1875年には大久保は、マスコミの「文字の獄」といわれた言論弾圧をはじめた。
讒謗律(ざんぼうりつ)や新聞条例により、新聞が槍玉にあがった。
やられた主なものは、東京暁新聞や東京日々新聞・郵便報知新聞・横浜毎日新聞などであった。
福沢諭吉は「明六雑誌」を廃刊せざるを得なかった。
翌年には、新聞記者57人が処罰された。
福沢は大久保を、焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)をした秦の始皇帝に例え、スパイ政策で失敗したナポレオン3世に例えた。
出版不能の時代〔西南の変のあった丁丑(ていちゅう)年〕の世論を書いた本を、福沢はすぐ出版するのを我慢して24年後の死ぬ前に発行した。
なぜなら、福沢は権力者〔大久保〕をはばかり虚説を書くことなく、権力者の影響の失せた時期に真実を書いた。
その本の題名は詳しくは『明治十年丁丑公論・痩(やせ)我慢の説』となっている。
奇妙な題名であるが、貴重な本である。
福沢諭吉の生家〔大分県中津市〕
彼は「天は人の上に、人を作らず」という『民約論』を書いたフランスのルソーの言葉を「と、言えり」を付け加えて紹介したことで、有名になった。
正しい全文は、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、と言へり。」
「しかしながら実際には賢い人と愚かな人、貧しい人と富んだ人、身分の高い人と低い人がいて、雲泥の差がついている」という意図の文章が続く。
「だからこそ、その不平等な差を埋めるため、生まないために、勉強して自分を磨くことをお勧めする」と説いている。
福沢は平等主義者だが、真意は不平等を認め、受け入れている。
同じく平等主義者であるので、西郷を弁護している。
『丁丑公論』で福沢は書いている。
反西郷論者は、有名無実となった徳川を倒したときには、西郷を第一の忠臣とし、今度同じく有名無実の大久保政府の転覆に失敗したからとて、これを国賊と呼ぶのか・・・
『丁丑公論』はさらに書く。
政府の人が内政を修むるの急務を論じながら、その内政の景況いかんを察すれば、内務省設立の頃より政務はますます繁多にして、かつて整頓の期あることなく、これに加うるに、地租改正、禄制の変革をもって、士族は益窮し、農民は至極の難渋に陥り、およそ徳川の政府以来、百姓一揆の流行は、とくに近時三、四年を以て最とするほどの次第なれば、遠方の閑居する薩人の耳に入るものは、天下の悪聞のみにして、益々不平ならざるを得ず。
西郷の持論にも、今の事物の有様なれば、討幕の戦はひっきょう無益の労にして、今日に至りては、かえって徳川家に対して、申し訳なしとて、常に慚愧(ざんき)の意を表したりと云う・・・
福沢諭吉〔明治15年頃〕
西郷隆盛は征韓論者だ、と学校で習ったが、誤りである。
当時、確かに征韓論者がいたけれども、西郷はそうではなかった。
征韓論については、勝海舟が『氷川清話』に書いている。
世人は西郷公を征韓論の張本人とし、明治十年の乱の原因が征韓論で意見が対立したのにあるというが、これは未だ西郷公の心を知らないのである。
公が征韓論の張本人であるということは、大きな誤認であることを明らかにすれば、これから揣摩(しま)〔手探り〕盲測した臆断か誤謬であることは、刀を下さずとも、おのずから解することができる。
試みに、次の書簡を一読せよ。
これは明治八年十月八日、西郷公が、篠原国幹少将に送ったものである。
「〔政府が朝鮮と〕戦争を開きましたことは、誠に遺憾千万です。一度は韓国と談判しなければなりません。ひたすら韓国を軽蔑し、韓国が発砲したからこれに応じて、砲撃したのだといっては、これまでの韓国との交際上、実に天理において恥ずべき行為です・・・」
さぼ