一大事とは | 神産巣日神(かみむすびのかみ)のブログ

神産巣日神(かみむすびのかみ)のブログ

古来、日本では、「愛」と云う字を使わないで、「産巣日(むすび)」と言いました。「むすび」と云う言葉は、「愛」と云う言葉よりも非常に深遠な意味を含んでいるのです。ときに、神産巣日神は「造化の三神」の内の一柱の神であり、獨神(ひとりがみ)で御座います。唯々感謝。

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 さて、高校生のときに、去る3月18日(水)の「親の受診に付き添っていること・10(市内の某・公立Hp.の循環器内科)」のブログ 、そして、去る2月23日(月)の「天皇陛下行幸の君恩によくして」のブログ のそれぞれ共に中段やや下に記させて頂きました、母親から勧められた某・ボランティアのサークルの先輩から、昭和45年(1970年)11月25日の三島事件(みしまじけん)のことにつきまして、あのとき(同・事件から約7年経過していました)、自分は置いて行かれた思いがしたとのむねの内容を伺いました。この三島由紀夫みしまゆきお去る2月14日(土)の「絵本の影響」のブログ の中段やや上に記させて頂きました吉田松陰よしだしょういんなどのように、誠に有り難いことに、国の為に死に場所を得ることが出来れば、という思いが御座ございます。

 ちなみに、吉田松陰よしだしょういんのことは、前述の某・ボランティアのサークルの別の先輩から、中学1年生のときに最初に知らされました。その後、調べましたら、吉田松陰よしだしょういんが30歳の時、高杉晋作たかすぎしんさくてた手紙に、「死して不朽ふきゅうの見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。」と書かれていたとのことです。


 三島由紀夫みしまゆきおは、自決に先立つ約一ヶ月前の昭和45年(1970年)10月、広島県江田島にある海上自衛隊第一術科学校の教育参考館を訪れています。その折偶々たまたま展示されていた、全国から寄せられた戦没者の遺書の中から手に取った一通の遺書を読み終えた三島由紀夫みしまゆきおは、声を出して泣いたといわれています。それは慶應義塾大学経済学部から海軍第13期飛行予備学生に志願し、昭和20年(1945年)5月、神雷部隊(人間爆弾「桜花」による特攻部隊)として特攻出撃し、南西諸島方面で散華さんげした某・中尉(戦死後少佐に二階級特進。23歳)の残した遺書でありました。三島由紀夫みしまゆきおはこの遺書を読んで、「(すご)い名文だ。命がかっているのだから叶わない。俺は命をけて書いていない。」と語ったと言われています。ちなみに、この遺書は、現在、靖國神社の遊就館ゆうしゅうかんに展示されています。


 去る3月21日(土)の「介護」のブログ の上段、そして、去る10月18日(土)の「心身医学会」のブログ の中段やや上に、

「(前略)元・心理療法内科の学会の理事長に依頼されて、某・日本医療心理学院で、早稲田大学やお茶の水女子大学の心理の大学院生に心身医学の講義を行っていました・・・(後略)」と記させて頂きました。この故・元・心理療法内科の学会の理事長(従軍の体験があるとのことでした)によりますと、平成13年(2001年)9月11日のアメリカ同時多発テロ事件の飛行機の操縦者は、世界貿易センター(英語:World Trade Center, W.T.C.)ビルに激突したとき、エクスタシー(英語:ecstasy)を感じただろうとのことで御座ございました。この同時多発テロ事件と大東亜戦争での特攻を同一視(心理学用語)するかたが見えますが、前者は民間人を巻き込んで標的にしたのに対し、後者はくまでも米軍の航空母艦(設備)を標的にしたのであり、明らかに違っています。去る1月30日(金)の「永代神楽祭」のブログ の中段やや上に、

「(前略)日本国民にとりまして、まもるべきものがある場合の価値観が関わって参ります。(後略)」以下のことを記させて頂きました。唯々感謝。(^-^)