大和・出雲の王国連合が数百年続いた後に、物部氏率いる九州王国の勢力が南に動き始めた。

饒速日(にぎはやひ)はすでに亡くなり、五・六代後の時代になっていた。

 

肥後の球磨(くま)族の若者〔久米(くめ)の子〕を、兵に加えた。

薩摩半島の阿多に都を移した時、隼人(はやと)族の阿多姫が王子を出生したと言われる。

だから物部王には、隼人の血も混ざっている。

 

第一次物部東征の大軍は船団となって東に移動し、大和への侵入を試みた。

まず淀川を逆上り、河内国から南に進もうとした。

しかし、草香村で防衛軍の猛烈な弓矢の攻撃を受けて敗退した。

 

軍船は和泉国に回り、紀ノ川を逆上ろうとした。

そこの名草村で名草戸畔(とべ)〔女村長〕率いる軍勢の攻撃を受け、軍船の総指揮者が戦死された。

そこで宇摩志麻遅軍の船団は南の潮岬をまわり、熊野浦の付近に上陸した。

熊野地方には物部氏の祖先の徐福〔饒速日(にぎはやひ)〕に関する伝承が、数多く残っている。

また、徐福の記念碑が新宮市にある。

 

 

 

徐福像〔徐福公園/和歌山県新宮市〕

 

 

 

阿須賀(あすか)神社〔和歌山県新宮市〕には徐福を祀る祠があり、後ろの神体山は徐福渡来の伝説と結びつき、近世に蓬莱山と呼ばれている。

 

 

 

阿須賀神社〔和歌山県新宮市〕

 

 

 

これらは徐福の子孫が上陸した史実を、徐福が上陸したことに変えた、いわゆる有名人仮託話である。

弘法大師が建てたと言うのと同じような話である。

 

 

 

 

 

 

 

物部勢の中心の船団は熊野川を逆上って、その沿岸に上陸することになった。

その後の物部勢力は、安泰であったわけではない。

夜討ち朝攻めのゲリラ攻撃を受け、物部勢は疲弊した。

 

安全のためには、熊野川の中洲が見晴らしも良く防ぎやすかった。

そこで、物部氏の親族集団と有力豪族は中洲に住んだ。

そこに社がつくられ、名草で亡くなった五瀬命が祀られた。

 

後世に、後白河院の撰述した『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』259と260番は歌っている。

 

熊野の権現は 名草の浜にこそ 降り給え

和歌の浦にしましませば 歳はゆけども 若王子

 

熊野の権現さまは 天から名草の浜に 下りなさり
「若の浦」にお住まいだから 何年たっても 「若王子」

 

花の都を 振り捨てて くれぐれ参るは朧(おぼろ)けか

かつは権現 御覧ぜよ 青蓮(しょうれん)の眼(まなこ)をあざやかに

 

花の都を 振り捨てて とぼとぼと参るのはおろそかな信心でしょうか。

一方、熊野権現さまのほうでも 青蓮のような眼をはっきりと開いて私を御覧じてください。

 

権現とは、名草の地で若くして亡くなった五瀬命である。

若王子とも言う。

和歌の浦とは、竈山を意味している。

川の中洲に社を建てたのは、もう一つは先祖・徐福を記念するためであった。

 

中洲の中の社は、海部一族の竹野神社池中の小島と同じく、道教信仰の「蓬莱島の聖地」を意味していた。

同じような中洲に社を建てる信仰は、出雲の浮洲神社と同じ意味のものであった。

右差し 五十猛の丹波移住

 

しかし、明治22年の熊野川洪水の後に、神社は中洲から山中に移された。

それが現在の熊野本宮大社〔和歌山県田辺市本宮〕である。

 

 

 

熊野本宮大社〔和歌山県田辺市本宮〕

 

 

 

旧跡地は大斎原(おおゆのはら)と呼ばれ、社の基壇が残されている。

そこには旧社の絵が描かれた、由緒の説明板が建っている。

 

 

 

熊野本宮旧社殿〔大斎原〕

絵図の左上方部に描かれている「祓戸天神社」周辺が現在の境内地

 

 

 

その後、物部勢力は熊野の各地方に広がって住んだ。

紀伊国だけでなく、志摩国方面にも住んだ。

その勢力が認められて、後に熊野国造に物部氏が任命された。

 

熊野市波田須(はたす)は、もとは「秦住(はたす)」と書かれたが、嫌われた物部勢が秦族に見せかけたらしい。

その地には、矢賀の蓬莱山と呼ばれる小山があり、徐福を祀る祠と徐福の墓と呼ばれる供養碑がある。

付近からは、秦代の通貨・半両銭が出土したという。

 

 

 

徐福の宮〔熊野市波田須町〕

 

 

 

伊勢市の松下社(まつしたやしろ)〔二見町〕には蘇民(そみん)祠があり、蘇民将来を祀っている。

「蘇」の字はイスラエルの「ス」を意味する。

支那の「江蘇省」や「蘇州」などもユダヤ人に由来する。

つまり蘇民とは、ユダヤ人の子孫である物部勢を示す。

そのため物部勢の人々は、この地にも住んだと考えられる。

 

『備後国風土記(逸文)』に、疫隈(えのくま)の社〔広島県新市町の素戔嗚神社、旧江熊牛頭天王社〕の話として、以下のように蘇民将来の記事〔要約〕がある。

 

武塔の神が夜に宿を乞うたとき、富豪の弟・巨旦(こたん)将来は拒んだ。

それに対し、貧乏人の兄・蘇民将来は宿を貸した。

数年後に、その神が八柱の子神を率いてやってきて、蘇民将来におっしゃった。

「蘇民将来の恩に報いたい。お前の子の腰の上に芽の輪をつけさせよ」と。

神のお言葉通りに娘に芽の輪をつけさせたところ、その晩に蘇民将来の娘一人を残して、ことごとく他の人々を殺し滅ぼした。

神はおっしゃった。

「私は速須佐雄(はやすさのお)の神である。のちの世に疫病が発生したら、お前は『蘇民将来の子孫である』と宣言して、芽の輪を腰につければ、災いをまぬがれるであろう」と。

 

「将来」とは「〜から来た人」の意味であり、蘇民将来とはユダヤ人の子孫のことだと言われる。

また「巨旦(こたん)」とはアイヌ人の村の呼び方であるが、ここでは先住民の村という意味らしい。

つまり巨旦将来とは、ユダヤ族以外の先住民のことを示している。

 

「武塔の神」とは「武闘の神」のことで「闘いに強い神」を意味する。

その神の別名「速スサノオ」とは、徐福を示す。

「速」は、徐福の和名・饒速日(にぎはやひ)の「速」を意味している。

九州に渡来した徐福〔饒速日〕集団の子孫は、強い武力を持っており、その一族は「もののふ」と呼ばれ、のちには「物部氏」と呼ばれるようになった。

つまり、この文の蘇民将来とは、秦族の中でも特に強かった物部氏の集団のことを示している。

物部勢は、第二次物部東征の際に備後国〔広島県〕に攻め込んだので、そこに蘇民将来の話が伝わった。

 

 

 

 

 

 

この話は、ユダヤの過越し祭の話に似ている。

ユダヤ人は毎年、過ぎ越し祭を行う。

それは『旧約聖書』の「出エジプト記」に由来する。

彼らがエジプトで奴隷になっていたとき、彼らの家の戸に羊の血で印をつけていたら、ヤハウェの神の災いが「過越し」たと言う。

この出来事を記念とする行事が、過越し祭であった。

この行事には、ユダヤ人の選民思想が表れている。

ユダヤ人は少数民族であったので、大国に滅ぼされることを恐れた。

それで、ユダヤ人の数を増やし、自分たちの国を大国に育てたいと考えた。

そのため、独自の宗教を創って他の民族との混血を防ぎ、自分たちの民族と区別するという隠れた目的があった。

彼らは、自分たちの子孫を大切にするという考えが強かったので、蘇民将来の話をつくった。

 

彼らはイスラエル国外では、素性を隠す習慣がある。

彼らの考えを理解するためには、その隠し表現を見抜く必要がある。

 

 

 

ユダヤの過越し祭

 

 

 

後世に日本に渡来した秦氏も、ユダヤ系であると言われる。

秦氏は穀物神・宇賀魂(うかのみたま)を祀った稲荷神社は、社殿や鳥居が赤く塗られるが、これは過越し祭に塗る羊の血の色にちなむと言われる。

京都の八坂神社〔京都市東山区〕の社殿が赤く塗られているのも同じ意味だと言う。

 

 

 

八坂神社〔京都市東山区〕

 

 

 

武塔の神は、新羅の神・牛頭(ごず)天王と同じ神だと言われる。

八坂神社は、昔は祇園社と呼ばれ、牛頭天王を祀っていた。

その後、素戔嗚尊が牛頭天王と習合し、現在神社では素戔嗚尊が祀られている。

境内摂社・疫(えき)神社では蘇民将来が祀られており、祇園祭の最後の日には芽の輪くぐりの神事が行われ、参拝者の無病息災が祈られる。

 

 

 

京都の八坂神社 芽の輪くぐり

 

 

 

また、かつて捕鯨の盛んであった和歌山県新宮市付近では、捕鯨技術は徐福集団が持ってきたと伝わる。

 

徐福集団が、熊野で捕鯨を伝えたことを示す伝説が、高知県高岡郡佐川町に残されている。

『佐川町史』の「鉾ヶ峯縁起」を要約すると、次のようになる。

 

秦の始皇帝は、扶桑の国の蓬莱山にある仙薬を求めて、徐福を出帆させた。

使者一行の大船は、肥前国〔佐賀県〕の有明湾に無事到着、寺井津に上陸した。

・・・一行は再び錨を上げて出帆東に向かったが、土佐沖で大暴風雨となり、難船して散々となった。

・・・徐福一行は紀伊国熊野浦に漂着、ここを永住の地として、地元民に捕鯨の技を教え、帰化人としてここに終わったという。

・・・土佐須崎浦に漂着した別の一行は、蓬莱山〔虚空蔵山〕に登り、故国をしのんで、腰の鉾を高くかざして望郷の涙を流した。

そのほとりを「鉾が峯」と後世の人は呼んだ。

 

 

 

虚空蔵山〔高知県高岡郡佐川町〕

 

 

 

和国の幸の神が宿る聖木のことを、古代支那では「扶桑」と呼んだ。

だから、この文の扶桑の国とは和国を示す。

 

この話の中で九州を出帆した徐福とは、彼の子孫の物部勢を例えていると考えられる。

第一次物部東征の頃まで物部勢の象徴は銅矛〔鉾〕であったので、その時代の話であると考えられる。

つまりこの話は、第一次物部東征の軍勢が、九州を出発したあと、四国の南を通って熊野に到ったことも示す。

 

熊野の物部勢の上陸地付近には、のちに熊野速玉大社〔和歌山県新宮市〕が建てられた。

この社では速玉大神が祀られたが、この神名は饒速日(にぎはやひ)の変名で、祭神の名に「速」の字が使われている。

もう一方の祭神・夫須美(ふすみ)大神とは「伏す身大神」のことで、幸の神の女神すなわち子宝の神であった。

 

 

 

熊野速玉大社〔和歌山県新宮市〕

 

 

 

熊野では、先住の出雲族が幸の神信仰を持っていた。

花の窟(いわや)〔熊野市有馬町〕には、幸の神の女神を祀っていた。

その社では2月と10月の祭りの日に、御綱掛け神事が行われる。

高さ約45メートルの巨大な1枚岩の磐座の頂上から、境内の柱へ約17㎝の大綱がかけられ、その途中に✖️印の縄模様をつけて飾られる。

✖️印は幸の神の「生命創造」の尊いマークであった。

 

 

 

花の窟神社 御綱掛け神事〔和歌山県熊野市〕

 

 

 

神倉神社〔新宮市〕でも、幸の神の岩神信仰が行われていた。

倉は古代には子宮を意味したので、この社では女神を祀っていた。

社殿の横の磐座は、出雲から移住してきた出雲族が「ゴトビキ岩」と名付けた。

これは、出雲・飯石郡の「琴引岩」と同じ名前であった。

右差し 播磨の伊和の神

 

ゴトビキ岩の下からは、出雲族が祭りに使った銅鐸も見つかっている。

 

 

 

 

神倉神社 ゴトビキ岩〔和歌山県新宮市〕

 

 

 

この社では、2月6日の夜に御燈祭りが行われる。

参加する男たちは「上り子」と呼ばれ、1週間前から精進潔斎する。

潔斎の期間中は、口にするものは白飯や豆腐など白い物に限られる。

白は古代から男の種水の色であった。

その伝統があったので、現代の紅白歌合戦の白も男の色である。

そして祭りの当日、上り子たちは全員、白衣を着て参拝する。

腰には、男性の象徴の縄を巻く。

この祭りは、女性の参拝は禁じられている。

 

社の前では、男神の象徴の大松明に火がつけられ、石段の途中まで下る。

上り子たちは、争うようにしてその火を自分の松明に移し、山上に向かう。

全員が山上の境内に入ると、いったん木柵が閉じられ、あたりに炎と煙が立ち込める。

 

そして、再び木柵が開かれると、上り子たちは一斉に飛び出し、数百段もある急な石段を駆け下りる。

それは正に、古代出雲族が重要視した女神と男神の合体を祝う祭りであった。

史書に記録される祭りとしては、わが国最古のものだ。

 

「山は火の瀧(たき)、下り龍(りゅう)」

 

と新宮節に唄われるように、夜闇に流れ降る松明の炎は荘厳かつ鮮明だ。

 

二千人を超える上り子たちの松明は、遠目には流れ落ちるマグマのようでもあり、唄われるように火龍のようでもある。

 

 

 

御燈祭り〔新宮市観光協会〕

 

 

 

熊野近辺には、現在でも幸の神の社が多く残っている。

これは、物部勢が熊野に上陸した後も、対立する出雲族が勢力を維持し続けたことを示している。

 

物部軍勢は少しずつ現地人を味方に引き入れ、勢力を増強した。

この情勢の中で、大和王国の豪族たちの内部に分裂が起きた。

丹波族と出雲系加茂氏の一部が熊野側に付き、熊野の物部集団が大和に侵入した。

数十年の混乱の後に、大彦〔長脛彦〕の旧政権は弱体化し、物部王の勢力が優位となった。

 

 

さぼ