廃藩置県のあとに、大久保は島津久光に呼び出され、叱られた。
大久保は参議を辞任し、外遊中も無資格であった。
右大臣・岩倉具視は版籍奉還を中心的に推進していたが、廃藩置県の勅令が出たら、欧米を巡る外遊の計画を始め、条約改正交渉を名目にして、急いで海外使節団と称して出発した。
木戸と大久保は廃藩励行中に、きっと難事件が起きることを予測していたので、洋行して逃避した、というのが世評であった。
1871年10月に、欧米親善使節団が出かけたが、重臣として木戸と大久保と伊藤博文が同行した。
その使節団は、不平等条約改正の交渉を目的とした。
しかし、最高権力者からの外交委任状を持参しなかった。
それで最初の国・アメリカ政府から、交渉相手にされなかった。
そしてアメリカ政府に対して、不平等条約改正交渉の中止を通告した。
以後は交渉使節ではなく、実質的に視察団となった。
岩倉使節団〔左から木戸、山口、岩倉、伊藤、大久保〕
随員を含めると海外視察団は、総勢140人を越えた。
税金の無駄遣いだ、との批判があった。
新政府が新時代に必要な改革を行うべき重要な時期に、なぜ外遊するのか国民に不思議がられた。
外遊予定は10ヶ月であったが、実際は1年10ヶ月になった。
岩倉は西郷政府に対し、帰国するまで大きな政策を行わぬよう約束させた。
ということは、1年10ヶ月間、政府がストップすることを意味する。
これは国民の利益無視ではないのか。
次のような狂歌が流行した。
逃げの小五郎〔木戸〕 日の本の
政治を厭〔伊藤〕い 何と岩倉〔言わく等〕
廃藩置県のあと案の定、留守の責任者・参議西郷がひとりで、廃藩に反対する全国の保守士族と対決した。
西郷は大反対する島津の家臣団に、特に憎まれた。
1872年に、久光は参議西郷を、鹿児島に戻るよう命じた。
「吉之助が藩の恩を忘れ、藩に無断で廃藩を断行し、朝廷を西洋風に改革した。罪状書を書かせろ」と家臣団に強制した。
西郷は廃藩励行の監視役として、篠原国幹(くにもと)少将を帰県させ、上意討ちはもはや犯罪だと通告し、鎮台鹿児島分営を固めさせた。
篠原国幹
これには久光を始め、家臣団が激怒した。
数100人の家臣団が上京し西郷を殺すという噂が流れた。
岩倉海外視察団が留守の間は、三条太政大臣が政府の最高責任者であった。
しかし、海外の新しい政治組織や政治思想は知らなかった。
だから日本の進むべき政治や政策には無知で発案はなかった。
筆頭参議の西郷は大久保の代理で大蔵省の事務監督を兼ねていて、様々な改革案件を処理したから、事実上、西郷政府のような状態であった。
1871年11月には知県事を県令と改称し、府県に参事を置いた。
これは封建時代の士・農・工・商の身分が、ほとんど無くなったことを意味する。
1872年2月に、兵部省は陸軍・海軍の2省となり、親兵は近衛兵となり、西郷は近衛都督に任命された。
西郷はみずから近衛兵たちを訓練した。
江戸の軍隊訓練
8月に学制が定められ、義務教育制となった。
11月に太陽暦採用が布告され、12月3日が、明治6年1月1日となった。
それまでの月暦では、1ヶ月は28日で、1年には閏月を加えないと、いけなかった。
太陽暦の初まり
欧米と日付を同じにするために、太陽暦の採用が決められた。
この変更の日付は、こうせざるを得なかったが、不幸なことに旧暦と新暦では1ヶ月、季節がずれることになった。
旧暦の12月が新暦の1月になったのだから、季節がずれたことは当然なことであるが、国語の教員は今だにハッキリ「このズレ」を教えていない。
その結果、誤って旧暦の言葉が使われている。
つまり、旧暦の弥生は、新暦では4月であるのに、新暦3月に生まれた娘に「弥生」の名前を付ける人がいる。
また気象予報士が「皐月晴れ」〔梅雨の晴れ間の意味〕の言葉を、新暦5月の意味で使うことがある。
「皐月の空に、鯉のぼりを揚げることは、昔は有り得なかった」ことが、分かっていない。
七夕祭りは新暦では8月に行うものなのに、曇天の多い7月7日に行っている。
もともとは「牽牛星と織女(しょくじょ)星の星祭り」であるから、晴天の夜空が多い8月に行うものである。
歌もそうなっている。
笹の葉 サラサラ
軒端にゆれる
お星さま キラキラ
金銀砂子
星に願いを込めて短冊を飾るべきであるのに、梵天を並べていて、笹の葉が見られなくなっている。
この頃は「文明開化」の時期であった。
9月には新橋・横浜間に、鉄道が開業した。
その頃の機関車が、今は愛知県犬山市の明治村を走っている。
東京横浜間鉄道開通〔愛知県犬山市 明治村〕
1872年に横浜の馬車道の両側には、ガス燈が並んだという。
ただし、ガス燈が日本で始めて灯ったのは、横浜よりずいぶん早く、1857年に島津斉彬が鹿児島の仙巖園〔磯公園〕の浴室近くにガス室を設け、鶴灯籠までガス管を引いてガス灯の点火実験に成功した時であった。
鶴灯籠〔日本初のガス灯実験 仙巌園にある鶴の姿の灯籠〕
1873年1月に徴兵令が布告され、鎮台の数は6つになり、西郷が陸軍大将に任命された。
東北反乱が収まったあと、富村雄は帰郷して出雲大社の上官職に復帰した。
西郷政治の時代には、自由民権思想の普及を行っていた。
民権団体の仲間・岡崎氏とともに、松江市で1873年3月に、「島根新聞誌」〔『出雲と蘇我王国』より〕を発行した。
明治維新は大きな変革であったので、人々の考えが混乱していた。
徴兵令が布告されたとき、太政官の説明文書に「西洋では、これを称して血税という。その生血をもって、国に尽くすという意味である」の文句があった。
すると「血を抜き取られる」とのデマが広がり、「徴兵反対」の百姓一揆が各地で起きた。
また士族たちは、武士の特権が奪われた、と怒り「土百姓軍隊が日本を駄目にする」と騒いだ。
これらの状態を見て村雄たちは、新時代の正しい考えを教えるための新聞発行を目指した。
西洋の啓蒙思想を紹介したから、購入者は民権運動の協力者になった。
だから、その新聞はあたかも、民権運動結社の機関誌のようであった。
購入者は地主層と商人・士族が多かった。
このような人々が各地でで自由民権の運動を広めていた。
この年の夏には、福沢諭吉が東京の三田で、小泉信三たちと自由民権の結社をつくった。
7月末には、地租改正条例が布告された。
この改正で土地の権利が地主中心となり、地主の地位が高まり、地主層の民権運動への参加が増加した。
士族が地主から年貢を得ることが、否定される見通しとなった。
その後で、武士の家禄・章典返納の制が定められた。
経済的に衰え不満を持つ士族も、自由民権運動に参加した。
民権家の中には、考えが異なり混乱もあった。
しかし、士族の行動力が期待された。
さぼ