大久保政府は士族の不満の目を海外にそらすために、台湾征討を閣議決定した。

原因は3年前に逆上る。

 

1871年2月、宮古島島民遭難事件が起きた。

日清修好条規の結ばれた年、琉球王国の首里王府に年貢を納めて帰途についた宮古、八重山の船4隻のうち、宮古船の1隻が台湾近海で遭難し、台湾東南海岸に漂着した69人のうち3人が溺死(1名は高齢のため脱落説もあり)、台湾山中をさまよった生存者のうち54名が台湾原住民によって殺害された事件である。

政府は清国に抗議し賠償を求めたが、清国は無視し続けた。

 

 

 

那覇波の上の護国寺にある「臺灣遭害者之墓」〔台湾南部〕

 

 

 

陸軍中将・西郷従道(つぐみち)が、指揮官に任命された。

従道は1874年5月18日に、艦隊を率いて長崎を出航した。

 

従道軍は20日間で、台湾側を屈服させた。

10月になって清国との間で、台湾問題は解決された。

旧藩主の父君、島津久光は、大久保政権から左大臣として東京に招かれた。

 

 

 

西郷従道

 

 

 

5月には、日本海軍が釜山に入港し、湾内で軍事演習を行なった。

9月に岩崎弥太郎の三菱汽船会社へ、政府の13隻の汽船が無料で払い下げられた。

同じ月に、江華島(こうかとう)事件が起きた。

日本の軍艦・雲揚号が韓国の京畿湾内で測量を始めた。

韓国砲台が警告し、発砲した。

 

日本軍艦は直ちに応戦し、艦砲射撃で沿岸の砲台を破壊した。

その後、湾内の江華島に上陸し、永宗城を占領した。

 

 

 

江華島事件〔永宗城を攻撃する雲揚号の兵士ら(想像図)〕

 

 

 

その報を聞き、西郷は政府を非難した。

通告なしで測量するなら砲撃を受けるのは自然で、それに応戦するのは、理に合わない、と語った。

この事件を受けて、左大臣・島津久光と参議・板垣は、政府を非難し辞任した。

 

江華島事件の6ヶ月後に、日鮮修好条規ができた。

その6ヶ月後に、貿易規則ができて、日朝貿易が始まった。

 

さぼ