淡路国の国生みめぐり① ~伊弉諾神宮~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

淡路島(あわじしま)の
多賀(たが)にある

伊弉諾(いざなぎ)神宮です。



ここは
幽宮(かくりよのみや)
ともいわれ

天照大神の父・
イサナギが亡くなった地
とされているようです。

 



日本書紀には


構幽宮於淡路之洲
かくりよのみやを
あわじのくににつくりて

寂然長隱者矣
しずかにながく
かくれましき


とあり、

国生みを終えた
イザナギは病があつくなり
淡路島にねむったといいます。



古事記には


伊邪那岐大神者
いざなぎのおおかみは

坐淡海之多賀也
おうみのたがにいます


とあり、

イサナギがねむったのは
淡海国(滋賀)
多賀(たが)大社とも
いわれるようです。

けれどもこれは、
淡海と淡路の

書き間違いともいわれ

 

日本書紀とおなじく

淡路島にて亡くなったとも

いうようです。

 



たしかに、
淡海の琵琶湖と
淡路の淡路島は

 

形も大きさも
よく似ています。

 



ホツマツタヱには


いさなきは
あつしれたまふ
ここおもて
あわちのみやに
かくれます


とあり、

病があつくなった
イサナギは
淡路の宮にねむった
とあるようです。

 



また、つづいて


あひわかみやに
ととまりて
やみおたします
たかのかみ


とあり、

死後、

イサナギの御霊は
アヒ若宮に留まって

闇(が)を治(た)すことから
多賀(たが)の神と
称えられたといいます。

アヒ若宮とは滋賀の
多賀大社のことであり、

イサナギ・イサナミが
ともに暮らした地だといいます。

 

つまり、

亡くなったのは

淡路島だけれど

御霊は淡海の

多賀大社にとどまった

というようです。

これには、
隈(くま)の神として
闇(あの世)を担当した
イサナミ

多賀の神として
光(この世)を担当した
イサナギの
対比もあるようです。



では、
淡路島には
どんないわれがあるかというと、

ここは
イサナギ・イサナミの
5人の御子のうち

ヒヨルコを産んだ地
ともいわれるようです。




うたひはらめと
つきみてす
ゑなやふれうむ
ひよるこの
あわとなかるる


歌って孕んだものの
月が満ちる前に
胞衣(えな)が破れて
流れてしまったため


これもまた
このかすならす
あしふねに
なかすあはちや


これもまた
御子とはなれず
泡(あわ)となった
ヒヨルコは

葦舟にのせて
淡(あわ)路から
流したとあります。



これは、
歌いや儀式の手順を
間違えたために流れた
ともいわれるようで

「わが恥じ」から
『吾恥(あはじ)』とも
いわれるようです。

 

淡路(あわじ)の語源は

ここにあるのかもしれません。

 



この葦舟は、神戸の
和田岬(わだみさき)
流れついたともいわれ、

夕日のしずむ
須磨(すま)海岸では
淡路島から和田岬まで
光の路がかかるといいます。

百人一首にも



淡路島かよふ千鳥の鳴く声に
いく夜寝覚めぬ須磨の関守

 

とありますから

淡路と須磨の関係は

とても深いようです。

 


また、

須磨海岸へとゆきあたる
兵庫の六甲山系と
淡路島の山々は

六甲・淡路島断層帯を
形成しているといい

阪神・淡路大震災も
この断層が震源だったといいます。



記紀にのこる
国生み神話では、

イサナギ・イサナミの
国生みにおいて
はじめに創られた国土が
淡路島ともいわれていますが、

もしかするとこれは
ヒヨルコを産んだこと
なのかもしれません。

 



境内には
陽の道しるべという
レイラインの碑があり


天照大神ゆかりの
伊勢(いせ)神宮や

イサナミゆかり
熊野那智(くまのなち)大社など

不思議な一致が
あるといいます。



さらに、
滋賀の多賀大社と
淡路の伊弉諾神宮との

真ん中あたりには
伊射奈岐(いざなぎ)神社が
あるともいうようです。

 

この神社も

とても気になります。



さて、
伊弉諾神宮の由緒によると

 

イサナギの住居跡に
陵(みささぎ)がきずかれたと

されているようです。

かつては、
陵のまえに神殿を構えていた
といいますが

明治のはじめに
墳丘を整備して

陵の真上に
神殿を築いたといいます。

 



正門の南にある
放生の神池や

 

境内の北にある

御社池(ごしゃのいけ)は、

 

陵の遺構とも

いわれるようですが
さて、どうでしょう?

ぼくとしては、
宮跡ではあっても
墳墓ではなかったという
気もしています。



日本第一番の宮とされ

地元では「いっくさん」と

よばれているといいます。

 

ほかにも

日之少宮(ひのわかみや)

津名(つな)明神

多賀明神

淡路島神

一宮皇大神など

よばれているようです。

 



国生みの地と

されるためでしょうか、

 

境内にいると

とても健やかな気分に

なってきます。

 

 

とくに

樹々の力強さは

眺めているだけでも

うっとりとしてしまいます。

 

淡路祖霊社の

穏やかな空気も

素晴らしいものでした。

 

 

夫婦楠をまつる

岩楠(いわくす)神社では

蛭子(ひるこ)を祀っている

といいますが、

 

もしかするとこれは

ヒヨルコのこと

なのかもしれませんね。

 

 

もちろん、

イサナギ・イサナミの

さいしょの御子である

 

ワカ姫ヒルコさまのこと

ともいえるのかもしれません。

 

 

また、おなじく

イサナギ・イサナミの

御子である

 

天照大神や

月読尊(つきよみ)をまつる

左右(さう)神社や

 

 

ソサノヲをまつる

根(ねの)神社なども

ありました。

 

ソサノヲが

根の国を治めたことから

きているのでしょう。

 

ですから境内には

イサナギ・イサナミの

御子が揃っているようです。

 

 

また、ここには

竈(かまど)神社も

祀られているのですが、

 

祭神の

『オキツヒコ』は

ホツマツタヱによると

 

竈門神の称え名をもち

食をつかさどる

オキツヒコと、

 

六船霊(むつふなたま)

ひとりである海の一族の

オキツヒコがいます。


淡路島は古代の

海人(あま)族である


阿曇(あづみ)氏の

勢力圏だったといいますが、

 

ホツマツタヱにも

イサナギはオキツヒコらを

安曇命(あづみ)に統括させた

とありますから、

 

そうした繋がりも

あるのでしょう。

 

 

この社が、

本殿の背後にある

神苑の入口を護っている

というのも意味がありそうです。

 

おなじく

海や舟にかかわる

住吉(すみよし)神社

祀られていました。

 

 

淡路島は

古代から平安の世まで

御食国(みけつくに)として

 

皇室や朝廷に

食べ物を貢いだといいます。

 

若狭(わかさ)国

志摩(しま)国

淡路国が

 

主要地だったといわれ

食の豊かな地でもあったようです。

 

 

このように

朝廷とも縁がふかく

 

第18代・

反正(はんぜい)天皇は

淡路島で産まれたとも

いうようですが、

 

なかでも、第47代・

淳仁(じゅんにん)天皇は

淡路島に陵があるといいます。

 

 

女帝である、第46代・

孝謙(こうけん)天皇とは

 

弓削(ゆげ)氏の僧・

道鏡(どうきょう)をめぐって

対立してしまい

 

淳仁天皇は

淡路島に流され

亡くなったといいます。

 



仏僧でありながら

孝謙天皇の寵愛をうけ

天皇にまでなりかけた

道鏡の手腕は、

 

ロシアのラスプーチンとも

似ていますが、

それはさておき

 

恨みをかった

淳仁天皇は明治時代まで

天皇と認められず

 

淡路廃帝(はいたい)と

よばれていたようです。

 

 

境内の南には

道路をへだてて

御神田があるのですが

 

 

その向かいにある丘は

淳仁天皇の

衣冠塚(えかんづか)といわれ

 

淳仁天皇が幽閉された

妙京寺(みょうきょうじ)の

旧地だといいます。

 

 

淳仁天皇をしたった

里人が

 

衣服と冠を埋めて

祀ったといいます。

 


淳仁天皇もまた

滋賀の琵琶湖とゆかりが深く

 

淳仁天皇が

いとなんだという

保良宮(ほらのみや)は

淡海国にあったようです。

 

 

琵琶湖の北にある

須賀(すが)神社は

保良宮の旧地とされ、

 

いまでも

淳仁天皇を祀っている

といいます。

 

また一説には、

難を逃れた淳仁天皇が

隠れ住んだ地ともいわれるようです。

 

やはり、

淡路と淡海には

ふかい繋がりがあるのでしょうか。

 

 

淡路国の国生みめぐり② へ つづく

 

 

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