『ゴリオ爺さん』と並んで有名な『谷間の百合』なんだけど、これ面白いのかな。
物語はほぼ、田舎の緑豊かなロワーヌ川沿いの谷間で進行する。(「谷間」と言っても、鬱蒼と茂ったジメジメした沢のイメージではなくて、フランス語では牧歌的な云々、と訳者注。アルプスの谷間なんて典型的だよね)
勉強や読書のしすぎで病気になった主人公は、田舎に連れ戻され、ぼーっとしながら舞踏会に出てみる。すると、目の前に、綺麗な肩をしたご婦人が座り、訳も分からぬままに、その肩にキスをしてしまう・・・
というところから始まる、なんじゃそりゃ
ドン引きされた主人公(ハタチくらい)はめげずに「あああの奥様にまたどこかで会いたいなあ」と思いながら散歩している。と、なんとたまたまその屋敷を発見!夕食をご馳走になる(なんでやねん)。
この少年、あんまりにもひ弱そうだから「14歳くらいかしら?」なんて奥さんは思っていたんだけど、もう大学生、ウソー。「こんなにひ弱でも20まで生きれたのね、じゃあうちの子達も・・・」と、奥さんは変に勇気付けられる。
そう、このヒロイン、二児の母親だった!(いや人妻だったってことは、当然分かっているのだけど、まさかそこそこ大きな子供がいるとわね)ヒロインは「よしよし私の子供みたいね」と主人公を可愛がり、主人公は「僕は立派な大人ですよ」と愛を告白してはたしなめられる。まあよくある展開だ。
でも、この二人はいいとして、案外いい味出しているのが、ヒロインの夫であるモルソフ伯爵。実はとんでもない間抜けであることを世間様に見せないために、妻は一生懸命、彼が役職を辞退するように誘導する。現金収入がないから伯爵自ら地所の一部を耕す。で、自分の思い通りにならないと途端に癇癪を破裂させ、妻や子供達に怒鳴り散らす。いやあ大変な人だ。
田舎で、そんな夫との息詰まるような生活。そこに光を指したのが、まだ子供のような少年が自分に恋をして毎日家に通ってくれることだった。あら嬉しい。でも、「ああでも私は貞淑な貴族の奥様、ああこんなに愛されているのに叶わないなんて、ああなんて悲しいのかしら!」と嘆くことが楽しいのであって、究極のところ主人公のフレデリック君よりも自分が大好き。でも、語っているのはフレデリック君だから、このモルソフ夫人、あたかも「僕を熱烈に愛しながらも宗教的な貞淑のもとに、最後まで夫に対して操を立てた聖女のようなお方」になってしまう、はあそうですか。
「あなたはパリの社交界に出たら出世のために50代以上の奥様達と仲良くしなさいね、20代の娘はバカだから仲良くしちゃダメよ」なんてありがた迷惑な助言をした割には、いざフレデリック君に彼女が出来ると怒り心頭に発し、「あらもうアンリエッタなんて呼ばないでいただけるかしら、モルソフ夫人でしょ」と冷たく拒絶する。既婚の奥様が、未婚の青年に対して忠誠を誓わせるのは当然なのだけれども、そういう時は「結婚」とかいった、彼氏の社会的上昇につながる縁はむしろ応援するのがパリ的な社交界でのシックな恋愛だと思うのだが、なんだかとても田舎臭い(別にこれは僕の考えではなくて、19世紀フランス恋愛文学の文法においてという意味で)。だいたいあんた「私たちは母と子のように、姉と弟のように、叔母と娘のように」愛し合いましょうね、いうてたやんか。いざ彼女が出来ると、急にドロドロの肉欲を主人公に見せる(その見せ方も、「私はこんなに頑張って欲望を抑えて、犠牲の道をやってきたのに、なんであなたはパリで・・・」という)ので、ほとほと参る。よく嫌にならないなあと思うのだけど、そこは主人公!田舎に戻れば戻ったで、すぐにパリの彼女のことは「いやあ、やはりフランス女と比べるとイギリス女は情緒ってもんがないよね」とかいって、「さすがモルソフ夫人、なんて貞淑で聖女みたいな人なんだ!」となる。すごいな
で、そんなこんなでモルソフ夫人は嫉妬の苦しみからの「42日間何も食べず、一睡もしていないのです」という「聖女の苦しみ!」(違うだろ)の末に、肉欲から解放されて、真っ白な、本来の彼女に戻り天に召される。
臨終の苦しみの最中、彼女はフレデリック君に遺書を託す。そこには、「あなたをずっと私のそばにおいておきたいと神父様に相談したら、「母と子」という関係ならいいでしょう、って言われたの!だからね、娘のマドレーヌのね、お婿さんになって欲しいの、そしたら私が死んでからでもずっとあの谷間であなたと一緒に暮らせますからね」とかいうやばいことが書いてあった。
感動したフレデリック君、葬式の後、マドレーヌちゃんをテラスに読んで神妙に語りかける。「お母さんが最後に、残した言葉があるんだ。実はね、そこには、お父さんに話したら大喜びするような提案があるんだよ。そうしたら僕もずっとここで君たちと一緒に暮らせるんだ」とか話し出すや、マドレーヌちゃん「あんたの企みは分かってんのよ、お母さんを奪ったクズめ、もう二度とこの家に足を踏み入れるんじゃない」。そりゃそうよ
で、面白いのは、この小説、フレデリック君が後年、別の女性を口説くために?、彼のこれまでの恋愛がいかにプラトニックで清いものであったかを訴えるための手紙、という形をとっていること。ここまで、もしかしていたかもしれない「ああ、素敵な恋愛小説だったなあ」なんてピュアな読者は、最後の返信でようやく気づくのだろう。
ナタリーちゃん、「あんたばっかじゃないの、今後のために忠告するけど女の人に、元カノのことをそんなに(500ページ)書くと嫌われるわよ。後、私あんたのことは好きだし、あんたの好きなものも好きになりたいけど、そのなんだっけ、モルソフ夫人?、そのひとのことは絶対に好きにはなれないね」はい、どうも代弁ありがとうございました。
物語を図式的に考えると、
主人公「フレデリック」が、目標「モルソフ夫人と結ばれる」に向けて頑張るが、ライバル「モルソフ伯爵(ヒロインの旦那)、ダドリー嬢(パリの彼女)」に邪魔される、そこに援助者「田舎神父(「不倫はあかんけどね、でも養子にしたらええんとちゃうかな」)が現れ、ヒロインの死後、代理ヒロインである娘マドレーヌと結ばれるかと思いきや、当然のことながら、そんな漫画の主人公みたいな都合のいい展開は現れず・・・という感じか。純愛として描かれがちな展開を、当事者のどす黒い自己愛のぶつかり合いによる都合の良い解釈として捉えなおし、第三者の視点をちょくちょく入れることであまりにもクサすぎる物語になるのを回避している。
映画化するなら、マドレーヌ目線が面白そうだ。
ちなみに初対面時、モルソフ夫人は実はまだ28歳で主人公とは実はあまり離れていない(このとき主人公は22歳手前?)。でも10歳近く?の子供がいるから、随分と年上みたいに振る舞っている。ヒロインが35歳で死んだ時、主人公は29歳。初対面時のヒロインの年齢を超えた時、モルソフ夫人に抱いていた年上の素敵な奥様という幻想が、ポロポロと崩れていく(彼はそれを認めないが)のがなかなか面白い。
モデルとなった人がバルザックより20も年上で、本当にマザコンみたいに(実の母親には愛されなかったから)甘えたようだが、小説にするにあたり、年齢をもっと近づけ、20代の青年の年上のご婦人との叶わぬ恋という定式の中に当てはめたようだ。