童話的私生活【中央図書館A】その一
こ
の
空
の
果
て
ま
で
と
ど
け
雲
の
峰
その夏、ぼくは、ただただ夢中になっていた。
コリコリ、コリコリ
コリ、コリ、コリ
コン、コン、コン
サッ、サッ、サッ
ダン、バタン、ガタン
ゴホン、ンンン、ゴホン
目を閉じると音が聞こえてくる。
光に包まれた館内は、遠く見渡せるほど広々としていて天井が高く、
ぼくの座っている席からすうっと視線を上にあげると、
二階層上まで吹き抜けになったその先に、
小さな飾り窓が見える。
そしてそこには永遠に動くことのない人の影。
ぼくがチャーリーと名付けた男の後ろ姿だ。
それにしてもここは本、本、本。
本が多い。
立ち並ぶ本棚は太古の森のようにも見える。
だとすれば、ひとつひとつの本は日を受ける葉だろうか、
それとも実りの果実だろうか。
そうした本の森の中を人々が歩いている。
大木のような本棚の陰に隠れては現れ、現れてはまた隠れながら。
何かを求めているのは、みな変わらない。
静かに、愛でるように本を見つめながら、ゆっくりと歩く者がいる。
狩りをする猛禽類の鋭さで、背表紙から背表紙へと視線を動かしながら歩いていく者がいる。
見るからに気のない様子で本を手に取ったかと思うと、
手にしたそばから別の本に興味が移ってしまう者もいれば、
同じように手にした叡智の枝葉を、立ったまま時を忘れてじっとひもとく者もいる。
そう、
ぼくは館内の奥にあって点々と群島のように並ぶ閲覧席のちょうど端っこにいて、
そこから遠く向こうの端にまで目をやると、
同じような島が延々と、ずっと連なっているのが見える。
そしてさらにその奥はソファーの置いてある広いスペースになっているはずだ。
けれどもそこまでいくと、さすがに遠すぎてよくは見えない。
一方のぼくのいるほうの端、要するにぼくのすぐ脇は、
断崖のように切り立った長い長い本棚になっている。
そこに収められているのは叢書や全集など、重たくて大きな本ばかりだ。
ぼくは視線を少しずらすだけで、大好きな作家の本を見つめて過ごすこともできる。
そして後ろ。
振り返ればそこは、壁一面、巨大な窓だ。
その窓を通して地下に掘り下げられた人工の中庭が見え、
けっして手入れが行き届いているとは言えない都会の緑が地上の光を浴びて野性を取り戻し、
伸び放題、好き放題に茂っている。
そこが、ぼくのすべてだった。
静かで、孤独を保てる唯一の場所。
日々日常のせわしなさとは一線を画した天上の楽園であって、
ゆったりとした穏やかな時間がそこには流れ、
人々はみな、まゆのようにやわらかい透明なカプセルに入っているようだった。
そこは当時住んでいた場所から歩いていける二つの中央図書館のうちのひとつで、
ぼくはこんなにも大きな図書館をそれまで見たことがなかった。
大のお気に入り。
ぼくはそこが本当に好きだった。
だからぼくは、毎日そこに通っていた。
ねえどうだろう。
図書館には行ったことがあると思うけど、
図書館に朝から晩までいるとどんなことが起こるか想像できるかい?
図書館の一日、それはまずは行列からはじまるんだ。
これだけ大きな図書館でも、開館前には決まって行列ができる。
大きな図書館があるということは、それだけ町の人口が多いということの証しなのだろう。
並んでいるのは、たいていは受験生、大学生、それと法律を勉強している学生だ。
けれども近所のおじいさんや、おばあさんたちも、意外と多い。
中にはYシャツにネクタイをしめて黒い鞄を持ったサラリーマン風の人もいる。
それぞれめいめいに朝食を食べながら待っていたり、
眠たげにあくびをしながらぼんやりと立っていたりする。
場所取りの荷物だけ置いて道端で煙草をふかしていたりする者だっている。
でも一番多いのは、
やはり一心不乱に本を読みながら開館を待っている人かもしれない。
どうしてみんなこうも本が好きなんだろう。
そう思いつつ、
ぼくも本を読んでいたりする。
でも、そう、季節は今は夏。
夏はたまらなく暑い。
間もなく開館時間という開館十分前、
館内に職員がぽつりぽつりと現れはじめ、
カーテンを開けたり、コンピューターの操作をしたり、
開館の準備をする姿が誰の目にも入るようになる。
すると、みなそわそわしはじめて、どことなく落ち着きがなくなる。
入り口の自動ドアが職員によって開けられる。
でも、すぐには中に入れない。
少し気を持たせたあとで、
「お待たせしました。開館時間でございます」
その瞬間、ほとんどの人がダッシュする。
それはまるで陸上競技か何かのスポーツのスタートの号令ようで、
みな開館と同時に息を切らして一心不乱に夢中になって走りはじめる。
「お客様、館内では走らないようにお願いします」
職員の言葉など誰も聞こえていないかのようだ。
誰もがみな、一目散に自分のお目当ての場所を目指して走る。
走る。
ただひたすら走る。
入り口から十メートルほど入ってしまえば、
あとは本棚の森を自在に駆け抜けるだけだ。
けれどもそこで大きく二手に分かれる。
図書館で勉強しようと思う人たちの目指す席は、
例の中庭に面した巨大な窓の窓際にしかない対面二席の特等席。
そして図書館で時間をつぶそうとする人たちがまず目指すのは、
そう、新聞だ。
ビーチの砂に埋もれた一本の旗を目がけて走るかのように、
新聞の置かれた小さなスペースにみなが集中する。
人気のある新聞は限られているし、ライバルも多い。
なれた者は走りながらさっと新聞をかすめ取っていく。
勝負の世界は厳しい。
負けた者は歯噛みして悔しがり、
ブツブツと独り言を言いながら奥の雑誌コーナーに向かうしかない。
それで、そう、ぼくはといえば、
ぼくはそのどちらでもない。
ぼくは窓際の席にも、新聞にも興味がない。
ぼくはチャーリーの見える席に座れればそれでいい。
誰もぼくのお気に入りの席には興味がないようだから、ぼくは、
ほんのちょっとだけ早歩きをして歩いていく。
本当は悠々と歩いていきたいところなのだけど、
いつも座る席に座れないと、なんとなく落ち着かないものだから、そうはできない。
ぼくの後ろから、ぼくを追い越して駆け抜けていく者も実際にいるわけで、
内心焦りながらも、祈りながら、なるべく冷静を装って歩いていく。
ふう、座れた。
まわりを見渡してみれば、同じようにみな、ひと仕事終えて息を吐いている。
午前九時三十分。
こうして図書館での一日がはじまる。
☆☆☆*:.。.ほかにもお話しはたくさんあります.。.:*☆☆☆