1869〔明治2〕年9月4日に、長州の大村益次郎が襲われた。

「上意討ち」の噂があった。

軍事視察で京阪地域を訪問中、京都三条木屋町の旅宿で会食中に、刺客に襲われ重傷を負い、当時の浪華仮病院(現在の大阪医療センター)に入院、右大腿部を切断する手術がなされた。

その後、切断部より敗血症となり、容態が急変し死去した。

 

 

 

大村益次郎〔キヨソネ作〕

 

 

 

廃藩政府の議会制度のはしりは、公議所であった。

それが集議院になった。

開院式が1869年3月7日〔旧暦〕に行われ、200数10人の藩代表が出席した。

 

1870年5月〔新暦〕に、集議院が開会された。

これらの詳しい資料は、栃木県喜連川町の旧家で発見され、栃木県文書館に保存されている。

 

7月26日の夜に、薩摩藩士で陽明学者の横山安武は、集議院の門扉に2通の直訴状を差し入れたのち、津藩邸裏門前で割腹自殺を遂げ、門前が血の海となった。

発見時の安武はまだ会話ができる状態であり、すぐさま鹿児島藩邸に引き取られて介抱され、また、切腹の理由などを尋問された。

しかし安武は回復することは無く翌27日の昼頃に没した。

これは、集議院の議案提出権などが縮小されたことを、批判したものと言われている。

 

彼は島津久光の5男の、家庭教師であった。

直訴状では士族を追い詰める政策を非難し、廃藩政策を止めることを訴えた。

そして岩倉具視を、名指しで糾弾した。

これは久光の不満を、代行したものと考えられた。

 

 

 

横山安武〔NHKアーカイブス〕

 

 

 

1871年1月9日には、木戸孝允と並ぶ長州藩の大物・広沢真臣が東京麹町の私邸で宴会後、深夜の寝込みを襲われて死んだ。

享年39。

自分は高官職に就かないと広沢が約束して、藩主に版籍奉還を勧めた。

 

その後で広沢が参議になったから、旧藩主の「上意討ちに遇った」との噂が出た。

廃藩置県の前までは、まだ上意討ちは犯罪ではなかった。

 

医師の検視によれば、傷は13ヶ所で咽喉には3ヶ所の突き傷があった。

犯行後、同室にいた妾は捕縛されていたものの軽傷を負っただけで、現場の状況など不自然な点が多々見られた。

横井小楠、大村益次郎に続く維新政府要人の暗殺であり、広沢を厚く信頼していた明治天皇は「賊ヲ必獲ニ期セヨ」という犯人逮捕を督促する異例の詔勅が発せられた。

 

 

 

広沢真臣〔国立国会図書館蔵〕

 

 

 

西郷は東北の会津や庄内藩の反乱を鎮定したあと、10月に京都に着き11月初旬に薩摩に帰った。

鹿児島では武町に、新しく家を建てた。

それで、どちらの家にいるか、わからぬようにした。

 

しかし鹿児島の町には、ほとんど住まなかった。

日向山などの温泉に住み山野を歩くことを好んだ。

これは町中にいるより、山中で過ごすのが暗殺に遇い難い、と考えた結果だ。

 

西郷が東京に住み、政府の役に就かないから、権力欲がないように言われるが、実際は逆でヘゲモニー〔覇権〕への意欲は強かった。

 

東京では敗れた藩の失業者の恨みを、受ける恐れがあった。

地元では、島津久光公の上意討ちの危険があった。

 

西郷たちが政権のいい役に就きすぎるとか、藩主の許可なしに藩士を動かしている、と久光公が怒っている、との噂があった。

久光はもう藩主ではないが、藩主のつもりでいた。

それを防ぐことに、気を使った。

 

西郷は入道頭になっていたが、僧侶の服装をすることもあった。

弟・吉二郎を始め、維新戦争で戦死した人々への祈りの気持ちがあったらしい。

頼まれて富村雄と影武者の永山弥一郎が、西郷を守った。

西郷家の下男・熊次郎も一緒であった。

 

3人が交替で寝て、昼間は2人が起きて、西郷を守った。

外を歩くときは、横綱の前後に露払いと太刀持ちがいるように、西郷の前後を歩いた。

 

薩摩犬が4匹飼われていて、各人が1匹ずつ紐で引いて歩いた。

これと似た版画が描かれている。

東京上野公園の西郷隆盛の銅像は、この頃の西郷の情況をモデルにしている。

 

 

 

西郷隆盛と犬

 

 

 

1869年2月に薩摩・長州藩に、勅使を下向させた。

勅使は廃藩置県を実現させるための、藩政改革を指示した。

薩摩藩では、西郷の出馬が必要となった。

 

2月20日、藩主・忠義が村田新八を従えて、日当山温泉にいる西郷に会いに訪れた。

目的は鹿児島での藩政改革の要請であった。

 

それを受けて「藩治職制」が発表され、武士の家格が廃止され禄制も改められた。

同時に軍政改革も実施された。

藩主が西郷を、鹿児島県の参政に任命したことで、西郷の地位は安定した。

 

1870年12月に岩倉が鹿児島に来て、廃藩置県の政策実現のため、中央政府への参加を求める勅令を伝えた。

 

西郷の所に2回も勅使が来たのは、廃藩置県断行への抵抗を恐れて、政府の高官たちが廃藩の役に就くことを、嫌がったからであった。

 

西郷は次の文を、書いたことがある。

 

命もいらず、名もいらず官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。

この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。

 

これは西郷が相手の立場から、自分のことを書いている。

つまり、彼の自負が現れている。

 

西郷は今や、命の危険も返り見ず、立ち向かう時が来たと感じ、求められた役目を果たす決心をした。

 

大久保とともに状況した西郷は、筆頭参議となって薩・長・土からなる親兵を作る案を提言した。

1871年2月に庁議が決すると、西郷は薩摩から4大隊を率いて上京した。

 

集まった3藩の親兵は東京で訓練され、廃藩置県に反対する藩を撃滅することになった。

 

薩摩藩の重臣は、日記に書いている。

 

明治4年7月14日、廃藩置県の勅命が下り、人心騒乱世説紛々、各藩すこぶる動揺した。

高知県人のごときは、大いに為す所あらんとする勢いであった、と伝わる・・・

 

そもそも〔島津〕久光公は今日の急務を知られていたが、大小のこと、みな西郷・大久保一輩の専断に出て、余議することがないので、往年以来の積憤が重なり、不満に耐えられず、廃藩の報知が鹿児島に到着した後、ひそかに公子侍臣に命ぜられ、邸中に花火を揚げさせ、わずかにその鬱気を洩らされた・・・

 

参議の西郷は、7月20日に鹿児島の執政・桂久武に、書簡を送っている。

 

天下の形勢よほど進捗いたし・・・尾張藩をはじめ、阿〔波〕州、因〔幡〕州どどの56藩が〔廃藩を〕建言いたし・・・

ことに中国地方から東は、だいたい郡県の体裁にならい改革する様子となり、すでに長州侯は知事職を辞せられ、庶人と成られ御ぼしめしで、御草稿まで出来ている由です・・・

 

その後に太政官制が改められ、太政官の下に正院と左院と右院が置かれ、正院の下に、神祇官や大蔵省などが置かれた。

 

1871年5月には新貨条例が定められ、円と銭・厘(りん)が単位となった。

旧1両と永1貫文が、新1円となった。

 

さぼ