童話的私生活【中央図書館A】その三『深海の鼓動』(二)
海面付近、海の中は思いのほか明るい。
波の音が聞こえる。
船のエンジンの音も。
男は足ひれをつけた足を器用にひねり、頭が下、逆立ちをするようにして足が上、くるっと体を半転させた。
男の目には白いガイドロープが暗い海の底に吸い込まれるようにして消えていくのが見えていた。
男は少年の父親のことをよく覚えていた。
少年の父親は腕利きで知られたフリーダイバーだった。
現役だったころ、その記録がダイバーたちの間で話題に上らない日はなかった。
男も彼の記録に挑み、挫折を味わった一人だった。
少年と父親はよく似ているかもしれない。
顔。
しぐさ。
むこうみずなところ。
きっと少年は、父親と同じ道をたどるに違いない。
賭けてもいい。
理由なんてない。
季節が来たら、放っておいても種は芽吹き、花は開く。
ただそれだけのことだ…。
さっきまであれほど長く伸びて見えていたガイドロープが、すぐ目の前で消えていくような気がしていた。
もう海の色に上で見た華やかさはなかった。
男は耳に空気を送って水圧を和らげる。
肺は胸ごと押し潰されてしまいそうだった。
肉という肉が、内蔵という内蔵が、海にひねり潰されていくような気がしていた。
もうすぐだ。
もうすぐあの懐かしい感覚が戻ってくる。
すべて海に溶けてしまえ。
不安も、望みも、憂いもすべて海に溶けて無くなってしまえ。
待ち焦がれているのは至上の恍惚。
飲み込まれれば己の存在さえ消えていく。
そこは何もかもをも超越した世界。
その先にこそ、永遠、安寧、平和がある。
トクン……。
トクン……。
鼓動がしだいに遅くなっていった。
それとともに意識も沈みはじめる。
深く、より深く、意識の底へと男は落ちていく。
断片……。
断片……。
流れていくのは意識の断片……。
それは、つい先ほどまで男を形作っていたものだった。
それが無数の泡となって海の底から上がってきては、上へと通り過ぎていく。
断片……。
断片……。
記憶の断片……。
それは、男がとうの昔に忘れてしまったはずのものだった。
それが次から次へと目の前に現れ、振り返る間もなく通り過ぎていく。
ああ、なんて若いんだろう。
あれはピートの父親とぼくだ。
ハハハ、ふたりとも、いったい何がそんなにおかしいんだ?
ふたりして腹を抱えて笑ってるよ……。
そう、あれもぼくだ。
はじめて潜ったときのぼくだ。
ダイバーたちが手を振ってる。
ひとり、ふたり?
それにしても、彼らは今もまだ、元気でやっているのだろうか……。
あれはなんの仲間だっけ?
だめだ、もう覚えてないや。
子どもたち?
みんなで自転車に乗って海へ?
気をつけろ、もうじき雨が降るぞ。
そういえばこのとき、転んでひどい怪我をしたんだっけか……。
そして……。
そう……。
きみだ……。
ぼくはきみのことを忘れてなかったんだ……。
どれほど時が過ぎて行こうとも……。
ねえ、聞こえる?
ぼくはね……。
ぼくは今ね……。
そこまでだった。
吐き出したほんのわずかな息とともに、世界は一気に暗転して、現実に戻った。
まずい。
そう思っているうちに、手にした錘りがガクン、と急に止まる。
男は不意をつかれて手を放してしまう。
落ちてきた勢いのまま、下に向かって放り出され、何の支えもないままさらに落ちていく。
濃く深い、青の世界。
水は冷たく物音ひとつしない。
足を蹴って体の向きを変え、男は上を向いた。
ガイドロープの終端が見えていた。
老人はそれを台座と呼んでいた。
円筒形の鉄の塊。
ガイドロープの最終端。
男は手にしたペンライトで黒い影を照らす。
プレートが浮かび上がる。
プレートには少年の父親の名が、刻まれていた。
潜水記録も刻まれているはずなのだが、今はよく見えない。
男は反対側にまわった。
台座の横に小さな蓋がついていた。
開けると中に金の十字架がある。
手に取ると思った以上に重い。
十字架の中央には宝石がはめてあった。
ペンライトの明かりを受けてキラキラと輝いていた。
男は腰につけたベルトに十字架を挟み込み、浮上を開始する。
勢いをつけて足ひれを蹴って、蹴って、上を目指す。
蹴って、蹴って、上を、ただ上を。
今度はガイドロープが海の上へと導いてくれる。
急がなければ。
そうだ、急がなければ。
でも慌てるんじゃない。
男は手を使ってロープをたぐり寄せる。
右、左、右、左。
体は重く、浮上スピードが思ったようには上がらない。
男は足ひれを振り続ける。
右、左、右、左。
さらにロープをたぐり、たぐり、たぐる。
もう少しだ。
もう少しで浮上する。
けれども徐々に明るくなっていく海の青に、男はどうしようもない焦りを感じていた。
海面付近がアクアマリンのように明るく輝いているのが見えた。
十字架にはめられた宝石と同じようにキラキラと輝いていた。
でもそれも、しだいに狭くなっていく視界によって白い影に収束していく。
そしてそれさえも今、閉じて消えていこうとしている。
頼む、デイビット。
上へ行かせてくれ。
やっとわかったんだ。
そう、やっと……。
その瞬間だった。
口を大きく限界まで開き、男は息を吸っていた。
少年と老人がいる。
ふたりして何かを叫んでいた。
男は激しく肩で息をしながら、彼らに向かって親指を立てた。
「よく戻ってきた。
本当に、よく戻ってきた。
心配してたんだよ、お前さん。
ほら、お前さん、下で息を吐いちまっただろ?
だからピートもおれもてっきり、その……」
呼吸が落ち着くまで、それほど時間はかからなかった。
波間に漂いながらも上を見上げると、船の上では少年が鼻に手をあて、目に涙を浮かべていた。
男は手を伸ばす。
少年が身を乗りだしてその手をつかんだ。
暗い海の底のことなど忘れてしまうくらい刺激的な太陽が真上にあった。
瞼を閉じると明るい生命の息吹が感じられる。
大丈夫、ぼくは今、確かにここにいる。
☆☆☆*:.。.ほかにもお話しはたくさんあります.。.:*☆☆☆