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さて、一昨日、去る 昨年の1月30日(金)の「永代神楽祭」のブログ
そして 去る 一昨年の12月4日(木)の「神社参拝」のブログ
で記しましたように、1月29日で 靖国神社に祀られている伯父の祥月命日(御承知のように、一周忌以後の当月の命日のことです)であり、永代神楽祭に参りました。最近では、母親は この日は寒いから行けない とのことで御座いました。以前から 父親は、この日は家に居ます。近年では 家族で一人になりましたが、参ります。午後の比較的後の時間から始まるのです。万障繰り合わせて、毎年 参拝致しております。誠に有り難いことに 親によりますと、cold(英語)(ネガティブ[英語:negative]で御座いますし、お読み下さっている方々に影響を お与えすることの無いように、日本語で綴ることを控えさせて頂きましたが、以前、それではわからない、と指摘を頂きましたので、日本語も併記させて頂きます。小さく記させて頂きます。感冒[俗に、風邪]のことで御座います)をひいているのなら 行かなくていい とのことでありましたが、この日は 特別で御座います。なお、この日は、一日 雨でした。午前中 そして 夜は 霙も降りました。前述の 去る 昨年の1月30日(金)の「永代神楽祭」のブログ
の上段に、
「(前略)伯父は くらいど丸に乗船していて、昭和20年1月29日午前6時30分、台湾海峡でアメリカ海軍潜水艦ピクーダ SS-382 の魚雷攻撃により撃沈されました。(後略)」と記させて頂きました。調べましたら、この数日前の1月25日は 九州では雪が降っています。英霊の方々の御苦労は 計り知れないものがありますが、霙が降って 少しでも 寒さを共感させて頂けたかと存じました。誠に有り難いことで御座います。明治神宮外苑の国立競技場で 出陣学生の「壮行会」がありましたときも、雨でした。因みに、去る 一昨年の10月8日(水)の「親の受診に付き添っていること・1」
また 去る 一昨年の11月9日(日)の「親の受診に付き添っていること ・2」のブログ
のそれぞれ共に中段やや上 そして 去る2月23日(月)の「天皇陛下行幸の君恩に浴して」のブログ
の中段やや下に記させて頂きました 某・ボランティア(英語:volunteer)のサークル(英語:circle)で、高校一年生の春のときに バス(英語:bus)の隣の席に座った先輩から 自分が 最も好きな曲は 「学徒出陣の歌」であると聞かされました。靖国神社に行きますと、必ず この「学徒出陣の歌」の歌詞が脳裏に浮かんで来て 口ずさみます。英霊の方々と共に 歌っているような気持になります。しかも、前述の 去る 昨年の1月30日(金)の「永代神楽祭」のブログ
の中段やや上に、
「(前略)学徒出陣の歌が御座いますが、学徒出陣した戦没学生の方々の手記が記されている感動的な本です。この方は、この本を読んだが、学徒出陣はしたくないとのことでした。現在の日本人の学部生の方々が共通して思っておられることであるか、と思われました。
日本国民にとりまして、護るべきものがある場合の価値観が関わって参ります。日本国民が、国家を愛して国家を護るために戦いました。その戦いという行為は、相手があり 相対的なものであるから、各々の立場の異なる人々によって、その価値 もしくは 不価値をいろいろに評価されるけれども、その戦いという相対的行為の奥にあるところの、日本国民が 天皇を愛し大日本帝国を愛したという、その純忠なる愛の価値は 相対的価値を超えた絶対的なものでありますから、肉体という相対的存在が滅びても、永遠にその愛の価値が滅びることは無いので御座います。(後略)」と記させて頂きました。なお、去る 3月16日(月)の「納豆」のブログ
の冒頭に、
「(前略)母校の、某・理事長に勧められた内科学教室に入局・・・(後略)」と記させて頂きました。この内科学教室の研修医のとき、徒歩で15分位の所に位置していた この靖国神社に 通勤の序でに、誠に有り難いことに 毎日のように 参拝致しました。
一方、昨夜は、午後6時から、東京都品川区の某・ホテルで、母校の医科大学の同期会がありましたが、去る 昨年の1月12日(月)の「父親の付き添い(昨日のこと)」のブログ
、去る3月23日(月)の「沈丁花」のブログ
、去る6月8日(月)の「親の付き添い(昨日のこと)」のブログ
、去る9月24日(木)の「お彼岸の中日」のブログ
、去る11月22日(日)の「父親の付き添い」のブログ
、去る1月5日(火)の「母親の新年会」のブログ
そして 去る1月17日(日)の「同門会・欠席(仏花)」のブログ
などのそれぞれ冒頭 と 去る1月11日(月)の「寝具(成人の日)」のブログ
の上段やや下に記させて頂きましたように 親に付き添い、ならびに、去る12月13日(日)の「望年会」のブログ
の上段に、
「(前略)去る12月4日(金)の『占守島』のブログ
の下段に、
『(前略)今年は 終戦して 丁度70年目の年であり、日本の重大なこと、および、一大事で、知っていること、そして、知ってしまったことはぉ伝えさせて頂かなければならないと思われますので 記させて頂きました。師走に入り、この占守島のことを 今年中に綴らせて頂くことが出来まして 本当によかったです。去る(一昨年の)12月1日(月)の【心療内科学会】のブログ
の下段に、
【(前略)一昨日、すなわち、11月29日(土)夜は懇親会がありましたが、去る(一昨年の)11月23日(日)の〖アロマ・テラピー〗のブログ
でもぉ伝え申し上げましたように、菜食で お酒を飲まないということもあり、周囲に気を使わせることのないように遠慮致し、このブログを記しておりました。お伝え申し上げましたように、高校の同期会のときには同期によるミニ講演会があるとのことでしたが、挨拶の委託もないときには、基本的に遠慮致しております。(後略)】と記させて頂きました。昨日も、同様に忘年会がありましたが、事前に通知を致し このブログを記しておりました。去る1月30日(金)の【永代神楽祭】のブログ
の中段に、
【(前略)同・判事は、他国の裁判官達が、夜、パーティに出席しているのに、一人で部屋に籠って、もの書きをして、日本の子供達に、簡単なわかり易い言葉で申しますと、うしろめたい思いを背負って、荒んでいくのは見逃せないと言って、この裁き(東京裁判)は無効であると語ってくれました。誠に有り難いことで御座います。(後略)】と記させて頂きました。誠に有り難いことに、少しでも、この 極東国際軍事裁判(通称・東京裁判)の印度代表のラダ・ビノード・パール(英語: Radhabinod Pal)判事のような働きが出来ればよいが と思わせて頂いております。
なお、去る3月16日(月)の【納豆】のブログ
の冒頭に、【(前略)母校の、某・理事長に勧められた内科学教室に入局・・・(後略)】と記させて頂きました。また、去る1月18日(日)の【金時人参】のブログ
の冒頭で、その入局した内科学教室の同門会のことを言及させて頂きました。昨日、年に一回の この同門会・新年会の案内が来ましたが、前述の理由で 欠席で通知致しました。
ところで、記し始めてから気が付いたことで御座いますが、自分が書いているとは思えませんでした。より大きな存在に書かされているような気持ちになりました。今回も、ブログを記させて頂き乍ら、感極まって 何度も 涙が零れました。(後略)』と記させて頂きました。(後略)」と記させて頂きました。御承知のように、また、上記で お伝え申し上げましたように、菜食で お酒を飲まないということもあり、周囲に気を使わせることのないように遠慮致し、伺うこと適わず、自宅に居りました。そして、このブログ記事を記しておりました。
勿論、欠席で御座いますので、充分早い時期、すなわち、連絡が来まして すぐの約3ヶ月以上前の消印で連絡致しました。御承知のように、欠席の場合は 先方のことを考えて 早めに連絡すべきこととされていますね。なお、この同期会の同期生には、年賀状で伝えました。
因みに、
永代神楽祭の翌日に この同期会があるということが 欠席の大きな理由でありました。価値観と致しましては、当然 永代神楽祭の方が優先されます。
まず、第一鳥居(大鳥居)をくぐります。すると、大村益次郎銅像が見えて来ます。この写真 と 「説明」を 下に掲載致します。画像を クリック(click)(もしくはタップ)して頂きますと、拡大致します。なお、去る10月24日(土)の「歴史小説」のブログ
の上段に、司馬 遼太郎を言及致しました。同氏の歴史観によりますと、革命期には 思想家、戦略家・行動家 そして 技術者の系譜が存在するとのことであります。幕末の長州藩において、思想家=吉田 松陰、戦略家・行動家=高杉 晋作 そして 技術者=村田 蔵六(大村 益次郎)ということであります。因みに、吉田 松陰のことは、去る5月18日(月)の「一大事とは」のブログ
、去る5月23日(土)の「親の言葉」のブログ
そして 去る5月30日(土)の「寝床に植物を置く・2」のブログ
のそれぞれ上段に記させて頂きました。
大村益次郎銅像
「説明」
大村益次郎 そして 木戸孝允は、東京招魂社(靖国神社の前身)の建立に尽力しました。
そして、また 少し歩きますと、第二鳥居が見えて来ます。この鳥居は、青銅製の鳥居としては 日本一の大きさとのことです。この写真を 下に添付致します。
第二鳥居
この第二鳥居をくぐりますと、左手に大手水舎があります。通常の神社では、手水舎と云います。ここで、参詣者が 手や口を漱ぎ清めます。参拝前に浄めることが出来るのは、ここなのです。そして、神門があります。この神門の 中央の二つの扉には、直径1.5メートルの菊花の紋章が取り付けられています。菊花に因ませていただきますと、去る11月16日(月)の「七五三に思うこと」のブログ
の下段 そして 去る9月13日(日)の「和菊」のブログ
の上段に、和菊の写真を載せました。
話を戻しますが、この神門をくぐりますと、中門鳥居がみえます。前述の 去る 昨年の1月30日(金)の「永代神楽祭」のブログ
の下段に、
「(前略)知り合いの医師から、親戚が宮司であったと伺いました。その靖国神社の写真を、下に掲載致します。靖国神社の撮影は、警備員の前でも、周囲の方々が皆 行っていましたので、それに習いました。それでも、中門鳥居の外から撮影させて頂きました。(後略)」と記させて頂きました。今回も 中門鳥居の外から撮影させて頂きましたので、この写真を 下に掲載致します。因みに、この中門鳥居の素材は 檜です。
中門鳥居
靖国神社・拝殿
この中門鳥居の手前・左手に、英霊の手記が掲示されています。毎月、変わります。参拝する度に、これを撮影します。取り敢えず、今月 そして 4年前の同じ時期 すなわち 去る平成24年2月4日に撮影した 英霊の手記を添付致します。これら以外に撮影した 掲示の写真を掲載致しますことは、割愛させて頂きます。
今月の掲示
去る平成24年2月4日の掲示
中門鳥居をくぐりまして、拝殿で参拝致しました。拝殿の右手に、天皇陛下の御製が掲示されています。前述の 英霊の手記と同様に、毎月 変わります。今月は、明治天皇陛下の御製でした。前述致しましたように この日は 霙が降りましたので、御製の雪の言葉が 一際 身に沁みました。因みに、去る4月5日(日)の「歴史の業」のブログ
の上段にも、明治天皇陛下の御製を引用させて頂きました。また、去る2月23日(月)の「天皇陛下行幸の君恩に浴して」のブログ
の中段、去る2月24日(火)の「歌会始の詠進歌」のブログ
の冒頭 そして 前述の 去る11月16日(月)の「七五三に思うこと」のブログ
の中段にも、昭和天皇陛下の御製を 畏れ乍ら引用させて頂きました。なお、前述のように 警備員に挨拶して、警備員の前で 撮影致しました。この掲示の写真を 下に掲載致します。
明治天皇陛下の御製
前述の 去る 昨年の1月30日(金)の「永代神楽祭」のブログ
中段やや下で 言及させて頂きました 「靖国神社境内にあるパール博士顕彰碑」にも参りました。前述のように ラダ・ビノード・パール判事がして下さった働きを 「パール博士顕彰碑」の前で思うとき、涙が零れました。
それから、参集殿に行きました。前述の 去る 昨年の1月30日(金)の「永代神楽祭」のブログ
下段に、
「(前略)玉串料を奉納致しまして、本殿に昇殿致しました。永代神楽祭では、修祓、献饌、祝詞奏上、戦没者招霊、かずら舞い(神道式の巫女さんの舞い)、玉串奉奠、撤饌 そして 黙禱が御座います。最後、全員に巫女さんから御神酒が振る舞われますが、去る(一昨年の)11月1日(土)の『東ベルリン(旧・東独)』のブログ
の下段に記させて頂きましたように、医者(研修医)になってから、お酒を飲んでいませんので、毎年、通路上の神官 そして 巫女さんの脇を通り抜けて、失礼します。(後略)」と記させて頂きました。参集殿に入るときに いつも ビニール(英語:vinyl)袋を持って行って、その中に 靴を入れて 上がります。すると、今回は 受付から 靴箱もありますよ 言われました。西郷隆盛の教訓がありますので、いつも ビニール袋を持参致しております。機会がありまして 宜敷ければ、この教訓の詳細を記させて頂きます。そして、前述と同様に 参集殿の受付を済ませて、本殿に昇殿致しました。この日の参拝者は、当方を入れて 9名でした。近年、毎年 一人で来ているのは 当方だけでしたが、今年は もう 一人 見えました。両親の分も、記帳致しました。
式次第が進み、戦没者招霊が始まりました。因みに、
このブログ記事の冒頭に、伯父のことを記させて頂きました。実は、当方が生まれたときに、この伯父の生まれ変わりと思われて、漢字は違いますが 同じ名前を命名されたのです。平仮名では 同じですから、読み上げますと 同様なのです。伯父の芳名を読み上げて 招霊がなされますと、自分が 招霊されているような気が致しました。その次に、かずら舞いが始まりました。毎年のことですが、このときは 英霊の方々のことを思い 拝見しているどころではありません。下を向いて 拝見することは致しません。すると、そのときに 閃きました。誠に有り難いことに、大東和戦争では 英霊の方々が犠牲になって、次の日本に繋いで下さった。英霊の方々の お蔭であると思われました。
本殿を後にしまして、前述の撤饌 の品物を頂きます。すなわち、下に それらの写真を添付致します。
受納證
永代神楽祭神饌
神菓
撤下神饌
神酒
以上の品々は、すぐに両親に届けて 報告致しました。
ときに、参集殿を後にして、遊就館に行きました。前述の 去る 昨年の1月30日(金)の「永代神楽祭」のブログ
下段に、
「(前略)遊就館は 次回 入館したいとのことでしたので、無期限で使える入館券を2枚渡しました。(後略)」と記させて頂きました。この渡した方は 次回 遊就館に入ると話していましたので 誰かを連れて来てくれたか、そんなことを考えていました。前述の 去る5月18日(月)の「一大事とは」のブログ
の中段に、
「(前略)三島由紀夫は、自決に先立つ約一ヶ月前の昭和45年(1970年)10月、広島県江田島にある海上自衛隊第一術科学校の教育参考館を訪れています。その折偶々展示されていた、全国から寄せられた戦没者の遺書の中から手に取った一通の遺書を読み終えた三島由紀夫は、声を出して泣いたといわれています。それは慶應義塾大学経済学部から海軍第13期飛行予備学生に志願し、昭和20年(1945年)5月、神雷部隊(人間爆弾「桜花」による特攻部隊)として特攻出撃し、南西諸島方面で散華した某・中尉(戦死後少佐に二階級特進。23歳)の残した遺書でありました。三島由紀夫はこの遺書を読んで、『すごい名文だ。命がかかっているのだからかなわない。俺は命をかけて書いていない。』と語ったと言われています。因みに、この遺書は、現在、靖國神社の遊就館に展示されています。(後略)」と記させて頂きました。この遊就館に行きますと、この遺書も 必ず見ます。および、戦艦大和 そして 同・武蔵の主砲が展示してありますが、その大きさに圧倒されます。機会がありまして 宜敷ければ、この遊就館の詳細を記させて頂きます。遊就館の拝観順路の最後に、記入するノート(英語:note)が置かれています。それで、遊就館を拝観したときには 必ず書いて来ます。今回は、「回天(前述の 人間爆弾『桜花』と同様に、特攻部隊です)を見ました。殉死者は、89名とのことでした。そもそも、問題があったのは 米国 そして 露の方です。初めから、ルーズベルト(英語: Franklin Delano Roosevelt)は 開戦するつもりであった とされています。勿論、このことは、コミンテルン(露語:Коминтерн)(大正8年[1919年]から昭和18年[1943年]迄存在した、共産主義政党による国際組織のことであります。別名は、第三インター・ナショナルです)の謀略もあります。大東亜戦争開戦当時、ルーズベルトの周囲には コミンテルンのエージェント(英語:agent)だらけでした。ありがとうございました。 」と書かせて頂きました。このことは、去る12月4日(金)の「占守島」のブログ
、去る11月14日(土)の「満州のこと」のブログ
、去る11月11日(水)の「今上天皇陛下の お言葉」のブログ
、去る10月5日(月)の「硫黄島」のブログ
、去る8月15日(土)の「終戦の日」のブログ
、去る8月9日(日)の「長崎原爆の日」のブログ
そして 去る4月5日(日)の「歴史の業」のブログ
などにも記させて頂きました。機会がありまして 宜敷ければ、更に この詳細を記させて頂きます。
遊就館を拝観し終わりまして 書籍を見て、ここには、零戦(零式艦上戦闘機)五二型が展示してあります。大東亜戦争初期には 零戦二一型でしたが、零戦五二型の試作機が完成したのは 昭和18年(1943年)4月です。遊就館の中は 撮影禁止ですが、ここでは 皆 写真を撮影っていました。零戦五二型の写真を 下に掲載致します。
零戦五二型の前部
零戦五二型の中部
零戦五二型の後部
零戦(零式艦上戦闘機)六二型の「座席(背負式落下傘用座席)」が展示されていましたので、この写真も 下に添付致します。
零戦六二型の「座席」
ところで、昨日 すなわち 1月30日(土)の「玉川上水・7」のブログ
の上段に、
「(前略)去る1月10日(日)の『母親の左足底 ・続報』のブログ
に記させて頂きました医者から 爪のことで来るように言われたとのことで、昨日 母親は受診しました。足が痛いとのことでした。(後略)」と記させて頂きました。因みに、同じく 去る1月10日(日)の「母親の左足底 ・続報」のブログ
の上段に、
「(前略)案の定 左足底だけではなく、左第一趾(親指)の爪を抜かれるope.(オペ・英語:operation)(手術のことです。以下、ope.と示させて頂きます)をされたとのことでありました。(後略)」と記させて頂きました。この爪を抜かれた左第一趾(親指)に、痛みがあるというのです。
また、同じく 去る1月10日(日)の「母親の左足底 ・続報」のブログ
の上段やや下に、
「(前略)去る12月22日(火)の『親の受診に付き添っていること・27(循環器内科医[女医])』のブログ
の冒頭に記させて頂きましたように、両親の受診に付き添っています。
そのうち、母親の受診に、少なくとも月(約4週間に)2回(普段は、2人の医師に月[約4週間に]1回ずつ受診しています。)付き添っています。今回の皮膚科医の受診も、事前にわかっていれば 付き添うべきであったと思われました。なお、去る10月8日(水)の『親の受診に付き添っていること・1』のブログ
の最後に記させて頂きましたように、母親を守ることは自分の使命の一つであると思っております。(後略)」と記させて頂きました。一昨日 すなわち 1月29日の永代神楽祭の為に 靖国神社に行く日に しかも 直前に、母から この日に 医者に行く と言われたものですから、付き添うことが出来ませんでした。それで、離れていても 遠隔思念で 心より祈っておりました。
本日も、最後迄 お読み頂き、誠に ありがとうございました。唯々感謝。(^-^)