[ ドイツ/ライン河岸の古城 ]
若きウェルテルの悩みを読んだときもそうでしたが、ゲーテの作品はどうも現代の読者を惑わしてしまいますね。別に難しく書いているわけでもないのですが、読みづらいところがあります。それはゲーテには読者相手の意識が希薄なのかもしれないと思うほど自由気ままです。
ゲーテの作品が当時人気があってもてはやされていたのは、やはり、その時代に生きている人々にとって、時代が持っている鬱憤をゲーテの作品を読むことで気晴らしにするような面白い良薬の風刺が盛り込まれているからでしょう。
先月の下旬、この自由気ままな長たらしいファウストの第二巻を読み始める頃には、ドイツに行っていました。フランクフルト空港に到着した時は夕刻でした。
一応、この第二巻とカントの実践理性批判の二冊、旅行に持っていったのですが、ハード・スケジュールでしたので結局どちらも読まずじまいでした。まあ、乗り物酔いの常備薬と同じで持っているだけで落ち着く!つまり、時間潰しの心配がご無用ということです。
レジデンツ宮殿を案内してくれたドイツ在住の若い女性のガイドさんと話す機会がありましたので、ちょっと質問してみました。「ドイツに住まれてどれくらいですか?」という質問から始めました。
すると、「ドイツに留学してここで夫と知り合ってそのまま結婚しましたから、十年ほどになります。」という答えでした。そこで、「専攻は何をされていましたか?」と次の質問をしましたら、「言語学」ということでした。
それではということで、早速ゲーテの作品についてちょっと聞いてみたくなりました。「ゲーテの作品に、若きウェルテルの悩みとか、ファウストなどがありますが、どうも、日本では今の学生は読み辛いのか?読んでいませんね。」と、水を差し向けると、「ええ、こちらのドイツの若い学生はまったく読みませんね。それは日本と同じでしょう。」と言って笑ってしまった。つまり、面白くもないという作品の部類に入ってしまっているようです。
古典文学はいつの時代でも不滅のはずなのに、ゲーテの作品はもう今の時代に若者にはもてはやされていないというのは、どういうことなのだろか?と、しばし考え てみた。ひとつは作品で時代風刺をしたときに、作品としてはその時代の人々にとっては大受けですが、過ぎ去った時代の人にとっては醒めた気持ちで読むことにな ります。
それと、その時代ではとても革新的な発想で当時の人々をあっと言わせても、後から出現する作家の手によって剽窃され、新しい時代にマッチングした焼き直し のリニュアール版が出回りますから、そうした新本を読んだ読者にとっては、逆に、ゲーテの元祖作品が陳腐に思えてならないのかもしれません。
この第二部を読むと現代に生きているごく一般の人々にとっては、まったくちんぷんかんぷんな内容かもしれません。まるで神話の大叙事詩を読んでいる感覚になってしまいます。
そうですね。この本を小説として読むという気持ちで向かい合うよりも詩を読むという姿勢で読めば気楽に目が通せると思います。娘が、私に「どうしてお父さんは面白くもない本を読むことができるの?」と、このファウストがある本を横目で眺めている私に質問してきた。
「ゲーテが生きていた時代と現代とは、まったく人々の考えや社会が変化しているから、この本を現代に生きている立場で読めばとてもつまらなく思えるかもしれないが、その当時の社会を連想して読めば、ゲーテの皮肉がとても面白く読める。」と、答えたのですが、この本を長編詩集と思えば詩を読むのに面白いとか考えないだろうに・・・と思っていました。
そういえば、ゲーテの詩で、『野ばら』というのがありましたが、これをちょっと書き出してみますと次の通りです。
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近 藤 朔 風 訳詩
童は見たり 野中の薔薇
清らに咲ける その色愛でつ
あかず眺む 紅香う
手折りてゆかん 野中の薔薇
手折らば手折れ 思出ぐさに
君を刺さん 紅香う
野中の薔薇
童は折りぬ 野中の薔薇
手折りてあわれ 清らの色香
永遠にあせぬ 紅香う
野中の薔薇
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この詩には、シューベルトやウェルナーといった数多くの作曲家がこれに曲をつけています。それだけ当時、人気の詩だったのでしょう。 特に、ウェルナー作曲の『野ばら』は、若くして亡くなったにもかかわらずこの一曲だけで、今も人々の心をなごませてくれます。
私が、五月に設立した「ウェルナー少年少女合唱団」は、スイスの名花、ゲンティアナ・ウェルナと作曲家のウェルナーとのイメージが一致して諸冨善美先生と共に命名したのですが、『野ばら』の作品がそこに大きな存在として位置していたからと、今となって思うのです。
この詩を読めばわかるように子供とバラの関係を物語として美しく描写していますが、ドイツ語でない日本語でゲーテの詩の世界を表現するのはとても困難だったと思います。
言葉には意味だけでなく、音の響きというものがあります。最初は音から始まってそれから意味という表現に発達した言語も、現在ではすっかり意味が主体となってそれゆえ言葉に表せない表現のもどかしさに気付きます。
そうしたとき、流行語の中で、音の響きで流行る言葉がありますが、その時代の気持ちが音の中に秘められています。「チョーキツイ」とか、「キモイ」とか、若者が使う言葉はそんなところでしょう。しかし、時代が過ぎると飽きられて捨てられます。
だから、ゲーテの詩を味わうにも音の響きが伝わる原語で読むべきでしょう。しかし、ドイツ語を日常語としていない人々にとっては、この野ばらという作品は音楽と言う力で、ゲーテに代わって描写してくれましたのでわれわれ日本人もこの芸術を今宵なく愛することが出来るというものです。
だから、このファウストも音の響きとともに伝わってきたらきっともっと別世界のところへ私たちを導いてくれるに違いありません。
ファウストを読むにあたっては時間が止まったように、長閑に過ごせる生活がまず必要なのかもしれません。
ゲーテという人はレオナルド・ダビンチのように、様々な分野に首を突っ込んだ人です。私も色々な分野に首を突っ込んでいますが、所詮、私は凡人です。
色々と行動するということが、どれだけ多くの時間が取られてしまうか、または振り回されてしまうのかをいつでも思い知らされます。そんな状況の中であっても天才は行動の中から、しっかりとエッセンスを抽出して表現する力を持ち合わせ、かつ、その創造する時間を作っている。その違いがその天才たる所以でしょう。
by 大藪光政