1980年に雑誌掲載された同名の中編を40年越しに大幅書き直し。

というか、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の世界の終わり編を、ずっと読まされたのが、第一部だった。

これのどこが新作だよ! とすごく残念な思いになったところで、ようやく第二部が始まり安心する、こちらは新しい物語だ(ところが後書きを読んだところ、第一部を書いて、村上は一度、できたと思ったそうだから、やっぱりほとんど同じに見える第一部が作家としては大事なのだろう。編集者に文句言われるだろう)。

 

で、第二部は東北の田舎町の奇妙な町営図書館での日々で、それはそこそこ面白い。ただそれがなんだか尻切れとんぼに終わって謎が回収されることなく、また第一部と同じ街に戻っての短い第3部で締められる。

 

村上の小説を大きく分けるとすると、現実世界への関わりを深めた(大学紛争、オウム真理教、震災)時期の小説と、それ以前の個人の内面世界に沈み込むデタッチメントの小説に二分されると思うのだけど、1985年の『世界の終わりと・・・』は後者の代表作。そして僕は断然、1990年代以降の小説の方が好きだ。

で、村上は40年前にやり残したこと、多分ユング=河合隼雄的な、人間の無意識の世界についての物語に再び取り組もうとしたと思うのだけれども、それが成功しているようにはあまり思われない。スプートニクの恋人やねじまきどりなど1990年代の彼の小説では井戸という重要なモチーフが続いていて、その具体的なイメージを軸にして河合から学んだであろう人間の無意識についての物事がうまく描かれていたのだけれども、本作(と世界の終わり)では、現実世界には存在していない街、図書館、壁(全て主人公が脳内で作り上げたもの)を軸にしているから、「だからなんなんだよ」っていうツッコミを抑えられない。

 ガルシアマルケスのマジックリアリズムについて会話が作中で現れるが、村上は自分がよくマジックリアリズム作家と分類されることを知った上で、現実の非現実の壁の曖昧さを描こうとしていると思うのだが、かつての村上はもっとうまくやっていた。

 スプートニクの末尾を読み返して欲しい

 というか、まあ僕が「世界の終わりと・・・」に全くのめり込めなかっただけなのだが。しかし村上の長編小説もこれが最後かもなあと思いながら読み始めたので、途中からずっと、こんなんで最後にするんじゃねえぞ! となっていた。

 村上が老いを描けない、っていう問題についてもなあ。この主人公は「世界の終わり」の彼なので(というか影なので)、欲望がなさそうなんだよね。セクシャルな描写で売れてきた面が村上にあるとすると、彼にとっての老いってのはただ単に「枯れ」なのか、と。