クリスマスに何見てんだ。ということで、やはりゼロ年代の学園ものはいいね。この話何回もした気がするけど、こういうものの原作になるラノベは一ページたりとも読めないのだけれども、アニメは大好物だ。それは多分、声優の演技やそのほか演出がすごくうまいからなんだろうなあと、ネットフリックスでの外国語吹き替えとかを聞くたびに思う。
この種の学園アニメを楽しむために重要なポイントは、序盤のしょうもないラノベ的定石をクリアすること。この場合は、ゼロ年代に大流行りした(のかな)理不尽暴力系ヒロインをまずは拒絶しないで受け入れるところが案外しんどい。そこを超えないと3話以降まで進めないだろう。
ヒロインは「手乗りタイガー」こと逢坂大河。主人公「高須竜児」の住むオンボロアパート、のすぐ隣に立つ「高級」マンションの住民(ただアニメでは、外見は普通のマンション、中身は高級という(意図せぬ)ギャップ)。
この作品の肝は、同じ高校に通う同級生が、表面はみんな適当に仲良くしつつも、一歩私生活に踏み込むと家庭環境が違いすぎて、でもひとのことにあんまり口を突っ込むわけにもいかないし・・・でも友達が苦しんでいるのは嫌だし・・・というジレンマに苦しむところにある。学園恋愛アニメという大枠は、物語が立ち上がり、そして大勢に消費されるためには必要だ、だからそれは間違いなく中心にある。しかしながら、この作品の肝は実際は高校生同士の「クラス内の恋愛」ではなく、放課後の「家の中」での苦しみや葛藤に、いかに踏み込むかってことだ。
そのギャップは(多少ステレオタイプ過ぎるが)、大河と竜児の正反対な家庭環境に特に顕著だ。
大河ちゃん(自分で変な名前って言うけど、確かに男っぽいな)は、「うちお金持ちだもん」。だけど両親が離婚して、それぞれが今や別の女、男と新しい家庭(やカップル)を作っている。そんなわけで厄介者扱いされた大河は「高級マンション」を適当にあてがわれてそこで一人暮らしをさせられている。高校生なのにかわいそうだなあ。家事能力全く0なため、ゴミ屋敷と化した大河邸を、「掃除、カビ退治が趣味」の竜児が徹底的に掃除するところから物語は始まる。
一方の竜児くん。母子家庭。ちなみに後でわかることだが、結婚によって生まれた子供ではなく、妊娠したことがわかった相手の男は他の女と逃げた、ことによるシングルマザー。母親は高校も行っていない。おそらく35歳程度なのだろう。そんな環境にも関わらず、あるいはそのせいで、家事能力抜群、成績も優秀(らしい)ないい子に育った。でも、目つきが悪いせいで、ヤンキー扱いされて僕困っちゃうよ(こう言う設定多いよな)。
このように見てみると、二人の性格、環境は意図的に+/ーに振り分けられていることが分かる。
身長(低い、高い)、お金(ある、ない)、親子仲(疎遠、親密)、家事(出来ない、出来る)
ところが、肝心なところで彼らには共通点が多い
1、親が離婚(あるいはそもそも結婚していない)している
2、家が隣(ベランダの向かい、窓から出入りできる)
3、喧嘩っぱやい(と勘違いされている)
そして、彼らの一番の共通点は、「相手の恋路を応援しよう」というところ。大河はクラスメイトの北村くんのことが、竜児は同じくクラスメイトの櫛枝さんのことが好き!(だと彼らは考えている)。お互いがお互いをアシストしおうぜ、という利害一致の元に行動を共にする(というかそういう言い訳でもないと年頃の男女が付き合うこともなく一緒にいるという妙な状況を説明できない。という物語上の、そして高校生活の都合上の理由がある)
つまりこの物語は間違って動き出すことで、夢の実現がうまく遅らされている。
彼らは「大河が北村くんとくっつく」、「竜児が櫛枝さんとくっつく」という二つの目標を持っていると思い込んでいた。しかしながら、共同作業ほどに仲を近づけるものはなく、皮肉なことに自分たちが最初に設定していたゴールこそが、自分たちの内なる願望を阻害する要因になっていく。これは確かに学園ハーレム物では超定番なんだけれども、このアニメの場合そのジレンマを正面から乗り越えようとするところに好感が持てる。
複雑な家庭環境で苦しむ大河を、竜児は櫛枝(ミノリン)の協力を得て救い出す。ここで、この三人は擬似家族を構成する。竜児が父、櫛枝が母、そして二人に甘える大河はその子供。大河はそれで「私は両思いの二人を応援している!」と自分に言い聞かせる。竜児も「大河に応援されているんだから、頑張らないと」と張り切る。
最初にその親子ゲームに耐えられなくなったのがミノリン。キャラ設定は、ソフト部の脳筋、で顔はいいはずなんだけどいつもおちゃらけていて、可愛い女の子に対しておっさんキャラでいく、これもよくあるタイプだ。これなにタイプっていうんだろうな。いつも元気キャラだから修学旅行で女子部屋の中で恋愛トークになったとき、やっべえ空気にしてしまう。一見脳筋で恋愛と無縁なのが、案外一番早く「ゴッコに耐えられない」と仮面を外してしまうのもなんかリアルだ。
序盤はフェイクの四角関係を見せつつも、本命の三角関係はこっちでしたか、という流れ。でもここから、「中に誰もいないですよ」エンドを回避するにはどうするか。それが腕の見せ所。ここでの着地点は、「全てを自分のために」ということ。大河は「ミノリンは竜児のこと好きだから、二人は両思いなんだし応援しなくちゃ」、ミノリンは「大河は北村くんのこと好きって行っているけど今は本当は竜児のことが好き、私は譲らないと、大河のこと好きだから」、そして竜児は・・・正直あんまり考えていない、よくある「俺は本当はどっちのことが好きなんだ〜」と悩む贅沢な主人公だ。
そしてそこから親子関係の嘘をぶった切った上での再構築においてもこの構図が転用される。竜児は母親のことを「俺のために毎晩働いて(お水で)、お金なんて心配しないでいいから大学行きなさいなんていうけど、もう負担かけたくないし」と思っている。でもそれは「勉強して偉くなれっていうけど、勉強もせずに、将来のことも考えずに貧乏にその日暮らしをした自分の失敗を、息子に夢を託して押し付けるな」という言葉になることもない感情の裏返しでもあり、負担と依存の関係性としてしか親子関係を見ていなかった。彼があんなに家事ができて、あんなに勉強ができる(らしい)のも、そういう互酬的な関係としてしか親子関係を構築できなかった悲しい歴史がある。
だから彼は、「大河と駆け落ちする」というウルトラCを持ち出すことで、三角関係と親子関係を同時に一度、0からやり直さざるを得なかった。
でも、ここで「高校二年生の駆け落ち物語」で終わったら、やばい。この手のライトノベルの社会的責任は多分それほど小さいものではない。高校生活を「終わってみれば良かったものだな」と振り返るものにしないと、主たる読者である中高生以降の学校でさほどいい思いをしていない少年たちに対して、あまりにもひどい。
だから、駆け落ちは一瞬で終わる。大河と竜児はそれぞれの親子関係を再出発し、大河は転校する。そして一年後、それでも結婚の意思が変わらなければ二人は結ばれるのだろう。これはいいね、できちゃった婚奨励物語にならずに済んだ、ふぅー。
いくつか名台詞があったな、最終盤しか覚えてないけど
ミノリン「廊下で転ぶと鼻血が出るけど、人生で転ぶと涙が出るんだぜ」
大河「駆け落ちのおやつだから、ちょっと大人の選んできたの」
いやあ駆け落ちとかまだ現役なんだな。ちなみに大河と竜児の入水(もどき)もある、案外ちゃんと古典的ラインは抑えている。
個人的には序盤よし、文化祭で一つ目の山場(竜児、ミノリン、大河の擬似家族の完成)、中盤(北村くんと会長の物語)結構ダレて、終盤で一気にぶち上げた印象だ。脇役も結構いい。ゼロ年代のとってもクサイ学園モノなんだけど、そのクサさをしっかり自覚しながら、一生懸命イタイ高校生をやっているのがいい。冷笑の罠に落ちちゃあダメだ。