今上天皇陛下の お言葉 | 神産巣日神(かみむすびのかみ)のブログ

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古来、日本では、「愛」と云う字を使わないで、「産巣日(むすび)」と言いました。「むすび」と云う言葉は、「愛」と云う言葉よりも非常に深遠な意味を含んでいるのです。ときに、神産巣日神は「造化の三神」の内の一柱の神であり、獨神(ひとりがみ)で御座います。唯々感謝。

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 さて、去る10月5日(日)の「ボランティア・高尾山登山」 去る1月21日(水)の「ボランティア・高尾山登山・その2」のブログ で、

「(前略)18年間、月二回、日曜日に、・・・ボランティアを、このトップの方々(かたがた)二人に委託されて、おこなって参りました。そのボランティアで、過日、子供達と父兄を連れて・・・(後略)」とぉ伝え申し上げましたボランティアで、毎年、天皇誕生日に 皇居参賀に行きました。天皇陛下の お言葉がありまして、毎回 筆記致しておりました。今年の新年に当たり、天皇陛下の御感想 が発表されました。それによりますと、「(前略)本年は終戦から70年という節目の年に当たります。多くの人々が亡くなった戦争でした。各戦場で亡くなった人々、広島、長崎の原爆、東京を始めとする各都市の爆撃などにより亡くなった人々の数は誠に多いものでした。この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています。(後略)」とのことで御座ございました。これは、大東亜戦争だけでなく、昭和6年(1931年)の満州事変から 昭和20年(1945年)ポツダム宣言 受諾による 大東亜戦争 終結に至るまでの約15年間弱(実際には、14年足らず)に(わた)る紛争状態 と 戦争を 総称した呼称として、「十五年戦争」とわれますが、この「十五年戦争」の総括を考えるべきだという意味であると思われます。そこで、天皇陛下の大御心(おおみごころ)に従って、考えてみます。学者の中には、満州事変以降の戦争を「十五年戦争」として 一纏ひとまとめにして、満州事変から 支那シナ事変(日華事変)を連続して考えているかたが見えますが、()たしてそうでありましょうか。少なくとも、満州事変 と 支那シナ事変(日華事変)は別に考えるべきであります。扱う内容が膨大でありますので、今回は、この考えのみ記させて頂きます。ちなみに、支那シナは差別用語ではないとされています。仮に、差別用語であると致しますと、英語のチャイナ(China)も 差別用語になると思われます。


 すなわち、

 昭和12年(1937年)7月7日夜半に起こった盧溝橋ろこうきょう事件が 支那しな事変の引き金になったとされています。北京の南を流れる盧溝河に架かる橋が、盧溝橋ろこうきょうです。当時、盧溝橋ろこうきょうの近くで 現地に駐屯していた日本軍は、夜間演習を行っていました。その盧溝橋ろこうきょう事件は、蒋介石しょうかいせき軍(支那シナ・国民党軍)に潜入していた 毛沢東もうたくとうの手下の部隊が起こした謀略でした。蒋介石しょうかいせき軍 と 日本を戦争させるため、前述のように 夜間演習を行っていた日本軍に銃弾を撃ち込んだのです。日本軍は、不意に暗闇から銃撃を受けました。日本軍駐屯地の近くには 蒋介石しょうかいせき軍も駐屯していたのですが、銃撃を受けた日本軍は、その銃撃が 蒋介石しょうかいせき軍によるものと思いこみ、遂に日本軍 と 蒋介石しょうかいせき軍の武力衝突 すなわち 盧溝橋ろこうきょう事件が起こったのです。

 当時、毛沢東もうたくとうにとって 一番の敵は、蒋介石しょうかいせきでした。蒋介石しょうかいせきによって、毛沢東もうたくとうが率いる共産軍は ほとんど息の根を止められ、延安という山奥に追い込まれていたのです。コミンテルン(ロシア語:Коминтерн)(大正8年[1919年]から昭和18年[1943年]まで存在した、共産主義政党による国際組織のことであります。別名は、第三インター・ナショナルです)は、この状況を打開するため蒋介石しょうかいせき軍 と 日本軍を戦争させ、蒋介石しょうかいせき軍の勢力をいでしまおう、こういう謀略を企てたのです。

 それでも、この盧溝橋ろこうきょう事件は、何とか話し合いで収拾することが出来ました。ところが、その3週間くらい 後に、いきなり 北京近郊の通州という所で 日本人2百人以上が虐殺されるという凄惨な事件が起こりました。しかし、それでも、この事変は 大きく拡大することなく、一旦は終息しました。日本は、兎に角とにかく 事変が拡大することを必死に食い止めたのです。しかしながら、そのような努力もむなしく、今度は 同・8月13日に、上海で事変が始まりました。

 上海事変が起こったとき、蒋介石しょうかいせきは 日本とは戦争をしたくないと考えていました。彼が望んでいたのは 支那シナの統一であり、それを妨害していたのは 毛沢東もうたくとうだったのです。日本と戦争すれば、支那しなの統一どころではなくなってしまうわけです。

 ところが、張治中という将軍は 蒋介石しょうかいせきの命令を聞かず、勝手に5万の兵隊を動かして 日本と戦争を始めました。実は、この張治中という人物も 既に共産主義者になっていて、毛沢東もうたくとうコミンテルンから 日本を戦争に巻き込めという指令を受けていたのです。そして、この事件を契機として、日本は広大な支那シナ大陸を舞台に、昭和20年(1945年)8月15日の終戦まで、「日中戦争」と呼ばれる 終わることの無い戦争の泥沼へと引きずり込まれて行ったのです。


 このように、盧溝橋ろこうきょう事件から始まった支那シナ事変というのは、コミンテルンの謀略によって起こされたものでした。この間、日本は常に受け身でした。事件を起こされ、それを収拾し、というようなことが繰り返されたのです。 去る1月30日(金)の「永代神楽祭えいたいかぐらさい」のブログ の中段に、極東国際軍事裁判(通称・東京裁判)のことを記させて頂きました。東条英機は この東京裁判の宣誓供述書で 「日本は常に受け身であった」と述べていますが、これは その間の歴史事実をしているのです。このように、大陸において 日本が戦争に巻き込まれていったのも、その背後には コミンテルンの謀略があったわけです。すなわち、大陸においても コミンテルンの執拗しつような工作が行われていました。

 そう致しますと、戦前の日本が 途中から おかしくなって来たのは、何と言ってもソ連の陰謀が原因であり、それによって 支那しながおかしくなり、さらに 米国もおかしくなって、日本は その(はさ)み撃ちにあった、これが正しい歴史事実です。この事実を述べたのが 東条英機の宣誓供述書であり、マッカーサー(米語:Douglas MacArthur)の証言でもありました。ここで、補足致します。

 すなわち、東京裁判が終わってから 1年半くらい 後、朝鮮戦争が起こりました。マッカーサーは 韓国に攻め込んだ金日成を満州国境まで 追い払ったのですが、裏では スターリン(ロシア語:Иосиф Виссарионович Сталин) と 毛沢東もうたくとうが、金日成に惜しみない援助を続けています。それで、マッカーサーは、トルーマン(米語: Harry S. Truman)大統領に満州爆撃 と 東支那シナ海に面する港湾の封鎖を要請したのです。それに対して トルーマンは、満州を爆撃すれば ソ連との間で 第三次世界大戦が起こると懸念し、マッカーサーを解任してしまいました。

 解任され 米国に呼び戻されたマッカーサーは、上院の軍事外交合同委員会というところで 証言しました。この委員会は、米国の軍事外交では 最高の権威とされるところです。ここで 彼は、縷々るる 日本についての状況を述べ、その最後のところで、“Their purpose,therefore,in going to war was largely dictated by security.” 「従って、彼ら(日本人)が戦争に入ったのは、主として自衛のためであった。」と、つまり、安全保障のためであったと、こう 決定的な証言をしたのです。

 何故なぜ マッカーサーは このような証言をしたかとえば、朝鮮戦争を経験し、スターリン や 毛沢東もうたくとう 共産主義者が操る戦争には、どうしても反撃しなければならないということが分かったからなのです。

 実は、彼が述べた この証言は、東条英機が 東京裁判の宣誓供述で述べた主旨と全く同じものであったとされています。東条英機の宣誓供述書というのは、今 ほとんど顧みられませんが、これは当時の日本の実情を一番知っていた立場の人が書いたものであり、一つひとつの嘘も書かれていない重要な文献です。何故なぜ 嘘がないかと言えば、これは法廷文書ですから、嘘があれば 悪意に満ちた検事たちによって、すぐに(あば)かれてしまうからです。

 東京裁判は 日本側の主張など一切無視しましたが、結局 マッカーサーは、東条英機が言ったことを 本当であったと自ら認めたのです。ですから、これからの日本の歴史教育は、「東京裁判史観」から「東条英機・マッカーサー史観」に移らなければならない、と思われるわけです。すなわち、某・宗教団体の総裁でも 大東亜戦争のことを 「日本の侵略」と 自虐的に話しているかたがいますが、歴史事実が明らかになって来た今日、この二人ふたりの歴史観を是非とも伝えなければならないと思われるのです。


 ときに、去る10月5日(月)の「硫黄島」のブログ の下段に、

「(前略)去る8月15日(土)の『終戦の日』のブログ の中段に、

『(前略)去る8月9日(日)の【長崎原爆の日】のブログ の中段に、

【(前略)去る3月10日(火)の〖煮物〗のブログ の冒頭にも、

〖(前略)本日は昭和20年3月10日の東京大空襲の日で御座ございますので、黙禱もくとうさせて頂きました。御承知のように、丁度70年目の年になります。ちなみに、当時、母親は14歳で、東京・市ヶ谷いちがやの大本営の近くに住んでいました。記憶を風化させないように、と思っております。(後略)〗と記させて頂きました。日本の重大なこと、および、一大事で、知っていること、そして、知ってしまったことはぉ伝えさせて頂きますことが使命であると思わせて頂いております。それで、語りがせて頂かなければならないと感じております。(後略)】と記させて頂きました。御承知のように、本日(8月15日)は 丁度70年目の終戦の日で御座ございます。(後略)』と記させて頂きました。

 最後になりますが、この夏からずっと硫黄島のことを記させて頂こうと思って参りました。硫黄島のことは膨大ぼうだいで、しかも、深刻なことで御座ございますので、何から書き始めていいのかわかりませんでした。記し始めてから気が付いたことで御座ございますが、自分が書いているとは思えませんでした。より大きな存在に書かされているような気持ちになりました。このことは、()(まで)、すなわち、この一年間、このブログを記させて頂いて参りまして思っていたことで御座ございますが、今回は、この書かされているという気持ちが更に強かったです。


 去る8月22日に、誠に有り難いことに、読者のかたから、前述の 去る8月15日(土)の『終戦の日』のブログ のコメント1に、

『(前略)【おかあさん】と言いながら断崖絶壁を飛び込んだというくだりでは、涙ぐみました(ノ_・。)(後略)』とのコメントを頂きました。そこで、()ぐに 頂いたコメントの回答をさせて頂き、コメント2に、

『(前略)【おかあさん】と言いながら断崖絶壁を飛び込まれたということを記させて頂きながら、当方も涙がこぼれました。(後略)』と記させて頂きました。ブログを記させて頂きながら、感極(かんきわ)まって涙がこぼれることはよくあることであり、今回もそうでした。重ねて何卒なにとぞ宜敷よろしくぉ願い申し上げます。 (後略)」と記させて頂きました。今年は 終戦して 丁度70年目の年であり、日本の重大なこと、および、一大事で、知っていること、そして、知ってしまったことはぉ伝えさせて頂かなければならないと思われますので 記させて頂きました。ところが、記し始めてから気が付いたことで御座ございますが、自分が書いているとは思えませんでした。より大きな存在に書かされているような気持ちになりました。今回も、ブログを記させて頂きながら、感極(かんきわ)まって涙がこぼれました。


 本日も、最後(まで)ぉ読み頂き、誠にありがとうございました。唯々感謝。(^-^)