覚え書き『童話的私生活』【中央図書館A】〜過去の自分とともに遠くまなざしは未来を見つめる〜
今回この原稿を書くにあたり、創作ノートに雑記帳、草稿ノートや未完に終わった原稿の数々を片っ端から引っ張り出して、かき集めてみました。
ぼくにとって過去を見つめるということは、苦痛以外の何ものでもありません。
清算された過去は十分反省されて現在の自分の基盤となっているはず。
そうした苦痛を押してまで、あえてそれを行うその意義が、ぼくには見出せないのです。
そして郷愁を誘うまばゆい過去は常に媚薬であり、酒よりも強く人を溺れさせます。
ノスタルジーの醸し出す耽美は、少なくともまだ、ぼくの求めるところではない。
そう考えていました。
それはもう少し先で、死の直前でかまわないと。
ノートをかき集めてはみたものの、ぼくは開くに開けません。
ベッドの上に投げ出したまま、知らず眠りについてしまいました。
気づくと既に朝です。
ぼくは起きて、何気に、横に散らばる創作ノートを手にとり、開いてみます。
その瞬間です。
時間が、すうっと一気に巻き戻されていくのがわかります。
そしてぼくは、それを書いていた頃のぼくの肩越しに、その同じノートをともに見つめているのです。
ぼくは時間は直前的に、リニアに、まっすぐ進むとは考えていません。
そう考えるのは錯覚にすぎないと常々思っています。
あまりにも大きなカーブを進んでいるとすれば、おそらく自分が曲がって進んでいることにさえ気づかないでしょうし、地球と太陽の関係のように自分以外の力で引っ張られ続けている場合、その力が突然なくなりでもしない限り、また、気づかないはず。
ですからぼくは、時間は、螺旋を描いて、ぐるぐる、ぐるぐる、まわって、まわって、そうして上に、そう、天上にむかっているものだと考えています。
同じ道をたどり、同じことを延々と繰り返しているように見えたとしても、それは、1階と2階が、2階と3階が違うように、また別の次元のお話しなのです。
そしてその垂直方向へのずれが、たまたま直下を通過していく過去の自分へのパス、経路にもなります。
それは数年に一度大接近する惑星同士の会合のようなものであって、数十年一度訪れる彗星を迎えるようなものなのかもしれません。
もう一度、出会うのです。
過去の自分を通して、そのとき見つめていたものに、もう一度。
『夏の草』と題した創作ノートをつけはじめたのは2003年6月22日。
同じ日に『徒然帳』と題した雑記帳も2冊目になっていることから、このとき何かがあったのは間違いなさそうです。
ただそれが何だったのかは、ぼくはもう覚えていません。
そもそも小説を書こうと思い立ったのが2003年だと知って、正直驚いているしだいです。
とはいえ驚き以外の主観的な感情はそこにはありません。
こんなにも前から今と変わらず同じことをしていたのかという驚きが、あるだけです。
ぼくは最初のページを読みはじめます。
そしてその最初のページを読んだとたん、
長らく保存されていた感情や感覚が一気に解き放たれ、今の自分とシンクロしていくのです。
ぼくは過去の自分の後ろに、そっと、背後霊のように寄り添います。
そしてそのまま、物語をふたりで書きはじめるのです。
ぼくは、このブログで書いている物語に『童話的私生活』というタイトルをつけています。
それは、アンデルセンの『絵のない絵本』や、ヘミングウェイの『移動祝祭日』と同じ性質の物語です。
郷愁によって美化された自分の過去の姿であり、理想。
ぼくは先ほど郷愁は嫌いであり、できれば避けたいものだと書きました。
それは今もなんら変わりません。
ただ、今のぼくに必要なのは、そうしたものからも目をそらさないという決意であって、覚悟のように思います。
そのため、ぼくは、郷愁に彩られる運命から決して抜け出しえない、過去の自分をモチーフにした小説を書くことにしたのです。
書き手自身の生活をモチーフにした私小説もまた、書くことはないだろうと思っていた物語のひとつです。
私小説は人生の切り売りでしかなく、その人生がいかにも興味深く、悲しみや歓喜で華々しく彩られているものでもなければ、他人が読んで面白いはずもない。
ずっとそう思っていました。
けれど、こうして私小説風ではあっても自分の過去の生活を物語に起こして書いてみると、それは、単に自分に自信がなかったことに対する逃げだったように思います。
過去のことを、あるいは現在のことだけを書いているのなら、それは確かに切り売りかもしれません。
でも未来を築きながらそうしていると考えるのであれば、それは、それほど悪いものではない。
今はそう思えます。
未来の自分を形作っていくのは、間違いなく今ここにいる、この自分。
その現在の行いによってなのです。
短編小説『深海の鼓動』は、2005年の夏に『夏の虫』と題して書きはじめた長編小説の序章を独立させたものです。
それは、これからはじまる物語の主人公の未来の姿。
強い夏の日射しがもたらす目もくらむような輝きがそこにある。
ただ、強すぎる輝きは、同時に濃く深い陰を落とすもの。
名もない男は忘却の彼方に追いやったはずの過去を、暗い海の底で青い闇の中に見い出す。
そして物語は時を超えて一気に未来から過去へと飛翔する。
この序章の後、物語はいきなりシーンチェンジして別の舞台からふたたび再開されます。
そのためでしょうか、当時親しくさせてもらっていた女の子に、序章と、続く第1章の冒頭を読んでもらったところ、戸惑いとともに、
「無いほうがわかりやすいかも」と。
考えに考え抜いて作り出した構成がそこで軽く一蹴されてしまったわけですが、そのアドバイスを受けて、ぼくはすぐに序章を切り離します。
それとともに題も改題して『睡蓮』としました。
『睡蓮』は、ぼくの生まれ故郷を舞台にして繰り広げられる高校生たちの物語です。
それは、美術部に所属する主人公正木葉介と、正木の友人であり才能も実力もある加藤レオン、そして正木の幼馴染み、相川史奈の3人の物語で、物語のバックグラウンドには19世紀のフランス美術界で起こったジャン・オーギュスト・ドミニク・アングルに代表される新古典主義と、フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワに代表されるロマン主義との対立を埋め込んでいます。
とはいえ、物語は未完です。
記録によれば、途中、別のお話しを書くための中断を挟みますが、改訂版を作ってみたりなどもして、最終的に原稿用紙150枚程度、期間にして半年くらいは書き続たようです。
中断の理由は、作品の規模に自分の技量が追いついていかなくなったという、主に技術的な問題が、ひとつ。
そして「美術部の内情を知らないと書くのは難しいかも」と、思ってしまったこと。
ぼくは、物語を書くために必ずしもその物語を経験している必要はないと考えています。
でもそれは、イマジネーションだけでリアリティを表現できる場合にのみ当てはまることです。
リアリティは人間の生活において切り離すことのできない、現実、幻想、思い入れ、願望、そうしたもののすべてを織りまぜたときに突出して表れてきます。
現実をいくら緻密に描写したとしても、それだけではだめで、かえってリアリティが失われるケースもあります。
人間は、よりイマジネーションの世界に生きる生物です。
ゆえにどのような手を使ったとしても、そのイマジネーションを作品の世界にうまくシンクロさせることができれば、そこに、リアリティが生まれてくるのです。
リアリティは重要なテーマですので、『童話的私生活』本編、またはこの覚え書きでふたたび触れることにしましょう。
美術部経験者(または現役部員)の方で、もし、取材を受けてもいいという方がいっらしゃいましたら、今度ぜひインタビューさせていただければと考えています。
来年の春までは執筆スケジュールがびっしり詰まっていて、なかなか新しく長編を書く予定を入れられないのですが、ご協力いただけたなら、いずれ、物語を完結させる時がくるかもしれません。
そのときは、『睡蓮』を捧げさせていただきたいと思っています。
ところで、
このブログの構成についてお話ししておきましょう。
このブログで綴られていく物語は、小説『童話的私生活』です。
それは、ぼくの過去をモチーフにした私小説風の小説です。
古くから「事実は小説より奇なり」という言葉があるように、よく小説に関する「事実」と「虚構」についての議論を見かけることがあります。
ぼくはそうした議論にあまり意義を見出せていませんが、ぼくのこの物語は私小説の形をとりながら、こうした「事実」も「虚構」も、そして幻想、夢想、ただの夢、すべてを織りまぜていきます。
途中、旧作、新作を問わず、短い物語が次々と割り込むこともあるでしょうし、影響を受けた作家や本の内容を、とつとつと語りはじめることもあるかもしれません。
ぼくが理想とする物語とは、はじまりも終わりもなく、永遠に、どこまでも、どこまでも続いていく物語です。
それはある意味、退屈な物語です。
でも日常とは、得てして退屈なものです。
そして退屈な日常に、たまたま突拍子もないことが起こる。
それもまた、現実であり、日常です。
今回この『童話的私生活』のベースとなった『中央図書館』という書きかけの物語の資料を漁っていると、封印された無記名の封筒が出てきました。
渡せなかったラブレターであることはほぼ間違いないのですが、実際のところは、さてさて、どうでしょう。
ぼくは怖くて未だに開けられません。
前回までで昨年10月に書いた『童話的私生活』の原稿はすべて使い切りました。
来月からは、毎回まったく新しくエピソードを書き起こしていくことになります。
だいぶ慣れてきたとはいえ、毎週毎週公開用原稿を仕上げていくのはたいへんな作業です。
思い立ったことは最後まで、とはいかなくても、自分でも十分納得ができ、自ら筆を折ると決意するまでは、なんとしてでも続けたいものだと考えています。
ですので、
叶うものなら、
まあ、どうか最後まで、お見守りください。
そうそう、
調子に乗って、つい忘れるところでした。
このブログでは本編の『童話的私生活』の他に、毎月最終週に今ぼくが書いている童話の作品紹介を1編ずつ行っていきます。
現在未完のものが1作あるとはいえ、まもなく6作目の童話も書き上がりますので、そのスペースだけは、最低でも半年分は約束されていることになりますか。
そして折を見て、この覚え書きが挟み込まれます。
いつ挟まれるかは、誰にもわかりません。
ぼくにとって過去を見つめるということは、苦痛以外の何ものでもありません。
清算された過去は十分反省されて現在の自分の基盤となっているはず。
そうした苦痛を押してまで、あえてそれを行うその意義が、ぼくには見出せないのです。
そして郷愁を誘うまばゆい過去は常に媚薬であり、酒よりも強く人を溺れさせます。
ノスタルジーの醸し出す耽美は、少なくともまだ、ぼくの求めるところではない。
そう考えていました。
それはもう少し先で、死の直前でかまわないと。
ノートをかき集めてはみたものの、ぼくは開くに開けません。
ベッドの上に投げ出したまま、知らず眠りについてしまいました。
気づくと既に朝です。
ぼくは起きて、何気に、横に散らばる創作ノートを手にとり、開いてみます。
その瞬間です。
時間が、すうっと一気に巻き戻されていくのがわかります。
そしてぼくは、それを書いていた頃のぼくの肩越しに、その同じノートをともに見つめているのです。
ぼくは時間は直前的に、リニアに、まっすぐ進むとは考えていません。
そう考えるのは錯覚にすぎないと常々思っています。
あまりにも大きなカーブを進んでいるとすれば、おそらく自分が曲がって進んでいることにさえ気づかないでしょうし、地球と太陽の関係のように自分以外の力で引っ張られ続けている場合、その力が突然なくなりでもしない限り、また、気づかないはず。
ですからぼくは、時間は、螺旋を描いて、ぐるぐる、ぐるぐる、まわって、まわって、そうして上に、そう、天上にむかっているものだと考えています。
同じ道をたどり、同じことを延々と繰り返しているように見えたとしても、それは、1階と2階が、2階と3階が違うように、また別の次元のお話しなのです。
そしてその垂直方向へのずれが、たまたま直下を通過していく過去の自分へのパス、経路にもなります。
それは数年に一度大接近する惑星同士の会合のようなものであって、数十年一度訪れる彗星を迎えるようなものなのかもしれません。
もう一度、出会うのです。
過去の自分を通して、そのとき見つめていたものに、もう一度。
『夏の草』と題した創作ノートをつけはじめたのは2003年6月22日。
同じ日に『徒然帳』と題した雑記帳も2冊目になっていることから、このとき何かがあったのは間違いなさそうです。
ただそれが何だったのかは、ぼくはもう覚えていません。
そもそも小説を書こうと思い立ったのが2003年だと知って、正直驚いているしだいです。
とはいえ驚き以外の主観的な感情はそこにはありません。
こんなにも前から今と変わらず同じことをしていたのかという驚きが、あるだけです。
ぼくは最初のページを読みはじめます。
そしてその最初のページを読んだとたん、
長らく保存されていた感情や感覚が一気に解き放たれ、今の自分とシンクロしていくのです。
ぼくは過去の自分の後ろに、そっと、背後霊のように寄り添います。
そしてそのまま、物語をふたりで書きはじめるのです。
ぼくは、このブログで書いている物語に『童話的私生活』というタイトルをつけています。
それは、アンデルセンの『絵のない絵本』や、ヘミングウェイの『移動祝祭日』と同じ性質の物語です。
郷愁によって美化された自分の過去の姿であり、理想。
ぼくは先ほど郷愁は嫌いであり、できれば避けたいものだと書きました。
それは今もなんら変わりません。
ただ、今のぼくに必要なのは、そうしたものからも目をそらさないという決意であって、覚悟のように思います。
そのため、ぼくは、郷愁に彩られる運命から決して抜け出しえない、過去の自分をモチーフにした小説を書くことにしたのです。
書き手自身の生活をモチーフにした私小説もまた、書くことはないだろうと思っていた物語のひとつです。
私小説は人生の切り売りでしかなく、その人生がいかにも興味深く、悲しみや歓喜で華々しく彩られているものでもなければ、他人が読んで面白いはずもない。
ずっとそう思っていました。
けれど、こうして私小説風ではあっても自分の過去の生活を物語に起こして書いてみると、それは、単に自分に自信がなかったことに対する逃げだったように思います。
過去のことを、あるいは現在のことだけを書いているのなら、それは確かに切り売りかもしれません。
でも未来を築きながらそうしていると考えるのであれば、それは、それほど悪いものではない。
今はそう思えます。
未来の自分を形作っていくのは、間違いなく今ここにいる、この自分。
その現在の行いによってなのです。
短編小説『深海の鼓動』は、2005年の夏に『夏の虫』と題して書きはじめた長編小説の序章を独立させたものです。
それは、これからはじまる物語の主人公の未来の姿。
強い夏の日射しがもたらす目もくらむような輝きがそこにある。
ただ、強すぎる輝きは、同時に濃く深い陰を落とすもの。
名もない男は忘却の彼方に追いやったはずの過去を、暗い海の底で青い闇の中に見い出す。
そして物語は時を超えて一気に未来から過去へと飛翔する。
この序章の後、物語はいきなりシーンチェンジして別の舞台からふたたび再開されます。
そのためでしょうか、当時親しくさせてもらっていた女の子に、序章と、続く第1章の冒頭を読んでもらったところ、戸惑いとともに、
「無いほうがわかりやすいかも」と。
考えに考え抜いて作り出した構成がそこで軽く一蹴されてしまったわけですが、そのアドバイスを受けて、ぼくはすぐに序章を切り離します。
それとともに題も改題して『睡蓮』としました。
『睡蓮』は、ぼくの生まれ故郷を舞台にして繰り広げられる高校生たちの物語です。
それは、美術部に所属する主人公正木葉介と、正木の友人であり才能も実力もある加藤レオン、そして正木の幼馴染み、相川史奈の3人の物語で、物語のバックグラウンドには19世紀のフランス美術界で起こったジャン・オーギュスト・ドミニク・アングルに代表される新古典主義と、フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワに代表されるロマン主義との対立を埋め込んでいます。
とはいえ、物語は未完です。
記録によれば、途中、別のお話しを書くための中断を挟みますが、改訂版を作ってみたりなどもして、最終的に原稿用紙150枚程度、期間にして半年くらいは書き続たようです。
中断の理由は、作品の規模に自分の技量が追いついていかなくなったという、主に技術的な問題が、ひとつ。
そして「美術部の内情を知らないと書くのは難しいかも」と、思ってしまったこと。
ぼくは、物語を書くために必ずしもその物語を経験している必要はないと考えています。
でもそれは、イマジネーションだけでリアリティを表現できる場合にのみ当てはまることです。
リアリティは人間の生活において切り離すことのできない、現実、幻想、思い入れ、願望、そうしたもののすべてを織りまぜたときに突出して表れてきます。
現実をいくら緻密に描写したとしても、それだけではだめで、かえってリアリティが失われるケースもあります。
人間は、よりイマジネーションの世界に生きる生物です。
ゆえにどのような手を使ったとしても、そのイマジネーションを作品の世界にうまくシンクロさせることができれば、そこに、リアリティが生まれてくるのです。
リアリティは重要なテーマですので、『童話的私生活』本編、またはこの覚え書きでふたたび触れることにしましょう。
美術部経験者(または現役部員)の方で、もし、取材を受けてもいいという方がいっらしゃいましたら、今度ぜひインタビューさせていただければと考えています。
来年の春までは執筆スケジュールがびっしり詰まっていて、なかなか新しく長編を書く予定を入れられないのですが、ご協力いただけたなら、いずれ、物語を完結させる時がくるかもしれません。
そのときは、『睡蓮』を捧げさせていただきたいと思っています。
クロード・モネ 『ルーアン大聖堂、ファサード(朝の効果)』 1892-93 フォルクヴァング美術館所蔵
ところで、
このブログの構成についてお話ししておきましょう。
このブログで綴られていく物語は、小説『童話的私生活』です。
それは、ぼくの過去をモチーフにした私小説風の小説です。
古くから「事実は小説より奇なり」という言葉があるように、よく小説に関する「事実」と「虚構」についての議論を見かけることがあります。
ぼくはそうした議論にあまり意義を見出せていませんが、ぼくのこの物語は私小説の形をとりながら、こうした「事実」も「虚構」も、そして幻想、夢想、ただの夢、すべてを織りまぜていきます。
途中、旧作、新作を問わず、短い物語が次々と割り込むこともあるでしょうし、影響を受けた作家や本の内容を、とつとつと語りはじめることもあるかもしれません。
ぼくが理想とする物語とは、はじまりも終わりもなく、永遠に、どこまでも、どこまでも続いていく物語です。
それはある意味、退屈な物語です。
でも日常とは、得てして退屈なものです。
そして退屈な日常に、たまたま突拍子もないことが起こる。
それもまた、現実であり、日常です。
今回この『童話的私生活』のベースとなった『中央図書館』という書きかけの物語の資料を漁っていると、封印された無記名の封筒が出てきました。
渡せなかったラブレターであることはほぼ間違いないのですが、実際のところは、さてさて、どうでしょう。
ぼくは怖くて未だに開けられません。
前回までで昨年10月に書いた『童話的私生活』の原稿はすべて使い切りました。
来月からは、毎回まったく新しくエピソードを書き起こしていくことになります。
だいぶ慣れてきたとはいえ、毎週毎週公開用原稿を仕上げていくのはたいへんな作業です。
思い立ったことは最後まで、とはいかなくても、自分でも十分納得ができ、自ら筆を折ると決意するまでは、なんとしてでも続けたいものだと考えています。
ですので、
叶うものなら、
まあ、どうか最後まで、お見守りください。
そうそう、
調子に乗って、つい忘れるところでした。
このブログでは本編の『童話的私生活』の他に、毎月最終週に今ぼくが書いている童話の作品紹介を1編ずつ行っていきます。
現在未完のものが1作あるとはいえ、まもなく6作目の童話も書き上がりますので、そのスペースだけは、最低でも半年分は約束されていることになりますか。
そして折を見て、この覚え書きが挟み込まれます。
いつ挟まれるかは、誰にもわかりません。
☆☆☆*:.。.ほかにもお話しはたくさんあります.。.:*☆☆☆