久々に、火がついた。





今日は少し、本心をストレートに書こうと思います。




私は、現代のスピリチュアルが

好きではありません。




本当に自分の魂を削って

人助けをしている方がいらっしゃるからこそ

浅く見えてしまう








「神様に呼ばれた」

「神社に呼ばれた」










そういう言葉にも、ずっと違和感があります。









もちろん、何を信じるかは自由です。


その人が見ている世界も

その人の信仰も

その人の生き方も
否定したいわけではありません。








だから今まで
はっきりとは口にしてきませんでした。








でも、ここ数年ずっと思っていることがあります。







個人的な神事や災害封じの神事は

何のために行っているのだろう。






純粋に祈ることに

特別感や満足感を感じることは必要なのか?






神様のためと言いながら

実は自分のためになってはいないか。




「神様に呼ばれた」と言いながら

本当に神様からのものなのか





自分がそう思いたいだけではないのか。








信仰心が強いことと


神様に仕えることは




必ずしも同じではないと思っています。










そして

その人が何をしているか以上に



なぜ、それをしているのかを見てしまいます。





どんなに立派な肩書きがあっても

どんなに「視える人」と言われていても

どんなに大きなベールに包まれていても








その人の真ん中にあるものは

隠しきれない。








小さい頃から

分からなければ幸せなことも

伝わってきてしまうので








私にとって、それが

生きづらさでもありました。








「すごい人だから」

「有名な人だから」

「神様に選ばれた人だから」







そういうものを前にしても

どうしても、その人の言葉だけを

そのまま鵜呑みにはできなくて




嘘か誠か




その人が何を語っているかではなく

その奥に何があるのか?


そこを感じ取ってしまう。




どんなに初めは純粋であっても

知らず知らずわき出ていた
自分への酔いが重なると

自然とズレていく。
それが顔にも出てきてしまうのですね。








誤解のないように書いておきたいのですが



見えない世界を否定しているわけではありません。




むしろ


生も死もすべては繋がっていて



生きとし生けるもの



そしてこの世界の至るところに



神様は存在すると信じています。







見えないものを信じることと

誰かが語る「見えないもの」を信じることは

私の中ではまったく別のことだから。







むしろ、見えない世界を大切に思うからこそ

そこに自分の願望や自己満足を重ねていないか

氣になってしまう。






安易なスピリチュアルを語っている
その人の言葉よりも





その人の行いの奥にあるもの。


その人の真ん中にあるもの。




そこをどうしても

感じ取ってしまうのだと思います。






今まで心を許せる人にしか話してこなかったことを

今日は自分の言葉として残しておこうと思います。




明日は満月🌕️