明治維新で、日本が封建社会から市民社会に変わった。
その変化は予定されていたものではない。
徳川家の分家である水戸徳川家は、本家の繁栄が妬ましく尊王思想を唱えた。
それと反徳川の感情を持つ、薩摩藩士と長州藩士が結びついた。
それが明治維新の原動力であった。
しかし途中で、様々な変化があった。
その因果関係を考え、その本質を調べる必要がある。
歴史小説では、江戸の無血開城を山場とし、西郷と海舟の会談を両雄の快挙と描く。
しかし西郷は「江戸の会談は、お芝居でごわした」と語っている。
「無血開城」は海舟と西郷の間で、以前から話が付いていた、という。
それを知ると、表の動きと裏の本質が理解できる。
江戸開城談判〔結城素明画〕
「明治維新」という言葉は、曖昧である。
この変化は、封建社会を市民社会に変えた大改革であったので「明治改革」という言葉がはっきりする。
それはともかく大切なことは、なぜ「維新が成功したか」である。
下級武士が大名にかわり、権力を奪うということは、なかなか出来ることではない。
大名や公家勢力は、徳川家と朝廷で政権を取り合い終わりにしようとした。
長州の木戸孝允は、市民社会を目的にしていなかった。
また坂本龍馬は大政奉還の後に、大名の連合政府を作ろうと動いたこともあった。
このような中途半端な変化ではなく、四民平等な社会作りに引っ張ったのは薩摩藩の西郷と大久保であった。
それには理由があった。
史書を見分けるのは難しい。
なぜならば、最初に書かれた本は偽書だからである。
勝ち残った権力者は、敗者を悪く書くのが常である。
ところが日本人は性善説である。
権力者が書いた本は権威があると、錯覚している人が多い。
多く売れる本が、正史だと思っている。
政治は多数決が正しい。
しかし日本の史書では、多数決は怪しい。
西郷の本は、古い歴史小説家の書いたものには偽書が多かった。
偽書というのは、内容の半数近くが史実でないものと、歴史の重要な視点が誤っているものを言う。
小説家は、真偽を確かめずに書くからである。
シナの町では、肉屋の店頭にブタの死体がぶら下がっている。
それはグロテスクである。
しかし、そうしないとシナでは肉は売れない。
「羊頭をかかげ、狗肉(犬の肉)を売る」の諺がある。
羊頭をかかげても、かかげた物から切って売らなければ、シナ人は買わない。
そのようにシナ人は、性悪説である。
その代わり、シナの史書は信用がある。
権力者が死んだ後に、学者が書くからである。
それが「正書」である。
日本の史書には、正書が少ない。
明治維新については、大久保政府が学者を集めて書き方を指導した。
出版条例などを作って、真相を書かせなかった。
福沢諭吉は大久保が没するのを待って『丁丑(ていちゅう)公論』を書いた。
そのように福沢は、維新について先書を改めて書いた。
西郷隆盛を征韓論者と決めつけるのは誤りである。
西郷は韓国へ開国要求使節として行くことを望んだ、と言うのが正しい。
自分は平和的に解決する自信がある、と富村雄に語ったという。
多くの参議を味方に付けたいために、征韓論者の板垣に手紙を送り、使節目的失敗の場合の対応を述べただけである。
神風連事件などに対して「不平士族の乱」と書くのは正しくない。
「不平士族」と書くと、そのような後ろ向き士族を連想し、内容が誤解されるからである。
これらの事件の人々は民権思想を持つ者が多く、反専制政策要求の行動が中心。
とくに大久保政府が言論弾圧を行ったから、過激な反対運動になった。
「西南の変」を不平士族の反乱と日本史の教科書で教わったが、今となっては誤りである。
「反乱」という用語は政府側の都合で使った言葉で、歴史家は公平な評価をして用語を決めるのが正しい。
実際に、西郷小平は船で大阪方面に行こう、と提案した。
つまり、中央方面への政策変更要求のデモのつもりであった。
「西南の変」はデモ行進を、軍隊が弾圧した事件だ。
武器を持っているから悪い、というのも正確ではない。
島津久光は政策要求のために、刀を持つ家来を多数連れて京都に行き、さらに江戸まで行った。
それと同じ気持ちだ。
百姓一揆でも、鍬や竹槍の武器を持っているが、それを反乱とは言わない。
幕末から明治維新にかけては「暗殺の時代」だ。
井伊大老が桜田門外で討たれたのも暗殺で、池田屋を新撰組が襲ったような暗殺事件の連続であった。
集団暗殺だけでなく、個人暗殺も多かった。
桂小五郎も城崎温泉に隠れたことがあった。
坂本龍馬が鹿児島に新婚旅行に行ったのも、幕府の暗殺を逃れるためなのだ。
大久保一蔵の人相書きが残っているが、それは幕府側が暗殺のために作った物であった。
西郷の写真嫌いは、写真が人相書きとして使われるのを恐れたからであった。
重要人物ほど暗殺に狙われる。
西郷はしばしば刺殺団に狙われた。
それで維新の期間は剣術に優れた富村雄が、参謀として西郷と同伴していた。
維新の後、鹿児島に私学校を建てたころは、大久保や藩主の刺客がしばしば現れた。
それで富村雄は、西郷に同伴を頼まれた。
西郷が田舎の温泉宿に滞在することが多かったのも、その方が安全だったからである。
西郷が外出する時は、村雄が前を下男が後ろを、それぞれ犬を引いて歩いた。
犬は怪しい者を、早く見つけるからであった。
上野にある西郷隆盛の銅像は、この時の様子を示している。
このような苦労なしには、維新が成功し平等な社会が訪れることはなかった。
西郷隆盛像〔上野恩賜公園〕
さぼ