2010年、2018年に読んでいる。三度目。

いやいや、とんでもない傑作だ。バルザックってすげえつまんない小説も結構多いと思うんだけど、やっぱり『ゴリオ爺さん』は最高だ。何がって、その後のフロベールの感情教育とかって完全にこの『ゴリオ爺さん』を下敷きにしているんだよね、その上でその劇的さを全て無くそうとする。あまりにも偉大だから、どうにかしてそれを乗り越えよう、あるいはその物語らしさを否定しようと躍起になる、そういう時代を越える傑作。

 

主人公はラスティニャック。貧乏な田舎貴族の長男で、パリ大学の法学部の学生。友人に医学部生のビアンションがいる。19世紀パリで学生となると、法学部か医学部と相場が決まっている(将来があるのはそれだけだったから)、それにしても小説の中で法学部に登録してみた学生の中退率の高いこと(たいてい勉学に身が入らず、二年目には大学に通わなくなる)。ラスティニャックも大学に行くのは出席の返事をするためだけ(すぐに抜ける)。

 なぜかというと、もう弁護士や裁判官の道は諦めたから。小説の主人公には、(夏目漱石の三四郎やフロベールの感情教育のフレデリックと同様に)、勉学で身を立てるか、コネを使って社交界で有名になるか、二つの可能性が開かれている。最初は勉強しようと思うのだけど、悪党ヴォートランの、「弁護士になりたい奴がどれだけいると思っているんだ、それになれたところでそんなみみっちい給料じゃパリの社交界で生きていけないぞ」という悪魔の囁きに惑わされ、早々に勉学を諦める。

 ラスティニャックが選ぶのは社交界の道。まず頼るのは親戚のお姉さんボーセアン夫人。パリでも三本の指に入るほどの大貴族。で彼女、田舎から出たばかりで右も左もわからぬ、でも顔を意外と良くて野心家の青年を見て、気まぐれから彼の社交界デビューを後押しする。まずは後だてになる女を見つけないと。そう、社交界の人気者になる=ご婦人たちから狙われるためには、「誰かの彼氏」である必要があるのだ。女は誰かに欲望されている男でないと好きにならない、と。

 この社交界の法則を叩き込まれたラスティニャック。手始めに、顔が良くて好きになれそうだと思ったニュッシンゲン男爵夫人デルフィーヌと恋をすることにした。・・・

 

 これがラスティニャックの物語。これだけでもすごく面白い。というか、フロベールやプルーストは、ここだけで物語を完結させると思う。

『ゴリオ爺さん』の主役は、なんと言ってもゴリオ爺さん。彼はラスティニャックと同じ下宿に住む隣人だ。この隣人というところが肝。二十歳前後の大学生の隣人である60を超えた男性。経済状況が同じくらいということは、学生からすると取るに足らない存在だろう「俺は将来ビッグになるんだ、こんな下宿に住むのは今だけさ」。でも、そんなゴリオ爺さんのところになんと貴族ご婦人たちがやってくる、どういうことだ? この謎から、ゴリオ爺さんの驚くべき人生が明らかになる。

 彼は1789年のフランス革命の時、小麦の不作に乗じて小麦を買い占め、大金を手にした商人。その金を持参金(現在の日本円にして5、6億円ずつ)に、革命後の混乱した社会で、二人の娘を貴族と銀行家とに嫁がせることに成功する。そして娘たちの家を交互に訪れて楽しく暮らしていた。ところがナポレオンの時代が終わり、王政が戻ってくる。革命でがめつく稼いだ商人などが家に出入りしているなんて、恥ずかしい! というわけで娘たちからもあまり家に来ないでと言われるように。最後はリア王。というか、キリストだな。断末魔の苦しみの中、看病にやって来ない娘二人を時に呪いながらも、最後には「祝福する」。

 

 ゴリオ爺さんの埋葬はラスティニャックとビアンション、二人の学生がお金を出し合う。不倫や金遣いの荒さを夫に叱られた娘たちは、葬式にも来ない、葬式代も出さない(というか二人の婿たちが出さなかった)。社交界の現実を身に染みて理解したラスティニャックは、墓地のあるペール=ラシェーズの岡の上からパリを見下ろして叫ぶ「さあ今度は、俺とお前の勝負だ!」。