古代日本人は、古くから祖先神をもっとも大切にして、その依り代の石を家の神棚に置いて祈った。

それが家々の祖先神から、村の祖先神へと発展し、村人が共同で岩神を祀るようになった。

出雲王国が成立したあとは、岩神は「幸の神」と呼ばれ、祀られるようになった。

 

『出雲国風土記』の意宇の郡・宍道の里の記述に、古代出雲の岩神信仰が表われている。

 

宍道郷 郡家正西卅七里。

所造天下大神命之追給猪像、南山有二。〔一長二丈七尺、高一丈、周五丈七尺、一長二丈五尺、高八尺、周四丈一尺。〕

追猪犬像。〔長一丈、高四尺、周一丈九尺。〕

其形為石、無異猪犬、至今猶在。

故云宍道。

 

宍道郷 郡家の正西三十七里の所にある。

天下を造られた大神〔大名持〕が、〔犬を使った〕狩りで追いかけなさった猪〔宍〕の像(かた)〔岩〕が、南の山に二つある〔一つは長さ二丈七尺、高さ一丈、周り五丈七尺で、一つは長さ二丈五尺、高さ八尺、周り四丈一尺〕。

猪を追いかけた犬の像〔長さ一丈、高さ四尺、周り一丈九尺〕。

その形は、石となっているが、猪と犬以外の何者でもない。今でもなお、存在している。

だから、〔猪の通った道という意味から〕宍道(ししじ)という。

 

この話により、宍道湖の名前もできたことになる。

その大岩は、女の地形の場所に運び置かれて、元は二つの岩を合わせて女神岩として崇拝されていた。

 

島根県松江市宍道町白石字才に佐為(さい)神社がある。

この社は出雲で最も古くから「幸の神」を祀る重要な神社の一つであったが、今では忘れられたような存在となっている。


 

佐為神社〔松江市宍道町白石字才〕

 

 

 

鳥居から本殿に向かう方向を、真っ直ぐ後に延ばした線上に、女夫岩〔御袋岩〕がある。

すなわち、佐為神社は女夫岩を女神の御神体として拝む社として建立された。

 

ここの地形を地図で見ると妙だ。

女夫岩の西に大きな溜め池がある。

池の両側に足の形の岡が、女夫岩のある腰の岡に続いている。

腰からさらに、胴体が東に伸びる。

 

 

佐為神社と女夫岩遺跡

 

 

 

その岩神は足が2本伸びているような形の丘の、股に相当する位置に置かれている。

股の上方には丸く高い丘があり、まるで妊婦の腹のようである。

 

そして、女神の腹の部分は、妊婦のおなかのように、丸く高くなっている。

古代人は女体そっくりな地形を、発見し選んだことになる。

 

 

女夫岩遺跡〔松江市宍道町白石〕

 

 

 

そして、彼女の股の所にピッタリ、女夫岩が鎮座している。

これは偶然にしては、巧く出来すぎている。

古代人は、信仰の熱意でわざわざその地形を選んで、何メートルもある大岩を運んで来た。

 

 

 

女夫岩遺跡入り口

 

 

 

また昔は、この女夫岩のすぐ南に、女神の甫登を恋する男神の象徴の形の岡があった。

古代人は、オハセを「矢」と表現し、亀頭を「矢頭」と言った。

オハセの形の岡の先端は丸く高くなっている。

 

その矢頭だけが残って「矢頭」の地名になっている。

オハセの付け根の部分は、道路工事で削られて、現在ははっきりしない。

 

1985年「清水谷遺跡、矢頭遺跡発掘調査報告書」では、興味深いコメントがある。

 

矢頭横穴は丘陵斜面の確認されたもので町内に広くみられる整形家形の横穴である。

横穴は群を成すのが一般的であるが、今回の調査では単独に存在する横穴が確認されている。

群存在と単独存在の差異を検討する必要があろう。

 

 

矢頭横穴遠景〔清水谷遺跡、矢頭遺跡発掘調査報告書〕

 

 


矢頭横穴実測図

 

 

清水谷遺跡、矢頭遺跡位置図

 

 

 

女夫岩付近は現在は「女夫(めおと)岩」史跡公園となっている。

この古い聖なる女夫岩の前面は、広げられ石垣で囲み参拝の場所として、今でもその岩神に、弊串(へいぐし)が捧げられている。

 

 

 

女夫岩遺跡女神岩〔松江市宍道町白石才〕

 

 

 

のちに佐為神社の神は、登美家によって大和の三輪山に移された。

そして、山を拝む正面に大神神社をつくり、その入り口に今は「夫婦岩」と呼ばれる女神岩を祀った。

それは、出雲国宍道の女神岩と同じ形であった。

その横には、祓戸社が鎮座している。

その社のお祓いの威力は、隣の女神岩の呪力によると考えられる。

 

 

 

大神神社の夫婦岩〔奈良県桜井市〕

 

 


三輪山の登り口には、狭井(さい)神社〔奈良県桜井市〕が建てられた。

狭井神社の近くを流れる川は、狭井川の名がつけられた。

それで狭井の名が「神の井戸」の意味に勘違いされた。

その影響を受けて、富家は「井」の字がつく出雲井神社〔出雲市大社町修理免〕を建てて、佐為神社の神を祀った。

神門臣家は、三刀屋〔島根県雲南市〕の地に幸神神社と出雲井神社を建てて、佐為神社の神を祀った。

 

 

台風台風台風

 

 

南出雲には、日本一大きな御袋岩がある。

飯南町頓原(とんばら)の南端にある「琴引岩」だ。

これは琴引山の頂上近くにある。

車道から山道を、1時間半ほど登ると着く。

 

 

 

琴引山〔島根県飯石郡飯南町頓原〕

 


 

この山の八合目あたりに岩の洞窟がある。

割れ目のある岩を、古代人は「琴」と表現した。

男神が琴を引くように、触れて楽しむと考えたようだ。

 

『出雲国風土記』の飯石(いいし)の郡に、琴引山〔飯南町頓原の南端〕の記事がある。

 

琴引山 郡家正南卅五里二百歩。

高三百丈。周一十一里。

古老傳云、此山峯有窟。

裏、所造天下大神之御琴。

長七尺、廣三尺、厚一尺五寸。

又有石神。

高二丈。周四丈。

故云琴引山。

 

琴引山 郡家の正南三十五里二百歩の所にある。

高さは三百丈、周りは一十一里ある。

古老が伝えて言うには、この山の峯に窟(洞窟)がある。

奥に天下を造られた大神の御琴(みこと)がある。

長さは七尺、広さは三尺、厚さは一尺五寸ある。

また、石神(いしがみ)がある。高さは二丈、周りは四丈ある。

だから、琴引山という。

 

古代人の計測は大雑把だが、これは御袋岩を指している。
 

崖の上に巨大な岩が縦に二つ並んでいる。

これも宍道町の岩と同じく大陰唇の形をした女神岩〔御袋岩〕だ。

古代は、母系社会で子宝に恵まれたいという念が強く、女神岩を崇拝したようだ。

風土記には一枚岩のように書かれている。

この岩は巨大で、人間たちの力で運べるとは考えられない。

 

奈良時代にはひと塊りだった大岩が、のちに人々が中間の割れ目を削って階段を造り、ホト岩となったことが、この記事で分かる。

古代人の女神造り信仰の強さには、驚かされる。

その奥に琴弾山神社の小神殿があり、大国主命が祀られている。

 

 

 

琴引岩〔島根県飯石郡飯南町頓原〕

 

 

 

ここの例祭は、弥生時代の祭日と全く同じだ。

秋祭りは秋分の頃にあり、春祭りも然りである。

これは日本の祭りの原点だから、古い古い伝統が受け継がれている。

 

この麓に由来(ゆき)八幡宮があるが、ここが巨岩の琴弾(ひき)神社を管理している。

由来の名の元は、矢の容器の意味だろう。

それが琴引岩の女神と関係がある。

 

 

靫(ゆぎ)〔平安時代までユキと清音〕

 

 

 

出雲には古くから、このような岩神〔磐座〕信仰があった。

それが、出雲王と関連づけられて話がつくられるようになった。

 

琴引岩や宍道岩は女神岩だが、歴代の大名持〔出雲王国主王〕がそれらの神岩に率先して出掛けて礼拝したので、岩神は「大名持の神」だとも思われていた。

 

そして、大国主の話が付く「岩(伊和)の神」の信仰は、各地で知られたが、播磨〔兵庫県〕でも同じだった。

 

播磨の宍禾(しさわ)の郡に、伊和神社〔兵庫県宍粟市一宮町〕が鎮座し、大名持と少名彦が祀られている。

 

 

 

伊和神社〔兵庫県宍粟市一宮町〕

 

 

 

この神社は『延喜式神名帳』では、伊和坐大名持御魂(いわにいますおおなもちのみたま)神社という名で書かれている。

神社では「大名持は、播磨国開拓の祖神である」と説明している。

 

 

 

 

 

出雲・大和連立王国時代には、播磨の地は出雲王国の一部として、重要な地域であった。

そして、両国の政治と文化の中継地としての役割も持っていた。

それで、両国のシンボルである銅鐸が、伊和神社のすぐ西方・閏賀(うるか)付近から出土している。

 

播磨地方は、古くから出雲文化の影響を多く受けていたので、出雲の岩神信仰も播磨地方で盛んに行われた。

それで播磨には、イワ(伊和)の地名がついた場所があった。

 

『播磨国風土記』では、大名持〔大国主命〕にかかわる話が「伊和の大神」の名前で、英賀(あが)の里や林田の里・伊和の村の記事の他にも、4ヶ所以上も記録されている。

 

託賀(たか)郡・袁布(をふ)山の項に、次のように書かれている。

 

 

『播磨国風土記』託賀郡・袁布山の項

 

 

 

袁布山(をふやま)というのは、昔 宗像大神の奧津島比賣命(おきつしまひめ)〔田心(たこり)姫の別名〕が伊和大神〔大名持〕の御子神を孕んだ時に、この山に到って「我が子を産むべき時に訖(をふ=至る)」と言った。

故に袁布山という。

 

 

 

『播磨国風土記』宍禾郡・伊和村の項に、記事がある。

 

 

 

『播磨国風土記』宍禾郡・伊和村の項

 

 

伊和村(いわのむら)、元の名を神酒という。

大神がこの村で酒を醸造した。

故に神酒村(みわのむら)という。

 

すなわち、大和の三輪明神が酒の神であるように、大国主命は古代には酒造りの神とも、言われていた。

 

飾磨の郡にも、伊和の里があった。

『播磨国風土記』は書く。


 

 

 

『播磨国風土記』飾磨郡・伊和里の項

 

 

伊和部(いわべ)と称されるのは、積嶓(しさわ)郡の伊和君(いわのきみ)らの一族がこの地に来て住み着いたからである。

これによって伊和部と呼ばれるようになった。

 

この飾磨付近には、出雲族の住んだ痕跡が見られる。

手柄山〔姫路市〕の南側はもとは三和山とも呼ばれ、その山麓にある生矢(いくや)神社はもとは三輪明神だった。

 

『播磨国風土記』の神前(かむさき)の郡には、伊和大神の子供の話がある。


 

 

『播磨国風土記』神前郡

 

 

 

神前と名付けられた所以は、伊和大神の御子神である建石敷命(たていはしき)が山使村(やまつかひのむら)の神前山に居たからである。

神の居る場所に因んで神前郡と名付けられた。

 

神崎郡福崎町の 二之宮神社には、建石敷命が祀られている。

その神社の背後の神前山には磐座があり、この地に岩神信仰があったことを示している。

 

 

二之宮神社と神前山

 

 

このように、出雲の伊和の神〔岩神〕を尊ぶ人々が、播磨の地に多く住んでいたことがわかる。

 

 

さぼ