよう」って思った。
どうしたら、「生きたい」って思えるか、考えた。
自分が、いちばん自分らしくいられる時間は。
 
「放浪」。
 
アフリカに行ったときみたいに、帰る予定のない旅に出よう、っておもった。
 
で、これ以上の条件はない、っていうくらいすばらしい部屋に住んでたが(この経緯も明治の森に誘われて 〜 ここに至る道と同様すごい)、解約予告をして、買ったばかりのソファや家電を全部引き払うことにした。
 
しろくまさんは、人間の心を持っていたので、わたしの友人に電話をして「あとよろしく」みたいなことを頼んだみたい。
わたしの仲間は宇宙人(サイキック)だから、そんなの通用しない。
ひとりはわたしごと彼をブロックし、ひとりは、「私(彼女)の問題ではない」ときっぱり断った。
 
不安になったしろくまさんは、わたしを確認にきて、わたしが家を引き払って旅に出るというのを一緒に行きたいってカミーノについてきた。
 
 
わたしは復縁したつもりで一緒に楽しく旅したが、執着地点で「旅を終えたら別れるつもりだった」と言われて激怒した。
 
彼がついてたおかげで新しい恋もできないし、旅に出た意味ないじゃん!!
見張り!?
 
まあたしかに、インド占星術の師匠のインド人の先生にも言われてる。
「結婚むかない」
星で見て言われなくても、これだけの実績あるからわかるけどさ。
 
 
結局、貯金も底をついて、日本に帰った。
いろいろあって、日本を転々とした。
 
波照間島に行ったこともある。
あそこでは「さとうきびバイトしないか」って誘われた。
 
コメは食べ放題。
「夫婦で来てくれると辞めないでいてくれて、部屋も少なくて済む」って言われて、
 
きっと徴税のしくみってこうやってできたんだろうな、って思った。
「家族」ってユニットに属していると労働の苦労を軽減できるっぽい。
 
 
東京ではその日泊まる場所をその日決めて毎日移動のホームレス。
そんな中、「かみはかり」としか思えないことが起きて、今は秋田に帰った友人宅に居候することになり(物部を訪ねて〜鎮魂祭のころに(その2 秋田 古四王神社))、しろくまさんと暮らすことになったんだった。
 
 
なんか、似てるな、この旅のはじまりと。
2年前の秋、伊勢平氏おじさんに捨てられたことがきっかけだった、そういえば。
 
 

 

明治神宮の参道のゆりも日に日に増えている。今年は雨ばかりだから先に咲いた花が枯れないから鈴なりに。

連作するとヤマユリはダメらしいけど、明治神宮のユリは球根がふえて年々増えている。
 

 

 

 

壇ノ浦から帰ったら、自分が明らかに変わったので、伊勢平氏おじさんとの縁がまだ続くんだったら、連絡が来るだろうと思ったがこなかった。

でも間違いなく壇ノ浦はお互いに平家筋だから共有してるはずなので、多少気になって電話した。

 

ら、電話したことも怒られず、妙に穏やかな優しい声で電話に出て驚いた。

変だなと思ったら、わたしが電話の着歴に気づかなくて放置していたからだった。

 

で、次に電話がかかってきたのは、「15分後にいきますから」だった。

 

 

 

歩いてて、小雨がぱらついて、わたしには傘をさすほどの雨ではなかったけど、伊勢平氏おじさんが自分の大きい傘をさしたので、ためしにおじさんの傘に入ってみた。

ご近所を相合い傘。

 

人に見られるのを嫌がって全力で他人のふりする人だから怒ると思ったが、怒られなかった。

そのまま少しだけ、歩いた。

 

 

なにか憑き物がとれたのかな。

どちらの、かはわからないけど。

 

 

そして「バナナを買いに行く」といって別れた瞬間、いつものようにせかせかと歩き始めておかしかった。

 

 

 

 

 

成田山の翌日は、その投稿をみていた陸軍関係者の知人の誘いで茶器を鑑賞。

壇ノ浦の投稿をみて、すぐさま連絡があった。

そして、陸軍関係ミーティングを終えたタイミングで通りかかる2.26事件の慰霊碑。

 

 

おもえば、伊勢平氏おじさんとは、最初の1回、一緒に香取神宮に行ったのと、山に行った以外は、飲みにしかいったことない。

しかも、このところおじさんはコロナを怖がって飲みにも行かなくなったので、山にでも行かない限り話すこともない。

 

思い起こせば1年目の秋にフラれるまでは多少のバリエーションもあったかも。
カラオケ行ったり、ショットバーでなんか強い酒飲んだりしたような気もする。
 
こちらは警戒してるから、酔い潰れることもなく、それより自分の財布が潰されると警戒されたのか行かなくなった。
カラオケはわたしは世代的にかすらない「池上線」を歌えと言われて、なんで仕事でもないのにカラオケ?と思ってスルーした。
 
カラオケは私にとっては仕事。
サラリーマン時代にとりあえず同僚とは仲良くできたのは酒とカラオケのおかげ。
今だったらアルハラかもな。
飲まされることあっても飲ませることはなかったけど。
 
一緒に旅するわけでもなく、文化に触れるわけでもなく、おじさんは過去の自慢話しかしないし(最近は変わってきた)、わたしのことはけなすし、別の人と別の時間を過ごしてると、「つまんないな」って確かに思う。
 
でも彼がいなければ、わたしのこの「かんながら」の旅はできなかった。
いつも、「エサ」のように自分の先祖を小出しにしてわたしに調べさせた。
 
もちろん彼は「調べてきて」なんて言わない。
 
わたしが、彼を利用して、わたしのルーツに繋がるそれらを引っ張り出したのだ。
似た場所に縁のあるヨギの治療師にも、なにわの審神者(さにわ)にも、白山のサルタヒコにも。

 

 
そういえば、壇ノ浦から帰ってしばらくして、ダンスの先生に会ったけど、顔色悪くて、避けられた。
みえる人で、「なにかついてたらもらう」って言ってたから、わたし何かつけてるのかもしれないな。
 
まあ、それくらいの霊気はあるところだったから仕方がない。
不思議なことに、伊勢平氏おじさんの態度はあきらかに(わたしにいいふうに)変わったが。
 
 
 
壇ノ浦から帰ってきたとたん、俵藤太のおじさんにも久しぶりに話しかけられた。
 
 
それと、「両手広げて近づいてくる人とは、そのうちハグするで」ってなにわの審神者(さにわ)から言われてた(めくるめく、うごく)、おじさんが最近直接的に「デートしよう」って言ってきた。
 
「お小遣いあげるから」
「・・・・。」
 
「この歳になって、そんなことを言ってもらえるのを光栄と思え」となにわの審神者(さにわ)が聞いたらいうであろう。
 
いや、その前に
「気持ち悪い」っていうな。
 
やつは、なぜわたしがおじさんたちにモテるのか理解できなかったようだから。
わたしは、知っている。
 
わたしにではなく、わたしのDNAに憑りつくなにかの力に引き寄せられているだけだってことを。
 
 
でも、このおじさんと関わると「大山石尊大権現」とつながってしまうことは間違いない。
伊勢平氏おじさんがわたしにこれだけの旅のネタを提供してくれたように。
 
 
でも、そろそろわたし、そろそろ日本から世界に帰りたい。
 

 

 

 

でも意外と、「大山」は世界に通じてるかもしれない。

あそこは、白山信仰のある山で、良弁(ろうべん)を通じて東大寺に繋がっている。

東大寺の南大門にある狛犬は、日本最古の狛犬で、沖縄のシーサーそっくり。

 

両方「阿型」だったり色々特徴がある。

使用されている石は、宋のものらしい。

 

その他、湯川 流河さんのブログ(快慶 慈悲の仏師)で拝見したが仁王像は少林寺拳法の構えらしい。

大山の向こうにあるものは、明らかに大陸である。

 

もしかしたらシルクロード?

子どものとき、兵馬俑もみたし。

 

久保田早紀さんの「異邦人」好きだったもんな。

 

 

写真は素敵だけど、歌は、当時のものの方がしっくりくるかも。

 

20歳でこの曲すごい。

昭和の歌謡曲は、50歳をすぎた今になってようやく少しずつわかるようになってきたって感じする。

しかも、普通の人の3倍くらいの密度の人生経験積んで。

 

いったい昭和の歌謡曲の作り手たちってどんな人たちだったんだろう。

 

 

 

 

「異邦人」のエピソードをみていたら、当時アフガニスタンの映像つかってCM作ったって書いてある。

 

アフガニスタンも行ってない。

モザンビークが昔地雷だらけで行けなかったけど、今若い人たちが普通に旅したり住んだりしているのをみてたら、いけるようになるかもなって思うけど。

 

世界は広い。

わたしが知らない世界はまだまだある。

 
 
 
美容院でみた旅行雑誌Transit に紹介されてて、気になったキルメン・ウリべのビルバオ-ニューヨーク-ビルバオ。
 
ビルバオもカミーノ歩いてたときに通った街。
バスク地方。
 
懐かしいな。
 
 
貯金はないけど、私の旅の蓄積はやっぱりわたしの財産だと思う。
 
 戦後の新円切り替えで通貨が紙切れになって苦労した祖父は、とられないものに変えよ、とわたしに教えた。
 
 
家の教えは、教育だったんだけど、わたしは自分の財産は全部旅に変えた。
 
さあ、わたしは次はどこに行こうとしているのか。
 
 

 

 

 

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