書物からの回帰-ルーブル美術館トライアングル

[ ルーブル美術館 / トライアングル]

プーシキンという作家の名前は以前から知っていたが、プーシキンの本を読んだことは一度も無かった。

図書館で手にしたこの「大尉の娘」を見た時、やはり、タイトルがなんとなく少女文学みたいな印象でしたので、どうしょうか?と迷いましたが、表紙の簡単なあらすじと、1991年11月時点で第59刷という長期的な愛読書であることがわかって、食わず嫌いは良くないと思い、読んでみることにしました。

この「大尉の娘」の翻訳は神西 清氏ですが、とても、読みやすく名訳だと思います。かなり、古い時代での翻訳ですが、今読んでもプーシキンの心をよく摑んでうまい文学的な表現で吹き替えをしているなあと感心します。

それもそのはず、後で調べてわかったのですが、神西 清氏は堀辰雄と親交があって堀辰雄の死後、堀辰雄全集の編集をされた人だそうです。

また、なんとなく、『神西』という名前が珍しいのに気付きました。驚いたのは、神西 清氏は、私が知っている神西敦子さんというピアニストの父上だそうです。神西敦子さんのCDは聴いたことがあります。

日本のピアノ教育者として活躍された神西敦子さんは、神西 清氏の娘さんだったのですね。意外な繋がりがあるものです。

さて、この本の読後感として、この本は是非、今の中学生に読んでもらいたい本のひとつにあげるべきかなと思いました。それはなんだか、小学校時代に夢中になって読んだロビンフッドの冒険と相通じるものがあるからでしょう。

「大尉の娘」の小説は、主人公が体制側ですが、ロビンフッドは反体制側の話ですね。でも、どちらにしても読者の心を打つものを持っていますから面白いですね。

このプーシキンの小説で感心するのは、まず、文章の簡潔さ、そして、ストーリの展開が快活であることと、人間にとって大切なことをきちんと表現していることですね。

それを、登場人物においてその役割分担をしているからとても明快です。

僕は、中学生の頃、夏目漱石の「坊ちゃん」なんかちっとも面白くもないと思って文学とは距離をおいていましたが、今に思うとこうしたプーシキンの小説に出会えていれば文学に興味を示したのに・・・と、惜しいことをしたなあ~と思います。

それを高校二年生までやっていたから、本当に今でも損をした気分です。漱石なんかは、大人の文学ですから面白くもないはずです。

先程、人としての生き方を登場人物の役割分担によって表現していると言いましたが、それは次のような振り分けです。

大尉の娘の父であるイヴァン・クージミチは、一途な忠誠心たるものを死でもって示し、主人公ピョートル・アンドレーイチと常に対立していたシウ゛ァーブリンは、自分にとっての功利主義を貫く臨機応変な生き方を描き、反乱の皇帝とまで自負していたブガチョーフは、悪漢なのか?正義なのか?それとも革命者なのか?はボカシつつ人間的な魅力で主人公と読者まで惑わす個性的なイメージでストーリを楽しく展開させています。

また、一貫して主人公をサポートする守役サヴェーリイチは、まったくブレることなく忠僕なおじいさん役を務め、年の功で読者を安心させてくれます。

ところで、不思議なことに主人公ピョートル・アンドレーイチが愛していたマリヤ・イヴァーノヴナの性格表現が後半までずっと軽く流れていましたが、女帝との不思議な出会いでやっと彼女の意思が見えてきた感じでした。

こうしたイヴァン・クージミチ、ピョートル・アンドレーイチ、サヴェーリイチ、そして、マリヤ・イヴァーノヴナのようなロシア人の気質は日本人と同じ共感を得るところです。

しかし、どういうわけか?今のロシア政府の人々のやり方は、シウ゛ァーブリンのように狡猾で功利主義を貫く臨機応変な行動を取っています。何故、今日のロシアの国がそうなのか?どうしても理解できないところです。

シウ゛ァーブリンのような生き方が許せないと、読者は誰しも思うところですが、よくよく考えてみると、誰しも歴史の流れの中で、常に人は楽な生き方を求めています。

反体制勢力が強くなれば、そちらになびこうとするのが人の弱さです。それは、反体制に権力が委譲されれば反体制派は体制側になってしまうから、どちらにつくべきか!すなわち生きる為には人が安全な方向に向かうのは当然でしょう。生きる為には己の意志を押し殺すことも大切です。しかし、危険であってもあえて己の意志を貫くところが単なる動物とは違った人間としての求道かもしれません。

このお話は歴史小説というよりも、歴史を背景にした普遍的な人としての生き方を問うている小説だから、この当時の歴史を知らなくても読めるし、それより歴史を超えた人間像に感動します。だからこの小説をカバー表紙に書かれてあるような歴史小説と捉えるのは正しくないですね。

それと大尉の娘が、ピョートル・アンドレーイチ(主人公)の父が結婚に反対している限り、私はあなたとは結婚しませんというような固い意志は、今の世代においてそんなことを言う女性は果たしてどれだけいるだろうか?と思ってしまいます。

これが当時の女性の常識だったとは思えませんが、やはり、父親が反対することが、双方の不幸に繋がるということなのか?それとも、父親の祝福なしでは結婚をすべきでないという、父親を敬っている態度なのか?わかりません。

いずれにしても謙虚な態度で結婚を考えているというのは伝わってきます。また、とても頑固な主人公の父も、潔く死んだ大尉の娘が孤児となったことに同情を示し、暖かく迎えるというところも思いやり精神のある日本人にとっては感動的な話でしょう。

そうしてみるとこの小説は出来すぎのハッピーな小説ですね。とくに女帝の計らいで二人が幸せになれる場面なんか出来すぎですね。

でも、こうした出来すぎの小説を読んでも別にいやらしく感じないのは何故でしょう。悪い言葉を使えば、やらせの小説(仕組まれた小説)だとは思いますが、読んでいて少しも騙されたとは思いませんし、読後は幸せな気分になれます。

だからとても不思議です。それは、恐らくここに書かれているあるべき理想の人間像に誰もが共感するからでしょう。人類が求めている人間像・・・そうあらねばならないという普遍的なものをもっているからでしょう。

それは、やはり政治や闘争を超えた、人としての信頼や『思いやり』つまり慈悲の心というものを求めているからでしょう。

それらを簡潔にまとめた小説が「大尉の娘」なのですね。

だから、この小説は中学生に是非読ませてあげたい一冊の本だと思います。

中学生の読書力で充分に読める小説ですし、とても痛快な小説です。

また、まだ読まれていない大人も少年少女にもどって素直にこの小説を読めば、きっと若返るでしょう。

健康サプリメントを摂るよりもずっと健康な心になりますね。

by 大藪光政