永代神楽祭・3 | 神産巣日神(かみむすびのかみ)のブログ

神産巣日神(かみむすびのかみ)のブログ

古来、日本では、「愛」と云う字を使わないで、「産巣日(むすび)」と言いました。「むすび」と云う言葉は、「愛」と云う言葉よりも非常に深遠な意味を含んでいるのです。ときに、神産巣日神は「造化の三神」の内の一柱の神であり、獨神(ひとりがみ)で御座います。唯々感謝。

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 さて、去る 昨年の1月31日(日)の「永代神楽祭 えいたいかぐらさい・2」のブログの上段に、

「(前略)去る 昨年の1月30日(金)の『永代神楽祭 えいたいかぐらさい 』のブログ そして去る 一昨年 おととし の12月4日(木)の『神社参拝』のブログ で記しましたように、1月29日で 靖国神社に まつ られている伯父の 祥月 しょうつき 命日(御承知のように、一周忌以後の当月の命日のことです)であり、 永代神楽祭 えいたいかぐらさい に参りました。最近では、母親は この日は寒いから行けない とのことで 御座 ござ いました。以前から 父親は、この日は家に ます。近年では 家族で一人になりましたが、参ります。午後の比較的あと の時間から始まるのです。万障 ばんしょう り合わせて、毎年 参拝致しております。誠に有り難いことに 親によりますと、cold(英語)(ネガティブ[英語:negative]で 御座 ござ いますし、お読み下さっている 方々 かたがた に影響をぉ与えすることの無いように、日本語で つづ ることを控えさせて頂きましたが、以前、それではわからない、と指摘を頂きましたので、日本語も併記させて頂きます。小さく記させて頂きます。感冒[俗に、風邪]のことで 御座 ござ います)をひいているのなら 行かなくていい とのことでありましたが、この日は 特別で 御座 ござ います。(後略)」と記させて頂きました。一昨日おととい すなわち 1月29日は、例年のこと なが ら 寒い日でした。

 

 ときに、前述の 去る 昨年の1月31日(日)の「永代神楽祭 えいたいかぐらさい・2」のブログの上段に、

「(前略)去る 昨年の1月30日(金)の『永代神楽祭 えいたいかぐらさい 』のブログ の上段に、

『(前略)伯父は くらいど丸に乗船していて、昭和20年1月29日午前6時30分、台湾海峡でアメリカ海軍潜水艦ピクーダ SS-382 の魚雷攻撃により撃沈されました。(後略)』と記させて頂きました。調べましたら、この数日前の1月25日は 九州では雪が降っています。英霊の 方々 かたがた の御苦労は 計り知れないものがありますが、 みぞれ が降って 少しでも 寒さを共感させて頂けたかと存じました。誠に有り難いことで 御座 ござ います。明治神宮外苑の国立競技場で 出陣学生の『壮行会』がありましたときも、雨でした。 ちな みに、去る 一昨年 おととし の10月8日(水)の『親の受診に付き添っていること・1』のブログ また 去る 一昨年 おととし の11月9日(日)の『親の受診に付き添っていること ・2』のブログ のそれぞれ共に中段やや上 そして 去る2月23日(月)の『天皇陛下行幸の君恩に よく して』のブログ の中段やや下に記させて頂きました 某・ボランティア(英語:volunteer)のサークル(英語:circle)で、高校一年生の春のときに バス(英語:bus)の隣の席に座った先輩から 自分が 最も好きな曲は 『学徒出陣の歌』であると聞かされました。靖国神社に行きますと、必ず この『学徒出陣の歌』の歌詞が脳裏に浮かんで来て 口ずさみます。英霊の方々 かたがた と共に 歌っているような気持になります。しかも、前述の 去る 昨年の1月30日(金)の『永代神楽祭 えいたいかぐらさい 』のブログ の中段やや上に、

『(前略)学徒出陣の歌が御座いますが、学徒出陣した戦没学生の 方々 かたがた の手記が記されている感動的な本です。この かた は、この本を読んだが、学徒出陣はしたくないとのことでした。現在の日本人の学部生の 方々 かたがた が共通して思っておられることであるか、と思われました。

 日本国民にとりまして、まも るべきものがある場合の価値観が関わって参ります。日本国民が、国家を愛して国家を まも るために戦いました。その戦いという行為は、相手があり 相対的なものであるから、 各々 おのおの の立場の異なる人々によって、その価値 もしくは 不価値をいろいろに評価されるけれども、その戦いという相対的行為の奥にあるところの、日本国民が 天皇を愛し大日本帝国を愛したという、その純忠なる愛の価値は 相対的価値を超えた絶対的なものでありますから、肉体という相対的存在が滅びても、永遠にその愛の価値が滅びることは無いので 御座 ござ います。(後略)』と記させて頂きました。なお、去る 3月16日(月)の『納豆』のブログ の冒頭に、
『(前略)母校の、某・理事長に勧められた内科学教室に入局・・・(後略)』と記させて頂きました。この内科学教室の研修医のとき、徒歩で15分 くらい の所に位置していた この靖国神社に 通勤の つい でに、誠に有り難いことに 毎日のように 参拝致しました。(後略)」と記させて頂きました。

 

 ところで、前述の 去る 昨年の1月31日(日)の「永代神楽祭 えいたいかぐらさい・2」のブログの中段やや上に、

「(前略)この神門をくぐりますと、中門鳥居がみえます。前述の 去る 昨年の1月30日(金)の『永代神楽祭えいたいかぐらさい』のブログ の下段に、

『(前略)知り合いの医師から、親戚が宮司であったと伺いました。その靖国神社の写真を、下に掲載致します。靖国神社の撮影は、警備員の前でも、周囲の方々かたがたが皆 おこなっていましたので、それに習いました。それでも、中門鳥居の外から撮影させて頂きました。(後略)』と記させて頂きました。今回も 中門鳥居の外から撮影させて頂きましたので、この写真を 下に掲載致します。ちなみに、この中門鳥居の素材は ひのきです。(後略)」と記させて頂きました。今回も 中門鳥居の外から撮影させて頂きましたので、この写真を 下に掲載致します。

 

 

中門鳥居

 

 

靖国神社・拝殿

 

 

 

 神社境内(参道)は 写真撮影禁止と書かれてありませんでした。写真撮影している人々が大勢いました。ところが、写真撮影して 警備員から 肩をつかまれて 注意されている人がいました。

 

 また、前述の 去る 昨年の1月31日(日)の「永代神楽祭 えいたいかぐらさい・2」のブログの中段やや上に、

「(前略)この中門鳥居の手前・左手に、英霊の手記が掲示されています。毎月、変わります。参拝する度に、これを撮影します。取りえず、今月 そして 4年前の同じ時期 すなわち 去る平成24年2月4日に撮影した 英霊の手記を添付致します。(後略)」と記させて頂きました。ちなみに、今回も、今月の英霊の手記を掲載致します。なお、誠に有り難いことに、この英霊の芳名の1字であります「義」の漢字が 当方の名前にも あります。

 

 

今月の掲示

 

 

 

 それから、前述の 去る 昨年の1月31日(日)の「永代神楽祭 えいたいかぐらさい・2」のブログの中段に、

「(前略)中門鳥居をくぐりまして、拝殿で参拝致しました。拝殿の右手に、天皇陛下の御製が掲示されています。前述の 英霊の手記と同様に、毎月 変わります。今月は、明治天皇陛下の御製でした。前述致しましたように この日は みぞれが降りましたので、御製の雪の言葉が 一際ひときわ 身にみました。ちなみに、去る4月5日(日)の『歴史のごう』のブログ の上段にも、明治天皇陛下の御製を引用させて頂きました。また、去る2月23日(月)の『天皇陛下行幸の君恩に浴して』のブログ の中段、去る2月24日(火)の『歌会始の詠進歌』のブログの冒頭 そして 前述の 去る11月16日(月)の『七五三に思うこと』のブログ の中段にも、昭和天皇陛下の御製を おそながら引用させて頂きました。なお、前述のように 警備員に挨拶して、警備員の前で 撮影致しました。この掲示の写真を 下に掲載致します。(後略)」と記させて頂きました。今月も、明治天皇陛下の御製でした。今回は 記載されている用紙の写真を撮影りまして、掲載致します。この用紙は 沢山たくさんありましたが、つぎかたために、置かれていた場所に戻して来ました。

 

 

明治天皇陛下の御製

 

 

 

 ならびに、前述の 去る 昨年の1月31日(日)の「永代神楽祭 えいたいかぐらさい・2」のブログの中段に、

「(前略)去る 昨年の1月30日(金)の『永代神楽祭えいたいかぐらさい』のブログ 中段やや下で 言及させて頂きました 『靖国神社境内にあるパール博士顕彰碑』にも参りました。前述のように ラダ・ビノード・パール判事がして下さった働きを 『パール博士顕彰碑』の前で思うとき、涙がこぼれました。(後略)」と記させて頂きました。

 

 

パール博士顕彰碑

 

 

パール判事

 

 

 

 および、同様に 神社境内に、特攻勇士之像 そして 母の像がありました。

 

 

特攻勇士之像

 

 

母の像

 

 

 

 つぎに、前述の 去る 昨年の1月31日(日)の「永代神楽祭 えいたいかぐらさい・2」のブログの中段に、

「(前略)それから、参集殿に行きました。前述の 去る 昨年の1月30日(金)の『永代神楽祭えいたいかぐらさい』のブログ 下段に、

『(前略)玉串たまぐし料を奉納致しまして、本殿に昇殿しょうでんしました。永代神楽祭えいたいかぐらさいでは、修祓しゅばつ献饌けんせん祝詞奏上のりとそうじょう、戦没者招霊しょうれい、かずら舞い(神道式の巫女みこさんの舞い)、玉串奉奠たまぐしほうてん撤饌てっせんそして 黙禱もくとう御座ございます。最後、全員に巫女みこさんから御神酒おみきが振る舞われますが、去る(一昨年おととしの)11月1日(土)の【東ベルリン(旧・東ドイツ)】のブログ の下段に記させて頂きましたように、医者(研修医)になってから、お酒を飲んでいませんので、毎年、通路上の神官 そして 巫女みこさんのわきを通り抜けて、失礼します。(後略)』と記させて頂きました。参集殿に入るときに いつも ビニール(英語:vinyl)袋を持って行って、その中に 靴を入れて 上がります。すると、今回は 受付から 靴箱もありますよ 言われました。西郷隆盛の教訓がありますので、いつも ビニール袋を持参致しております。機会がありまして 宜敷よろしければ、この教訓の詳細を記させて頂きます。そして、前述と同様に 参集殿の受付を済ませて、本殿に昇殿しょうでんしました。この日の参拝者は、当方を入れて 9名でした。近年、毎年 一人ひとりで来ているのは 当方だけでしたが、今年は もう 一人ひとり 見えました。両親の分も、記帳致しました。

 式次第が進み、戦没者招霊しょうれいが始まりました。(後略)」と記させて頂きました。ちな みに、日曜日であったためか、今年は 10数名の参拝者が集まりました。なお、参拝者の関係以外の英霊の招霊しょうれいも唱えられますので、長い時間がかります。

 

 なお、去る 一昨年おととしの1月30日(金)の「永代神楽祭 えいたいかぐらさい 」のブログの上段に、

「(前略)生まれたときに、伯父の生まれかわりとのことで、伯父と同じ名前を命名されました。伯父とは縁が深いので、前述のように、近年では家族で一人になりましたが、参拝しているので御座ございましょう。(後略)」と記させて頂きました。ならびに、前述の 去る 昨年の1月31日(日)の「永代神楽祭 えいたいかぐらさい・2」のブログの上段に、

「(前略)このブログ記事の冒頭に、伯父のことを記させて頂きました。実は、当方が生まれたときに、この伯父の生まれ変わりと思われて、漢字は違いますが 同じ名前を命名されたのです。平仮名では 同じですから、読み上げますと 同様なのです。伯父の芳名を読み上げて 招霊しょうれいがなされますと、自分が 招霊しょうれいされているような気が致しました。(後略)」と記させて頂きました。

 

 そして、前述の 去る 昨年の1月31日(日)の「永代神楽祭 えいたいかぐらさい・2」のブログの中段に、

「(前略)そのつぎに、かずら舞いが始まりました。毎年のことですが、このときは 英霊の方々かたがたのことを思い 拝見しているどころではありません。下を向いて 拝見することは致しません。すると、そのときに ひらめきました。誠に有り難いことに、大東和戦争では 英霊の方々かたがたが犠牲になって、つぎの日本につないで下さった。英霊の方々かたがたの おかげであると思われました。

 本殿をあとにしまして、前述の撤饌てっせんの品物を頂きます。すなわち、下に それらの写真を添付致します。(後略)」と記させて頂きました。今年も、上記の撤饌てっせんの品物を掲載致します。

 

 

受納證

 

 

永代神楽祭 えいたいかぐらさい神饌

 

 

神菓 と お守り

 

 

撤下神饌

 

 

神酒

 

 

 

 例年と同様に、以上の品々は、すぐに両親に届けて 報告致しました。

 

 さて、永代神楽祭 えいたいかぐらさい の際 お金を取り出したときに、財布を置いてしまいました。しばらくして 気が付き、受付に行きました。すると、誠に有り難いことに 受付にありました。氏名を確認されて 財布が 戻って来ました。

 

 ときに、前述の 去る 昨年の1月31日(日)の「永代神楽祭 えいたいかぐらさい・2」のブログの中段に、

「(前略)参集殿をあとにして、遊就館に行きました。前述の 去る 昨年の1月30日(金)の『永代神楽祭えいたいかぐらさい』のブログ 下段に、

『(前略)遊就館は 次回 入館したいとのことでしたので、無期限で使える入館券を2枚渡しました。(後略)』と記させて頂きました。この渡したかたは 次回 遊就館に入ると話していましたので 誰かを連れて来てくれたか、そんなことを考えていました。前述の 去る5月18日(月)の『一大事とは』のブログ の中段に、

『(前略)三島由紀夫みしまゆきおは、自決に先立つ約一ヶ月前の昭和45年(1970年)10月、広島県江田島にある海上自衛隊第一術科学校の教育参考館を訪れています。その折偶々たまたま展示されていた、全国から寄せられた戦没者の遺書の中から手に取った一通の遺書を読み終えた三島由紀夫みしまゆきおは、声を出して泣いた といわれています。それは慶應義塾大学経済学部から海軍第13期飛行予備学生に志願し、昭和20年(1945年)5月、神雷部隊(人間爆弾【桜花】による特攻部隊)として 特攻出撃し、南西諸島方面で 散華さんげした某・中尉(戦死後 少佐に 二階級特進。23歳)の残した遺書でありました。三島由紀夫みしまゆきおは この遺書を読んで、【すごい名文だ。命がかかっているのだから かなわない。俺は 命をかけて書いていない。】と語ったと言われています。ちなみに、この遺書は、現在、靖國神社の遊就館ゆうしゅうかんに展示されています。(後略)』と記させて頂きました。この遊就館に行きますと、この遺書も 必ず見ます。および、戦艦大和 そして 同・武蔵の主砲が展示してありますが、その大きさに圧倒されます。機会がありまして 宜敷よろしければ、この遊就館の詳細を記させて頂きます。遊就館の拝観順路の最後に、記入するノート(英語:note)が 置かれています。それで、遊就館を拝観したときには 必ず書いて来ます。今回は、『回天(前述の 人間爆弾『桜花』と同様に、特攻部隊です)を見ました。殉死者は、89名とのことでした。そもそも、問題があったのは 米国 そして ロシアほうです。初めから、ルーズベルト(英語: Franklin Delano Roosevelt)は 開戦するつもりであった とされています。勿論もちろん、このことは、コミンテルン(ロシア語:Коминтерн)(大正8年[1919年]から昭和18年[1943年]まで存在した、共産主義政党による国際組織のことであります。別名は、第三インター・ナショナルです)の謀略もあります。大東亜戦争開戦当時、ルーズベルトの周囲には コミンテルンのエージェント(英語:agent)だらけでした。ありがとうございました。 』と書かせて頂きました。このことは、去る12月4日(金)の『占守島しゅむしゅとう』のブログ 、去る11月14日(土)の『満州のこと』のブログ 、去る11月11日(水)の『今上天皇陛下の お言葉』のブログ 、去る10月5日(月)の『硫黄島いおうとう』のブログ 、去る8月15日(土)の『終戦の日』のブログ 、去る8月9日(日)の『長崎原爆の日』のブログ そして 去る4月5日(日)の『歴史のごう』のブログ などにも記させて頂きました。機会がありまして 宜敷よろしければ、さらに この詳細を記させて頂きます。(後略)」と記させて頂きました。そして、去る4月7日(木)の「大東亜戦争の真実」のブログなどに 詳細を記させて頂きました。ちなみに、今年も ノートに記入して来ました。なお、下の遊就館拝観券に、一昨日おととい すなわち 1月29日と書かれてあります。

 

 

遊就館拝観券

 

 

 

 ところで、去る 一昨年おととしの1月30日(金)の「永代神楽祭 えいたいかぐらさい 」のブログの上段に、

「(前略)伯父は パン屋で修行していました。パンを調理する レシピ(英語: recipe)のノートが 残されています。当初、伯父は 二等兵で御座ございましたが、戦死して 二階級特進で 曹長そうちょうになった と聞かされています。

 母親は、日本の官僚でもあり、実業家でもあった白洲次郎しらすじろうのことが好きです。その言葉に、徴兵されるよりも、農家は農業のことを行うことが一番いいとのむねのことが御座ございます。家族は、伯父が パン屋で進んでいたら・・・と話します。父親によりますと、伯父は 犬死だったとのことでした。(後略)」と記させて頂きました。上記のように 伯父は パン屋で修行していましたので、母親から 参拝後に ケーキ(英語:cake)を 二つふたつ 買って来るように とのことを言われました。父親と共に 食べる とのことでありました。

 

 

ケーキ

 

 

 

 昨日、ヘルパー(英語:helper)(日本語:家政婦)に 上のケーキを お裾分すそわけしました。すると、ヘルパー(家政婦)によりますと、美味おいしいとのことでありました。

 

 (半角で 4万文字以内という字数制限を超えましたので、文章を削らせて頂きました)

 本日も、最後 まで お読み頂き、誠にありがとうございました。唯々感謝。(^-^)