「国家の品格」と言う本が、六年前、日本中でかなりのセンセーショナルとなった。タイトルがすごいので難しい国家について書いてあるだろうと最初は誰もが思ったでしょう。
それは、プラトンの「国家」と同じで思ったほど難易ではなく、読むだけならば大変読みやすい本である。プラトンの場合は翻訳者が優れているからでしょう。
この本の紹介として下記の言葉がこの文庫本のカバーに記されている。
「日本は世界で唯一の『情緒と形の文明』である。国際化という名のアメリカ化に踊らされてきた日本人は、この誇るべき『国柄』を長らく忘れてきた。『論理』と『合理性』頼みの『改革』では、社会の荒廃を食い止めることはできない。いま日本に必要なのは、論理よりも情緒、英語よりも国語、民主主義よりも武士道精神であり、『国家の品格』を取り戻すことである。すべての日本人に誇りと自信を与える画期的提言。」
と、紹介されています。この説明はこの本の訴えを充分に反映しています。だから、それがわかる人にとっては、この本を開いて読まなくてもそのことがわかっておられると思います。
でも、読めば具体的な指摘とユーモアのある文章でそれなりに楽しめます。実際、読んでみるとその指摘は的確で面白い。
しかし、大切なことは読んでわかればよいというものではない。結局、それらを実際に日々、実行しているか?と言うことでしょう。それが出来なければこの本を読んで感心していてもつまらない。
そこが肝心なところです。
すでに私のブログのどこかで紹介した通り、授業料がいらない塾を現在も運営していますが、当初、得意科目の数学と物理学を教えようと思って実際入ってきた塾生を指導してみると如何に国語力が無いかを思い知らされます。
こんな状況下で英語を小学生の義務教育で時間を割くというのは愚の骨頂です。まあ、それだけではなく塾生の国語の宿題を見ていると、漢字の書き取りばかりをやらせている教師がいますから、これも馬鹿げています。
どうせ宿題をやらせるなら先生と生徒の交流日誌にすればよいのに。そうすれば、自分も宿題をせなならぬ。それがいやだったら出さないことですね。
漢字は使って学ぶものなのに、漢字だけを何回も書かせて覚えさせようとする無駄な労力と時間を生徒に与えてどうするのだろう。そんな時間があれば、本を読ませたり、文章を書かせるべきだと思う。
塾では、詩の朗読もさせていますがなるべく暗誦させています。それは、詩の言葉がとても凝縮され洗練されて深い思考が読み手にも求められるからです。
丁度、合唱で歌を歌う時、譜面を見ながら歌っていては、本当にその歌の感情を充分に表現できないのと同じですね。
ピアノ演奏でもそうです。暗譜していないと曲想をうまく表現できません。芸術はすべてそうですね。一旦、心に沁みこませてそれからがスタートです。
こんな話をしていると「国家の品格」の話は何処へ行ったのだろうということになりますね。その国家の品格とは民族の伝統の表象ですから、そうしたことをしっかり学ぶには、やはり国家が行っている義務教育が間違った方向に行けば品格が喪失してしまいます。
藤原氏は、そうした危機感からこの本を世に問うたのでしょう。でも、それを問うたのが数学者ですから、数学者が決して専門莫迦ではなく、今の日本の教育のバカバカしさ指摘しているのですから、ゼネラリストの方もおられるということを立派に証明しています。
逆に、文学者、作家などの方々が一体何をしているのだろうと思えてなりません。灯台下暗しで、意外とそうした指摘が出来ないのでしょう。
藤原氏は作家新田次郎の次男ということですから、もともと本を読む環境に恵まれていたのでしょう。色々な数学の専門書だけでなく幅広いジャンルを手掛けているところを見るとそうした文章力も随分と親譲りのところがあるに違いありません。
私の莫迦息子は、今年の春就職しましたが、大学を在籍中に「大学生らしくもっと本を読め!」と、叱咤しましたが、一向に聞く耳を持ちませんでした。
丁度、藤原氏が九工大で講演に来られて学生に色々とお話をされましたが、その話を聴いた息子はかなり刺激を受けたみたいで、「親父以上の毒舌家だった」と言っていました。
息子は、その後、猛烈に読書を始めて年間120冊以上の本を読んでいたようです。それで、院生を経て就職試験を四月初めに臨んだのですが、三回目の最後の面接にて、「あなたが大学に入って読書をかなりされた動機は何ですか?」と、聞かれたので、「国家の品格を書かれた藤原先生の講演を聴いたとき、『本を読まない者は、人間じゃない』と、言われたからです。」と答えたそうです。
すると、試験官全員が大爆笑をしたそうです。それから後の質問には意地悪な質問は出なかったそうです。もちろん、その立派な会社に今年の春入ったのは申すまでもありません。やはり、親の言うことは聞かなくても人の言う事は聞くものですね。これも藤原先生のお陰です。(笑)
さて、この間の東日本大震災があって色々と思うところがありました。つまり、現在の日本の国の姿がありありと見えてきて再考させられました。
すべてを失った時、人はどういう気持ちになるのか?とか、本当に必要なものが何であったのか?とか、考えれば多くの思いが浮かび上がります。
石原慎太郎が言っている様に「天罰だ!」と言うのは、被災者に対してではなく、日本国民に対してでしょう。今まで贅沢三昧な飽食の時代を続けてきたことに対する天罰であるということです。
テレビはどこのチャンネルを廻しても莫迦みたいに今まで贅沢なグルメ番組ばかりやっていたので、いざこの大震災に対してはそれらをあわてて自粛するものだから、番組編成にかなり四苦八苦したことでしょう。
そんな番組を見る国民が一番悪いのですけど、そうした国民にさせたのは、国の教育が悪いからだと言えば、鶏が先か?卵が先か?になってしまいます。
いざと言うときのリーダーの品格とは何かと考えたときに今回のような大震災に対するリーダー的存在の人たちを見ていますと、やはり、知識を詰めただけの人間ではとてもではありませんが務まりません。知性と感性で積層された理性というものを持った人が必ず求められるというのがわかります。
知性には論理思考も含まれますが、藤原氏に言わせると、「そうした知性だけでは駄目だぞ。」と、いうことでしょう。やはり、感性が伴わなければならないと言うことですね。
その感性には西洋的な所謂、他国の感性もありましょうがなんと言っても日本の伝統的感性は世界でもすぐれたものであるのに、それが失われつつあるのに憤慨されているのでしょう。
日本の文化は歴代の建築物を見ればわかるように木の文化ですね。西洋は、石の文化です。木は火災にあえばいとも簡単に消失してしまいます。そこで、『もののあわれ』の精神が宿ったのでしょう。木の文化では感性が大いに育ち、石の文化では知性が大いに育つと言うのは、やはり、人間は所詮、環境に影響されるつまり人間も自然の一部であると言うことですね。
木の文化であればこそ、偶然的な災害にあってもそれを必然的事象として捉えてすぐに立ち直る精神力があるように感じられます。
東日本大震災に遭われた方にとっては大変お気の毒ですが、日本と言う国家の品格をあらためて世界に示したと同時に、そうしたことに対する考えを再考する絶好の機会を自然が日本国民にもたらしたといえるでしょう。
そこが偶然から必然に置き換わるところです。
昨日のテレビニュースで、被災者の方々が桜の花見をされているのが放映されていて、ささやかなにもお酒やビールが振舞われていて、一ヶ月ぶりにお酒を口にされてなんとも言えない喜びがあったようです。いつまでも悲しんでも仕方ありません。とても良いことだと思います。
そういえば、町内のシニアクラブで会長がみんなの意見を聞かず、独断で花見を自粛して中止してしまいました。理由はテレビを見ているとそうした気分になれないということでした。そうしたマスコミに踊らされた集団ヒステリーによる偽善行為は慎むべきでしょう。
桜の花見はパッと咲いてパッと散る日本文化にぴったしの『もののあわれ』を鑑賞するものですから、そうした行為を自粛するということは、世間の花見というものがたんなる飲み会やドンちゃん騒ぎとして堕落している所為かもしれません。
大震災の後だからこそ日本人の自然と共に生きる心を磨く為にも、古来の花見はあってしかるべきです。
大震災があろうと桜は今年も立派に咲きました。
桜自身は自粛などしませんでした。(笑) 自然体です。
そうした自然の育みを体得した平常心こそ大震災の復興に対して必要だと思うのです。世界の人々が冷静に行動を取る日本人を奇異に思うのは、世界に稀な美意識を持った国民だからでしょう。
そうした固有の美意識をもった国民こそ国際人であると藤原氏が言っているのです。
来週からまたヨーロッパに向けて今年も旅立つのですが、その前にもう一度日本と言う国を再考させられました。
今回の大震災でこの国の姿がよく見えてきましたから、そういう意味では大切な機会を天から与えられた気がします。
by 大藪光政