童話的私生活【中央図書館A】その二『深海の鼓動』(一) | なかのたいとうの『童話的私生活』

童話的私生活【中央図書館A】その二『深海の鼓動』(一)


『深海の鼓動』
 
yun_3063_南国ビーチ
 
 

青い海、青い空。

白い雲は彼方にさえも存在しない。

太陽がまぶしい。

男は静かに目を閉じ、両手を広げた。


ウェットスーツを着ていても日射しが肌に刺さるようだった。

水平線上に薄く島影が見える。

見渡す限りの海。

船は穏やかな波の上に泊まっていた。

小さな船だった。


「お前さん、本当にやるのかい?」


老人が男に声をかけた。

手には操舵環、口には煙草をくわえている。

だが老人には男と目を合わす気はないようだった。


男は無言でうなずいた。


「なあ、おれにもやらせてくれよ」


少年の声に男が振り返る。


まだあどけなさの残る表情を、秘めた決意で強ばらせていた。

けれども少年の背丈は男の胸にさえ届いていない。


「なあ、おれだって、もう一人前の男なんだぜ。

 ほら、昨日あんたに食わせた海老。

 あれだってよ、おれがこの手で仕留めたんだ」


少年は得意げだ。


「あんたならわかってくれるよな?

 あんなデカいやつはその辺の浅瀬にはいない。

 もっとずっと深いところにしかいないのさ。

 ずっとずっとずっと深いところにしか」


「黙れピート!」


老人の声が鳴り響く。


「こいつはこどもの遊びじゃねえんだ。

 さっさと持ち場につきやがれ!」


怒鳴られているのは、果たして少年だけだろうか。

男は所在なさげに少年に向かって肩をすくめてみせた。


「ピート、きみの腕前は、ぼくが一番よく知ってる。

 昨日のは本当に、デカかったもんな。

 遠慮なく自慢すればいい。

 きみの年であれを獲れるやつなんて他にはいない」


知らず男の手は少年の頭をなでていた。


「でも、ピート。

 今は、きみのじいさんの言うとおりだ。

 きみの父さんだって、きっと、そう言ったと思う」


少年は唇を噛みしめていた。

男を見上げる二つの目。

下からじっと男を見つめている。

その目が忘れられない。

船を打つ波の音がやけに大きく聞こえていた。

男はただ待つしかなかった。


「わかったよ」


その声は声とは言えないくらいの、とても小さな声だった。

少年の目が離れていく。

男は息を吐いた。

船尾に目をやると、老人が背中を丸めて新しい煙草に火をつけていた。

 
yun_2876_昼休みのダイビングボート

 

「ガイドロープ!」


号令がかかった。

と同時に、少年は船縁に掛けられた梯子に手をかけ、海面へと下りていく。

右手を思いっきり伸ばし、白いロープを大きく揺する。

ガイドロープは船の上から海上に迫り出す細いクレーンの先から釣り糸のように垂れ、そのまま深い海の底まで伸びていた。

ロープには潜水用の錘りが取り付けられている。

その錘りが、ロープに沿って上下する仕組みになっていて、今、錘りは海の上に宙づりになっていた。


ふたたび船上に上がってきた少年が錘りの巻き上げ装置に向かう。

レバーを握りしめ、勢いよく倒す。


どぽん。

重く鈍い音がして錘りが海に落ちた。

そしてそのまま一気に沈んでいく。

少年はすぐにレバーを引き戻しにかかり、別のレバーを倒して今度は錘りを巻き上げる。


「止めろ!」


錘りは海面すれすれのところで止まった。

薄い波の下、形がゆがんで見えていた。

錘りの下には白いロープがどこまでも伸びていた。


「お前さんも知ってるとおり、こいつの切符は片道切符だ。

 下でうまく止めてやるが、帰りは自分の足で上がってきてくれ」


「リミットを決めておこう。

 リミットは三分。

 三分が限界だ。

 もし三分たっても上がってこなかったら……」


「上がってくるさ。

 そうだろ?

 お前さんはベテランなんだ」


老人は男のことをベテランと呼ぶ。

だが正確に言えば男は元ベテランだった。

男はもう長いこと潜ってはいない。

遠い遠い昔のことのような気がしていた。

そもそも本当に素潜りを、フリーダイビングをしていたのだろうか。

いくら考えたところで実感が湧いてくるものでもなかった。


男はふたたび舳先に立って両手を広げる。

軽く跳ねて海に跳ぶ。

生温かい熱帯の海がすぐに男を包み込んだ。

泳ぎながら左舷にまわり、下げられた梯子につかまると、少年が船の上から男を見ていた。


「ピート、きみに頼みがある。

 カウントダウンしてくれないか?」


少年は大きく何度も何度もうなずいていた。


「頼んだよ」


最後にそう言って、男は船から離れる。

白いガイドロープに取り付けられた潜水用の錘りを両手で握りしめ、息を整えていく。

もう一度だけ少年を見た。

そして目を閉じる。

波のリズムに合わせ、さらに深く、ゆっくりと息を鎮めていく。

何も考えるな。

今は何も。

何も。

そう念じているうちに、懐かしい感覚が戻ってきたような気がしていた。


男が鼻栓をつける。

カウントダウンが終わり少年がレバーを倒す。

途端、音はくぐもり、太陽は消え、世界は青く変転する。

男は落ちていく。

 
yun_1986_藍の泡