童話的私生活【中央図書館A】その二『深海の鼓動』(一)
『深海の鼓動』
青い海、青い空。
白い雲は彼方にさえも存在しない。
太陽がまぶしい。
男は静かに目を閉じ、両手を広げた。
ウェットスーツを着ていても日射しが肌に刺さるようだった。
水平線上に薄く島影が見える。
見渡す限りの海。
船は穏やかな波の上に泊まっていた。
小さな船だった。
「お前さん、本当にやるのかい?」
老人が男に声をかけた。
手には操舵環、口には煙草をくわえている。
だが老人には男と目を合わす気はないようだった。
男は無言でうなずいた。
「なあ、おれにもやらせてくれよ」
少年の声に男が振り返る。
まだあどけなさの残る表情を、秘めた決意で強ばらせていた。
けれども少年の背丈は男の胸にさえ届いていない。
「なあ、おれだって、もう一人前の男なんだぜ。
ほら、昨日あんたに食わせた海老。
あれだってよ、おれがこの手で仕留めたんだ」
少年は得意げだ。
「あんたならわかってくれるよな?
あんなデカいやつはその辺の浅瀬にはいない。
もっとずっと深いところにしかいないのさ。
ずっとずっとずっと深いところにしか」
「黙れピート!」
老人の声が鳴り響く。
「こいつはこどもの遊びじゃねえんだ。
さっさと持ち場につきやがれ!」
怒鳴られているのは、果たして少年だけだろうか。
男は所在なさげに少年に向かって肩をすくめてみせた。
「ピート、きみの腕前は、ぼくが一番よく知ってる。
昨日のは本当に、デカかったもんな。
遠慮なく自慢すればいい。
きみの年であれを獲れるやつなんて他にはいない」
知らず男の手は少年の頭をなでていた。
「でも、ピート。
今は、きみのじいさんの言うとおりだ。
きみの父さんだって、きっと、そう言ったと思う」
少年は唇を噛みしめていた。
男を見上げる二つの目。
下からじっと男を見つめている。
その目が忘れられない。
船を打つ波の音がやけに大きく聞こえていた。
男はただ待つしかなかった。
「わかったよ」
その声は声とは言えないくらいの、とても小さな声だった。
少年の目が離れていく。
男は息を吐いた。
船尾に目をやると、老人が背中を丸めて新しい煙草に火をつけていた。
「ガイドロープ!」
号令がかかった。
と同時に、少年は船縁に掛けられた梯子に手をかけ、海面へと下りていく。
右手を思いっきり伸ばし、白いロープを大きく揺する。
ガイドロープは船の上から海上に迫り出す細いクレーンの先から釣り糸のように垂れ、そのまま深い海の底まで伸びていた。
ロープには潜水用の錘りが取り付けられている。
その錘りが、ロープに沿って上下する仕組みになっていて、今、錘りは海の上に宙づりになっていた。
ふたたび船上に上がってきた少年が錘りの巻き上げ装置に向かう。
レバーを握りしめ、勢いよく倒す。
どぽん。
重く鈍い音がして錘りが海に落ちた。
そしてそのまま一気に沈んでいく。
少年はすぐにレバーを引き戻しにかかり、別のレバーを倒して今度は錘りを巻き上げる。
「止めろ!」
錘りは海面すれすれのところで止まった。
薄い波の下、形がゆがんで見えていた。
錘りの下には白いロープがどこまでも伸びていた。
「お前さんも知ってるとおり、こいつの切符は片道切符だ。
下でうまく止めてやるが、帰りは自分の足で上がってきてくれ」
「リミットを決めておこう。
リミットは三分。
三分が限界だ。
もし三分たっても上がってこなかったら……」
「上がってくるさ。
そうだろ?
お前さんはベテランなんだ」
老人は男のことをベテランと呼ぶ。
だが正確に言えば男は元ベテランだった。
男はもう長いこと潜ってはいない。
遠い遠い昔のことのような気がしていた。
そもそも本当に素潜りを、フリーダイビングをしていたのだろうか。
いくら考えたところで実感が湧いてくるものでもなかった。
男はふたたび舳先に立って両手を広げる。
軽く跳ねて海に跳ぶ。
生温かい熱帯の海がすぐに男を包み込んだ。
泳ぎながら左舷にまわり、下げられた梯子につかまると、少年が船の上から男を見ていた。
「ピート、きみに頼みがある。
カウントダウンしてくれないか?」
少年は大きく何度も何度もうなずいていた。
「頼んだよ」
最後にそう言って、男は船から離れる。
白いガイドロープに取り付けられた潜水用の錘りを両手で握りしめ、息を整えていく。
もう一度だけ少年を見た。
そして目を閉じる。
波のリズムに合わせ、さらに深く、ゆっくりと息を鎮めていく。
何も考えるな。
今は何も。
何も。
そう念じているうちに、懐かしい感覚が戻ってきたような気がしていた。
男が鼻栓をつける。
カウントダウンが終わり少年がレバーを倒す。
途端、音はくぐもり、太陽は消え、世界は青く変転する。
男は落ちていく。