明治9年〔1876〕10月28日には、山口県萩で「前原党政策要求挙兵」が起きた。

前原一誠は吉田松陰の門人で、政府の参議を勤めたこともあり、前兵部大輔(たいふ)〔陸軍大臣〕であった。

 

前原党は前原を党首とし、奥平謙輔を参謀格としていた。

前原党では、大久保政府の政策6項目の変更を、主張する人たちが集まっていた。

 

 

 

前原一誠

 

 

 

項目の1つは、地租改正の内容への反対であった。

5月には和歌山で、地租改正に反対する農民一揆が起きていた。

 

次に千島・樺太交換条約に反対した。

これは得失が同じではない。

樺太を与えたと、同然であると、主張した。

 

豪商と結託し〔山代屋事件〕私利を貪っている。

名は大臣〔陸軍大臣・山縣有朋の汚職〕というも国賊ならんや、と。

 

彼らは「政府の国内に対する横暴〔表現の自由の弾圧〕と外に対する軟弱〔今のままの朝鮮対策では、ロシアの朝鮮併合を招くと警告〕」を告発した。

 

前原党は殉国軍として挙兵し、山口県令・関口隆吉を捕虜にし、広島鎮台の山口分営を討ち払うことを決めた。

そして佐賀事件の残党や肥後の神風連・筑紫の秋月党と連絡をとり、連合して行動を起こそうと準備していた。

 

秋月党挙兵の報告を受けて、次の日〔28日〕に前原党は挙兵した。

萩の金谷天神に集結していた官軍は、400人の前原党に攻められて、山口に向かって逃走した。

 

山口県令・関口隆吉と、彼が前原党に送り込んだスパイを捕らえる予定であったが、前原党は取り逃がした。

しかし官軍が敗れたので、前原たちは意気揚々と明倫館に入った。

 

 

 

明倫館の跡地に建つ萩市立明倫小学校

 

 

 

29日には広島鎮台から、歩兵大隊が来ることになった。

30日には大軍に包囲された。

その上、明倫館は日本海の軍艦からの艦砲射撃の砲弾を浴びせられ戦死者が増えた。

 

前原党の残兵は弾薬も尽きて、市街地の民家に逃げ隠れた。

前原たち幹部は東京に行き、政治家たちに悪徳政策の停止を訴えようと考えた。

 

前原2兄弟と奥平たち7人が、宵闇に紛れて船で東に逃れた。

彼らは島根県の宇竜港を目指した。

 

そこには、討幕戦を共に戦った知り合いがいた。

富村雄である。

彼は大社町の取締役〔町長〕であった。

『大社町総合年表』には、次のように書かれている。

 

前原一誠らは、出雲に逃れ、11月4日、宇竜港に入ったが、山陰の同士、とくに富村雄を頼って来たものである。

夜に萩の同士が上陸し、富家に入った。

 

彼らは、広い富家の屋敷に隠れた。

村雄は疲れ果てた戦友の一行を、酒食でもてなした。

まだ戦う気持ちでいる戦友に、勝ち目がないことを諭し、松江県庁に自首することを勧めた。

 

蜂起か降伏かを相談した結果、天下の形勢、我に利あらずと判断して、前原一成の先祖の発祥の地である出雲に於いて賜死(しし)することを条件として、富家に2日間滞在した後、11月6日、装束を整え、富村雄の先導により松江県庁に、降伏を申し出たものである。

 

 

 

前原一誠上陸地付近〔島根県宇竜〕

 

 

 

富家には駕篭(かご)があったから、前原一誠を尊重して「立派な駕篭」に乗せて送ることを伝えた。

 

他の者は歩いて行くが、彼らが沿道の人から罪人と見られることが、村雄は心苦しかった。

それで朝早く人が起きていない時に、出発させた。

 

これが富家に聞き伝えられている正確な事情であった。

 

杵築分署の警察は気づいていなかったが、松江からの連絡で驚き、宇竜港で全員を逮捕した、との報告書を作成した、という。

 

 

 

宇竜港で捕縛される前原一誠〔警察の報告書に基づく錦絵〕

 

 

 

後世の郷土史家は、この記録を正確な資料と考えて、本を書いている。

さらに宇竜港の旅館は前原が自分の旅館に泊まったと、もっともらしい話を付け加えた。

 

「立派な駕篭」というのは「富家の当主」が使う駕篭であった。

富家は出雲大社の、筆頭上官であった。〔『出雲と蘇我王国』参照〕

 

大社に勤務するときは駕篭に乗り、雇い人〔下男〕2人が前後で担いで、家と社殿の間を往復した。

 

実は、この2人を雇う人件費は、かなり出費を要した。

それで2人の下男は、炊事や掃除・洗濯・買い物・庭の手入れしか、しなかった。

娘がその影響で、花嫁修業をしないで、売れ残ることがあった。

 

売れ残り娘は下男に与えて、5段ほどの農地を持参金として渡した、という。

そのような事情で、富家は財産が増えなかった。

 

前原家の発祥地である出雲で賜死する、という前原一誠の希望は叶わず、山口に送られ斬首の刑を受けた。

奥平謙輔も同じ刑となった。

 

 

11月末に萩で起きた「前原党の挙兵」で、地租改正も非難されたが、12月には高い地租に反対し、竹槍や鎌を持った農民一揆が、茨城や三重・愛知・岐阜などの諸県で起きた。

 

明治5年に土地売買が自由化され、地租改正局が地主所有田の広さを測り地価が決められ、それが書かれた地券が地主に渡された。

4年前の地租改正では、地価の3%の金額が地租と決められていた。

 

 

 

地券〔地価地租記入〕

 

 

 

農民一揆が全国的な暴動になることを恐れた政府は、1877年1月4日に、地租を地価の2.5%〔2分5厘〕に軽減した。

 

それは以前の地租より、0.5%の引き下げであった。

次の川柳が作られた。

 

竹槍で ドンと突き出す 2分5厘

 

さぼ