豊前国の宇佐めぐり⑨ ~大尾山と和気清麻呂~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

宇佐(うさ)神宮
東側には、
大尾山(おおやま)が
あります。


 

宇佐神宮の境内から

まっすぐに伸びる参道は、

 

深い関わりがあることを

示しているのでしょう。

 




東大寺の造営に協力し、
朝廷との結びつきを強めた
宇佐神宮でしたが、

大神比義(おおがのひぎ)

にはじまる宮司職の

大神(おおが)氏は、

呪詛をおこなった
という嫌疑によって
失脚してしまいます。



そこで大神氏の祀る、
八幡(はちまん)大神

宇佐神宮から切り離され

 

大神氏ともども、
伊予(いよ)国の

宇和嶺〔愛媛県八幡浜〕に

左遷されたといいます。



そのあいだ

宇佐神宮本殿では、
宇佐(うさ)氏

辛嶋(からしま)氏によって


比売神〔宗像3女神〕の奉斎が
続けられていたようです。

そうして
12年経ってのち、


伊予国から帰座したのが
大尾山だといいます。



八幡大神は、
大尾山に15年鎮まったのち、

宇佐氏の尽力によって、

宇佐神宮の本殿に
帰ることができたようです。

 

日本を揺るがす大事件は、

この八幡大神が大尾山に

鎮座しているときに起こりました。



ときの女帝である
第48代・
称徳(しょうとく)天皇は、

弓削道鏡(ゆげのどうきょう)という
怪僧を寵愛していたといいます。


物部守屋(もののべもりや)を
始祖とする
弓削氏の道教は、

陛下の病気を
癒したことから取りたてられ、
政治にまで
介入していったといいます。



そこへ、
宇佐神宮から
 


道教を天皇とすれば
天下は泰平になる


という八幡大神の

神託が下ったと
伝えられました。

その報せに
悦んだ称徳天皇は、

すぐに確認のための勅使を

派遣しました。

それが奈良貴族の
和気清麻呂(わけのきよまろ)
です。



参宮した清麻呂が、
大尾山にて
宣命を読もうとすると、

禰宜(ねぎ)の
辛嶋勝与曽女
(からしまのすぐりよそめ)に
降りた神が

宣託したといいます。


わが国は開闢このかた、
君臣のこと定まれり。

臣をもて君とする、
いまだこれあらず。

天つ日嗣は、
必ず皇緒を立てよ。

無道の人は
よろしく早く掃除すべし


これはつまり、
皇統を維持せよ
というお告げでした。



こうして

和気清麻呂は、
道教の天皇即位を

退けたといいます。

 

これを
宇佐八幡宮神託事件
(うさはちまんぐうしんたくじけん)といい、

 

当時の宮があった場所には、

大尾神社が残っています。

 



標高50Mほどの
低山ですが、

靄がかった
小雨のなかでは、
神気にみちているようでした。

本殿も小さいながら、
厳かな雰囲気を醸しており、
おもわず息を呑みます。



また、
楼門前に埋まった石も
磐座のようでした。

 



手をかざすと
温かみのようなもの感じて

一緒にいた父も
不思議そうにしていました。

さて、
皇統を護った
和気清麻呂ですが、

大和へもどると、
称徳天皇の不満を買って
左遷されたといいます。

そして道教のほうも、
罪に問われることは
なかったようです。

しかし数年後、
称徳天皇が崩御すると
道教も左遷されたといいます。


2つの託宣のうち
どちらが正しかったのか、

ここにも
歴史ミステリーが
ひそんでいるようです。



一説によると、
道教は天智(てんじ)天皇の

系統を継ぐとも

いわれているようです。

それに

膝が3つあると揶揄される

悪僧のイメージは、

後世のモノだとも

いわれているようです。

しかしながら、
皇統を護った
和気清麻呂は

現在では
楠木正成(くすのきまさしげ)とならぶ
忠臣とみなされています。



菱形池(ひしがたいけ)

中島にあった、
和気清麻呂の社は、

昭和になってから
大尾山の中腹へと
うつされ、

護皇(ごおう)神社として
祀られていました。



こちらもまた、
とても素晴らしい場所でした。

この大尾山は、

本殿のある
亀山(かめやま)、

下宮のある
宮山(みややま)とともに

宇佐三山のひとつといわれ、
菱形山(ひしがたやま)という

総称もあるようです。

 



そんな菱形山に
囲まれているから、

菱形池とも
いうようです。


豊前国の宇佐めぐり⑩ へ つづく

 

 

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