1875年6月に専制政府は、民権運動をおさえ、朝鮮に開国のために軍事力を使うために、讒謗(ざんぼう)律と新聞紙条例を公布した。

 

讒謗律は事実の有無は考えず、人の名誉を害する図書の販売や文書の展示を「問答無用」で処罰する法律である。

 

これは身分の高い人に対する罰が、より重く決められた。

高い身分は、天皇の次は官吏であった。

これで政府批判を、完全に封じ得る時代になった。

政府はどんな悪い行政でも、出来ることになった。

 

新聞紙条例により、讒謗律違犯の記事があれば、社主と編集者が処罰されることになった。

この範囲は裁判記事にもおよび、結果的に裁判も規制された。

 

これらの法令により、表現の自由は完全になくなった。

これで国民は「見ざる、聞かざる、言わざる」の、江戸時代と同じ情況に閉じ込められた。

これら法令の準備のあと、江華島(こうかとう)事件を起こし、政府は朝鮮貿易を成功させた。

 

しかし西郷の使節による平和的朝鮮開国に反対した政府が、武力で朝鮮を開国したことに、矛盾を感じる人々が多かった。

また西郷政治時代の集議院を懐かしむ民権主義者が多くなった。

それで各地で民権運動が激化した。

 

熊本県に、敬神党という宗教団体があった。

その幹部は、神社の宮司や祢宜(ねぎ)たちであった。

かれらは神国主義者で、排外思想の持ち主であった。

 

新開皇大神宮の宮司・太田黒伴雄(ともお)がその首領で、かれらは皇大神宮に集まって対外問題を論じあっていた。

 

 

 

太田黒伴雄

 

 

 

かれらを刺激したのは、ロシア問題であった。

1854年に日露和親条約が結ばれた。

千島はエトロフ島とウルップ島の間が国境となった。

樺太は、両国雑居と決められた。

 

1875年頃、樺太でロシア人の横暴による事件が相次いだ。

黒田清隆長官は、ロシア領の北千島と樺太の雑居地を交換する案を考えた。

 

榎本武揚が大使となってロシアと交渉し、5月に交換条約に調印した。

これに対し、樺太が良い場所だと訴え、敬神党員が屈辱外交だと憤慨した。

かれらは戦争に訴えて、樺太を取り返すべきだ、と主張した。

 

「安永と弘安の役のように、神風がロシア軍を吹き飛ばす。神国日本は必ず勝利が得られる」と。

その論により、敬神党は「神風連」と呼ばれるようになった。

 

陸軍卿・山縣有朋が、旧友・山城屋和助に官金を融通し、国庫に莫大な損失を及ぼした。

大蔵大輔(たいふ)在職中、井上馨が尾去沢(おさりざわ)銅山を横領した。

 

それに岩崎弥太郎の船舶払い下げ事件などを隠すために、真面目な西郷を政府から追い出した、と大久保政府を非難した。

 

これらの活動は県内だけで、影響が少なかった。

なぜなら讒謗律や新聞紙条例により、広く日本中に訴えることができなかった。

 

国民議会があり、選挙戦での訴えがあれば、かれらの不満はある程度解消されたかもしれない。

しかし大久保警察政府のやり方では、平和なデモ行進はすぐ逮捕されてしまう。

 

そのような状態の中では、神風連の行動は過激なものとなる。

1876年10月24日の夜、太田黒伴雄ら170人の党員が、熊本鎮台幹部や県令の暗殺を目的にして挙兵した。

 

鎮台司令長官・種田の屋敷を襲った第1隊は、長官・種田の首を切り落とした。

第2隊は参謀長・高島を斬った。

 

熊本城の鎮台営舎は火をつけられ、多くの営兵が焼け死んだ。

神風連党員も123人が、主に銃弾を受けて死んだ。

 

 

 

神風連事件〔神風連の乱〕の錦絵

 

 

 

「神風連事件」の影響をうけて、福岡県で「秋月党事件」が起きた。

その首領は、今村百八郎であった。

秋月町の天満社に秋月党急進派が160人ほど集まった。

今村は演説した。

 

「・・・このように(山城屋事件や払い下げ事件を起こし)腐敗している政府高官は、10年前には幕府の非を鳴らし討幕した人々ではないか。一朝政権をにぎれば、腐敗に安住するも余儀なしと言うのか。断じて否! われわれは、これを傍観するに忍びない。君側の悪漢を追放するべく、奮起せざるを得ない。機いよいよ熟した。ただちに剣を執って立て!」

 

一同が武装をととのえて再び集まったときは、22人になった。

一方、秋月党穏健派は、今村の兄・宮崎車之助らと神風連に関係のある者も混じり60人が、辻の秋月学校に集結した。

 

神風連事件と同じ10月の27日に「報国」と大書した旗印を先頭に、秋月党は小倉鎮台を目指して出陣した。

 

 

 

秋月党事件〔秋月の乱〕

 

 

 

周防灘にある豊津の町にも、秋月党員が数人いた。

豊津の者たちが多く参加する、と杉生らが伝えた。

秋月党の軍勢は、豊津を通って小倉に進むことになった。

 

豊津に秋月党の一行が着くと、杉生らの話は罠で、連絡を受けた鎮台兵の集団と元小笠原藩兵に囲まれた。

襲われた秋月党は、総退却した。

20数人死んだ後に、宮崎車之助たち7人は自刃し果てた。

 

今村百八郎は逃げ延びたが、逮捕され斬首刑が宣告された。

江藤が作った刑法で、斬首刑は禁じられている、との主張は無視され、今村は斬首された。

 

これらの事件を乱と呼ばないのは、事件の発起人には「義」があるからだ。

四十七士の討ち入りを乱と言わないように「神風連事件」・「秋月党事件」が妥当である。

 

さぼ