摂津国の長田めぐり① ~三石神社~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

兵庫県の
和田(わだ)岬にある
三石(みついし)神社です。



ここは
日本書紀にものこる
務古水門(むこのみなと)

であり、

三韓遠征からかえった
神功(じんぐう)皇后
寄港した地と
されているようです。



神功皇后は、
第14代・
仲哀(ちゅうあい)天皇
妻となられたかたで、

仲哀天皇亡きあと
事実上の女帝として
国を率いたといわれています。



朝鮮半島まで

遠征して


馬韓(ばかん)
弁韓(べんかん)
辰韓(しんかん)の

3韓を征伐したとされ、


帰国後に、第15代・
応神(おうじん)天皇
出産されたようです。

 



瀬戸内をぬけて

大和をめざす

航海の道すがらでは、
 

産まれたばかり皇子を
武内宿禰(たけうちのすくね)
に抱かせていたといい、

 

この姿は

武内宿禰をまつる神社

よく描かれています

 



しかし、大阪の

難波(なにわ)沖で


船がぐるぐると廻って

進むことができなくなり、

やむなく

引き返したのが、ここ、

務古水門(むこのみなと)

だといいます。




斎王(いつきのみこ)
でもある皇后は

なぜ船が進まないのか
占いをおこなったところ、

おおくの神霊があらわれて
託宣したそうです。



そこで、
天照大神の荒魂は

廣田(ひろた)神社

稚日女尊(わかひるめ)は
生田(いくた)神社

事代主命(ことしろぬし)は
長田(ながた)神社に

住吉大神の和魂は
本住吉(もとすみよし)神社
お祀りしたといいます。

 

この神々は、

ホツマツタヱにいうところの

 

瀬織津姫(せおりつひめ)

ワカ姫ヒルコ

事代主クシヒコ

カナサキ翁であるらしく、

 

神功皇后は

ホツマツタヱの神々を

六甲山(ろっこうさん)

ふもとに祀ったともいえるようです。

 

 

こうして無事に、

神功皇后の一行は
難波に入港できた

といいます。

三石神社は、
占いをおこなって

託宣をうけた地といわれ


境内には
3つ石の遺跡がありました。



この石は、
 

応神天皇の出産を

遅らせるためにもちいた
月延石(つきのべいし)として


和田岬の田から

遠征にもっていったものだとか、

 

この地で
占いにつかったものだとか
いわれているようです。



また

歴史上最初の女帝とされる
第33代・
推古(すいこ)天皇は、

 

神功皇后の

遠征にあやかるために
この地で、


辺境の鎮圧を祈って
禊をおこなったといいます。

そのためここは
祓殿塚(はらいどののつか)
ともよばれ、

 

このとき
玉座にした石も
三石というそうです。

 



第45代・
聖武(しょうむ)天皇の世には

奈良の大仏を

建立することになる
行基(ぎょうき)が、

兵庫近辺に
摂播五泊(せっぱんごはく)

という

 

5つの港を
ひらいたそうですが、

そのうちのひとつ
大輪田泊(おおわだのとまり)が
ここだといいます。



そのとき、
神功皇后の

神霊があらわれ

 

これからは
船の往来を護ると
託宣があったといいます。

そこで祠をたてて
往来神・雪気神(ゆきけのかみ)
として祀ったといいます。

「雪気(ゆきけ)」は
「行き来(ゆきき)」が

なまったものだといいますが、

さて、どうでしょう?



これがゆくゆくは
兵庫津(ひょうごのつ)となり、

やがて
日本5大港のひとつ
神戸港(こうべこう)へと

発展していったようですから、

この地がいかに
重要であったかが
うかがえます。



地理的にみても

ここは

 

摂津(せっつ)国と

播磨(はりま)国の

国境だったようです。

 



六甲山脈の西端は
須磨(すま)アルプスともいわれ

高取山(たかとりさん)
横尾山(よこおさん)
鉢伏山(はちぶせやま)
とつづいて

須磨海岸へと
ゆきあたります。

 



山並みがちょうど
海まで突きでており

ここより

東が摂津
西が播磨
だったようです。

 

大阪平野の

西の端でもあります。

また、
淡路島ともちかく
瀬戸内海の出入口という

要衝であることがわかります。

 



平安時代末期には
平清盛(たいらのきよもり)が


この地の大修築に
とりかかったといいます。

生田神社の

8社めぐりのひとつ

七宮神社でも
すこし書きましたが、

平清盛はここに
人工島まで築いて、

 

難のあった和田岬の
安全性を増したといいます。

そしてこれが
日宋貿易にも
つながっていったようです。

 



また平安時代には、


廣田神社

西宮(にしのみや)神社

南宮神社の
3社の神輿が

海路をつかってやってくる祭が

おこなわれていたといいます。

神輿は、

3つ石のうえに
置かれたともいい、

帰りは陸路で
24キロの道のりを
その日のうちにたどったらしく、

産宮(うぶみや)参りや
産土(うぶすな)参りと
いわれていたようです。

 

織田信長による

社領没収以後は

途絶えていたそうですが、

 

20年前から

復活しているといいます。

 



ただし、
現在の社地は

遷座だといいます。

もとは
300メートル東南に
あったようですが、

明治期には
富国強兵の時勢のなかで

三菱造船所が築かれ

遷ったといいます。

 

現在でも

三菱の工場内には

三石神社の跡地に

石碑がたっているのだそうです。

 



また明治期には
兵庫運河が築かれ

地図のように
岬が分断されたようです。

運河を利用すれば

岬沖の難所を

通らず済んだらしく

 

こうした歴史が
神戸港の発展に

繋がっているとおもうと、

とても興味深いです爆  笑キラキラ



ちなみに、
兵庫という言葉も

大化の改新のときに
須磨をまもるため

この地に
兵庫(つわものぐら)という
武器庫がおかれたことに
よるのだといいます。

 

 

摂津国の長田めぐり② へ つづく

 

 

↓よければクリック

↓お願いします。


神社・お寺巡りランキング

 

 

☆長田めぐり全記事リスト☆

摂津国の長田めぐり① ~三石神社~

摂津国の長田めぐり② ~和田神社~

摂津国の長田めぐり③ ~長田神社~