三島由紀夫、「宴のあと」を読んで思うこと。
[ イタリア / 世界遺産 アルベロべッロ にて撮影 ]しばらく、文学書を読んでいなかったので、図書館に行って借りてきた本がこの本です。この本の存在は、以前から知っていましたがなんとなく読む気にならなくて放置していました。読者というのは、本のタイトルと本の評判を気にするものですが、僕にもそんなところがそうさせたかもしれません。この本は、プライバシー裁判であまりにも有名になったということで、当時、かすかに、新聞にも取り上げられていた記憶があります。しかし、その芸術的価値において海外で最初に認められた小説であるというふれこみがいささか気になって、どういった点がそうなのか?知りたくもなりました。読み始めると、早速、三島らしいというより、日本文学的な情景描写の退屈なシーンを読まされるところからはいります。恐らく、昨今の若者はこの辺で本を投げ出すかもしれませんね。映画やテレビでは、こうした描写シーンはあっという間に過ぎ去っていきますが、活字だとそうはいきませんからね。文章からそうした情景を今までの経験で仮想的に映像を作り出さねばなりません。これは、ひとつの脳トレになるかもしれません。そう思って、我慢して読むしかありません。読み始めると、雪後庵という料理屋の女主人、福沢かづという女性と元大臣の野口との出会いが始まります。全、第十九章あるうちの第五章で、かづが野口へしたためた恋文が紹介される。これを読むとひとめぼれ的な恋であるのを相手に伝えているみたいで、女性はこうも大胆になれるのだろうか?という疑問も残ります。しかし、そうでないと小説は始まりませんね。この小説のあらすじは、東京都知事選に立候補した現存したモデルを題材にした小説ですから、ネットで検索すればその詳細は出てくるでしょう。しかし、この小説がどこまでその実在の人物を描写しているのか知りません。作中における意図として三島が描写したかったのは、つまらぬ個人のスキャンダルをあばくというより、当時の政治体質が日本民族によって育まれてきた固有の性質から生まれたものであることをあぶりだしたかったのでしょう。しかし、三島が他界してから、およそ43年も経っています。今、生きていれば88歳ぐらいですか?日本の政治体質も随分と変わってきました。三島は、情報化社会が日本の生活を変えていくというのが想像できていなかったかもしれません。今日の選挙では、国民の意思がどこまで反映されるのかが問われるのですが、ちょうど、先月に参議院選挙がありましたね。投票率は相変わらずの数字ですが、やはり、政治に関心のある人が投票した反映は、かなり、はっきりとした意思表示だと思えます。民主党が政権をとったときの国民の意思、再度、自由民主党に政権を任せたときの国民の意思、いずれも手厳しいものだったと認識しています。つまり、政治家や政党にはまだ問題があっても、徐々にですが国民は敏感に裁定を下していますね。こんな状況を三島が知ったら、情報化社会がもたらす影響にきっと驚くでしょう。言い換えると、三島が描いた日本の政治体質がこうも変化してきたということですね。つまり、三島が描いた政治戯画は陳腐化したということです。三島が描いた日本人固有の性格は徐々にですが変異しています。それは、プラスでもありますしマイナスでもあるでしょう。流行を追った作品を書くと陳腐化してしまいますが、それでも、なお時代に濾過されても残ることができれば、それは、きっと普遍的なものを書き記しているからだといえます。この作品で三島が伝えたかったことのひとつに、理想だけを持った男と、そうでなく、現実に即した臨機応変の対応がとれる女との対比で、政治活動に関して、畢竟、どちらが的を得ているか?という皮肉があります。こうしたところを扱った背景には、当時の革新政党であった社会党の末路を予言しているみたいですね。理想だけを謳った政党の"虚"を見破った感がします。三島は、こうした下絵を使って作品を書くことに長けていますが、その下絵が時代と共に陳腐化していきますから、これから先の読者は歴史をひもといて当時の民意をよほど理解していないとわからなくなるでしょう。この小説で考えさせられるのは、常にかづが選択する場面だと思います。選択というのは、色々な情報をもとに真偽を確認しながら決断していくものですが、かづには女性特有の直感が選挙活動などで働いています。そうした感の良い女性が、野口のような堅物に惚れてしまうのもおかしなものですね。まあ、矛盾といえば矛盾ですね。そして、かづの最大の選択が、野口に離縁されてでも、雪後庵の料理屋を再建させる道を選んだということです。何故選んだのか?作中に、しばしば、かづが野口家の墓に自分が入れるというあの念願的描写がありましたが、それを最後にはあきらめてでも雪後庵の料理屋の女将で生涯を過ごすこと決断したのは何故か?それは、生への執着かもしれませんね。かづにとっては、野口の選挙運動を支えた独自の行動はまさにかづの目覚めた生き甲斐であり、生まれて初めて味わった男気としての自己発露だったのですが、夫の野口が隠居するにあたって一緒に連れ添われるのは、かづにとってそれは去勢された生き方ですから耐えられなかったという風に理解しましたがどうでしょうか?この小説は、淡々とした受け止めかたで読めたのですが、最後の第十九章で、山崎がかづにあてた手紙には感心しました。流石、三島はすごいなあ~と思いました。この本の裏表紙には、「・・・その芸術的価値については海外に最初に認められた小説・・・」と、批評してあったのですが、ちょっと読んでいて「?」と思っていたのですがこの最後の山崎のお手紙で納得しました。「・・・小生も永いこと政治の泥沼にまみれ、むしろこの泥沼を愛してきましたが、そこでは汚濁が人間を洗い、偽善がなまなかな正直よりも人間性を閉鎖し、悪徳がかえってつかのまでも無力な信頼を回復し、・・・丁度洗い物を遠心分離機の脱水器に投ずると、あまりにも早い回転のさなかに、今投じたシャツも下着も見えなくなってしまうように、われわれが日頃人間性と呼んでいるものがこの渦中で、忽ち見えなくなってしまう、その痛烈な作用を愛します。それは浄化ではありますまいが、忘れてよいものを忘れさせ、見失ってよいものを見失わせる、一種の無機的な陶酔をわれわれに及ぼすのです。・・・」このお手紙は、もう、山崎がかづにあてた手紙の文章ではなく、読者にあてた手紙ですね。この手紙がなければ、この小説も生きてこないでしょう。まさに、よいエピローグですね。三島は、やはり、名工な作家ですね。by 大藪光政