なかのたいとうの『童話的私生活』 -101ページ目
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童話的私生活【序】その一



物語を書きはじめるとき、いつも思う。



写真1




今度は、この物語を無事に終わらせることができるだろうかと。

もし終わらせられなければ、ぼくは、

またひとつ世界をだいなしにしてしまう。

そしてこの体のこと。

物語を書くことにともなう精神的、肉体的な苦痛がそこにある。

この体はそれに、本当に耐えられるのだろうかと。

すべては同じことの繰り返しだった。

過去、幾度となく味わってきたそうした痛みの記憶は根深い。

ぼくにとって物語を書くということは、

白い霧の中、

狭い登山道をたどって山頂に、そう、ピークに向かうようなもの。

あと少し。あと、もう少し。

ぼくは延々と足をあげ、そして登り続ける。

足をあげ、またあげ、ただひたすらに、ただひたすらに、前を目指して。

けれどもピークは一向に見えない。

本当にピークは、ゴールは存在するのだろうか。

疑いが芽生え、ぼくは足をおろす。

静かに目を閉じ、耳を澄ます。



写真2




静寂がそこにある。

聞こえてくるのは、ただ、ただ、ぼくの息づかい。

そして、もうひとつ。風だ。

ああ、風。風が冷たい。

疑いはたちどころに消えていく。

たとえ目指す場所が目に見えていなくても、

今ここにある空気が、匂いが、リズムが、

すべてを物語っているのがわかるんだ。

おまえはよくここまでたどり着いた。よくやったと。

あと少し。あともう少しだ、と。

ぼくにはそれがわかる。

この道は、ひとりで歩むにはあまりにも過酷な道。

でも風がぼくに勇気を与え、

花や小鳥たちがぼくの孤独を癒してくれる。



写真3




そう、だからこそ、ぼくは、

この道をひとりぼっちでも歩いてこれたんだ。

歩いて。歩いて。歩いてね。

でも、そこまでかな。

いつも、そこまで。

そして突然、地面が抜ける。

ねえ、待ってよ。

待って。

どうしてまたなの?

どうして今なの?

どうして他でもない、このぼくなの?

あと少し。あともう少しなんだ。

どうして? ねえ、どうして?

どうしてぼくには最後までやらせてくれないの?

どうして……。

ぼくはまた、足を踏みはずしてしまった。

また……。

そう思わずにいられない。

思わずにね。



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でもどうだろう。本当のことを言うと、

そうやって感じる悔しささえ、いつも一瞬で消えていく気がする。

だって、諦めの気持ちのほうが何倍も何十倍も強いんだもの。

ぼくにははじめる前からわかっていたよ。

ぼくの歩もうとしている道は、

天上に張られた細いワイヤーの上を、バランスを取りながら渡るようなもの。

奇跡でも起こらない限り、渡り切れるはずもない。

そうさ、だからこれは予期されていたこと。

普遍の予定調和であって染みついた匂いのようにぼくにつきまとう。

ああ、垂直に落下していく。垂直に。

長い長い浮遊感。

すうっと落ちていく。

そしてあたりはすっかり闇に包まれ、何も見えず、あげくの果てには、

バン、

ぼくは地面に叩きつけられる。

すべては予定通りに……。

クソッたれだ。ホント、クソッたれ。

思い出しただけでも吐き気が止まらない。

そして涙。

涙があふれてくる。



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いったいこの涙はどこから出てくるんだろうね。

もうぼくにはどうしようもないよ。

どうしようも。

ぼくはまた、失ってしまった。

慈しみ、大切に育ててきた、かけがえのないぼくの世界のすべてを。

すべてが無に帰していく。

すべてが無かったことにされていく。

すべてがあと少しというところで砂のように指の間からすり抜けていき、

虚空に消えていく。

どうして? どうしてなんだろう。

どうして……。

だめだ、涙が止まらない。

ぼくはずっと物語を書きたいと思ってきた。

ずっと。

でもこの先、ぼくが物語を書きあげられる日は本当に来るの?

これが定めなら、この運命を変えられる日が本当に来るって言える?

ああ、でもぼくはあといったい何度、これを繰り返さなくてはならないのだろう。



写真6




何度……。

ねえ、だからぼくはいつも思うんだ。

この物語を書きはじめたとして、

はたして最後まで書き切る力が、今のぼくに備わっているのだろうかと。

この心、そして体にまで刻まれた傷跡はいまだ生々しい。

触れる前から激痛が走り、

いつになったら治るのかと、そう考えただけで気分が憂鬱になる。

それにこの喪失感。

ぼくはあらゆるものを無駄に失ってきた。

若さ、時間、友、愛、かけがえのない物語の数々。

ぼくはただ消えていくのを見ているしかなかったんだ。

もう何も失いたくない。何も。

だからぼくは考えずにはいられない。

ぼくには本当に、この運命という名の軌跡を、

ほんのわずかでいい、ほんのちょっとでいいんだ、

ずらす力があるのだろうかと。

はじめなきゃ。今はじめなきゃ。今はじめなきゃ間に会わない。

そう思いつつも、はじめられない。

だめだ、やっぱりはじめられないよ……。

時だけが虚しく過ぎていく。

思いだけがつのる。

そうこうしているうちにぼくは、

物語をはじめられなくなっていた。



写真7








 

 


 
☆☆☆*:.。.ほかにもお話しはたくさんあります.。.:*☆☆☆


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