占守島 | 神産巣日神(かみむすびのかみ)のブログ

神産巣日神(かみむすびのかみ)のブログ

古来、日本では、「愛」と云う字を使わないで、「産巣日(むすび)」と言いました。「むすび」と云う言葉は、「愛」と云う言葉よりも非常に深遠な意味を含んでいるのです。ときに、神産巣日神は「造化の三神」の内の一柱の神であり、獨神(ひとりがみ)で御座います。唯々感謝。

 このブログ(英語:blog)に御訪問頂き、誠にありがとうございます。
 リンクを()らせて頂いております。紫色のブログタイトルをクリック(英語:click)(もしくはタップ[英語:tap])して頂きますと、過去のブログ記事に移行します。(^O^)


 さて、去る10月5日(月)の「硫黄島(いおうとう)」のブログ の下段に、

「(前略) 日本軍守備隊の最高指揮官は、自決じけつもさせず、万歳突撃ばんざいとつげきも禁止しました。同・最高指揮官は米軍上陸部隊に出来るだけ大きな対価を支払わせ、日本本土への進攻を1日でもおくらせる決意をしていました。この日本本土への進攻をおくらせ、米軍が本土上陸することを先延さきのばしにさせてくれたぉかげで、日本本土にいる女性、そして、子供への、米軍からの殺戮さつりくおくれました。誠に有り難く、大きなことであると存じます。この働きが無ければ、この年の8月15日の終戦を向かえる(まで)に、もっと大勢の同胞である日本人が米軍によって殺戮さつりくされていたかもしれません。(後略)」と記させて頂きました。大東亜戦争終戦後の昭和20年(1945年)8月18日以降にも、占守島(しゅむしゅとう)で 同様のことがありました。占守島(しゅむしゅとう)は 千島列島北東端の島であり、大東亜戦争中は、ソ連との国境に位置する島でした。この占守島(しゅむしゅとう)の日本軍の兵力は、約8,500人でした。去る4月5日(日)の「歴史のごう」のブログ の中段やや下に、

「(前略)大東亜戦争・末期の昭和20年8月8日、その共産化したソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、日本におそかって来ました。(後略)」と記させて頂きました。さらに、誠に 不条理なことに、大東亜戦争終戦後も、ソ連軍は 日本への侵攻を進めました。そして、前述の同・8月18日に、ソ連軍(8821人)は 占守島(しゅむしゅとう)に攻めて来ました。(ちな)みに、 スターリン(ロシア語:Иосиф Виссарионович Сталин)の声明によりますと、これに先立つ8月15日の 日本の無条件降伏を無視したのです。言語道断です。

 当初、占守島(しゅむしゅとう)を防衛する日本軍は、日ソ中立条約を結んでいたソ連軍が 攻めて来るとは思わなかったそうです。どこの国籍の軍隊か 分からなかったとのことです。近くの アリューシャン列島(英語: Aleutian Islands)のアッツ(英語:Attu)島の戦い(日本軍の守備隊は、玉砕)がありましたから、米軍か と思ったそうです。占守島(しゅむしゅとう)の日本軍・守備隊は、大東亜戦争終戦を迎えたので 備蓄していた食料を頂き、本土に戻れると思っていたそうです。そこに、未明、カムチャツカ半島(ロシア語:Полуостров Камчатка)から 約12kmの占守(しゅむしゅ)海峡を渡って、ソ連軍が 上陸して来たのです。それで、陸軍第五方面軍司令部の中将が自衛のための戦いを決断し、ソ連軍を撃破しました。日本側の死傷者約600名に対して ソ連軍は約3,000名以上の死傷者が出たとされています。戦闘は日本軍優勢に推移するものの 軍命により 同・8月21日に 日本軍が降伏し 停戦が成立し、23日に 日本軍は ソ連軍によって武装解除されることになりました。生き残った日本軍の某・兵士によりますと、大東亜戦争終戦のときよりも、このときのほうが悔しかったとのことでした。そして、捕虜となった日本兵は その後 大勢が法的根拠無く 拉致らちされ、日本本土に戻ることなく ナホトカ(ロシア語:Находка)経由で シベリア(英語: Siberia)へ抑留されました。不当に抑留された 同胞である日本人は、約65万人というのが定説でありますが、それ以上という説もあります。スターリンは、戦争で失われた労働力を 捕虜となった日本人で補おうとしました。某・宗教団体の創始者は、スターリンのことを 「無明(まよい)かたまりのような人物(原文通り)」と評しています。日ソ共同宣言を(まと)めた鳩山一郎首相(当時)は 訪ソの前に、「北方領土返還が最大の課題として話題になっているが、ソ連に行く理由はそれだけではない。シベリアに抑留されているすべての日本人が、一日も早く祖国の土を踏めるようにすることが、政治の責任である。領土は逃げない、そこにある。しかし、人の命は明日をも知れないではないか」と語り、シベリア抑留問題の解決を重視する姿勢を示しました。昭和22年(1947年)から日ソが国交回復する昭和31年(1956年)にけて、抑留者・約47万3000人の日本への帰国事業が行われました。しかしながら、厚生労働省把握分と致しましては、抑留者全体の1割にあたる約6万人の死亡者を出しました。最長で 11年も抑留された日本人も居ました。全く 悪逆非道の所業です。これが、戦争なのだ と言う人もいます。東郷茂徳外務大臣(当時)は、後世の日本人に向けて 「負ける戦争をしてはならない」とのむねを伝えています。なお、去る11月14日(土)の「満州のこと」のブログ に、満州のことを記させて頂きました。満州開拓団避難民の悲劇は 筆舌に尽くし難いです。ソ連人が 同胞である日本人婦女子におこなった行為は、鬼畜よりも劣ります。また、いまだに 中国残留日本人の問題もあります。なお、近くの某・大学には、この中国残留日本人を支援するサークル(英語:circle)があります。他方(たほう)、約5年前、ソ連の圧力に(くっ)して 葬り去られて ずっと公開されなかった映画「氷雪の門」が 36年越しに公開されまして、早速 見ました。この映画には、樺太からふとの真岡郵便局の電話交換嬢たちが 決死隊として職務を遂行した姿が描かれています。映画の最後に、この電話交換嬢たちが 自決用の青酸カリを服用します。前述の占守島(しゅむしゅとう)では、缶詰工場で 約400人の女性たちが働いていました。幸いなことに、船で この女性たちは、北海道に逃がされました。案の定、占守島(しゅむしゅとう)を占領したソ連人たちは、島内の女性たちを捜し回ったそうであります。

 歴史的には、安政2年(1855年)、日露和親条約で 千島列島の択捉島えとろふとう得撫島うるっぷとうの間に国境線が引かれました。また、樺太からふとロシア語:Сахалин:サハリン)においては 国境を設けず、これまで通り 両国民の混住の地とすると決められました。その後、両国民が住んでいる樺太からふとでは、トラブル(英語:trouble)がありました。そのため、明治8年(1875年)、樺太からふと・千島交換条約によって、 樺太からふとでの 日本の権益を放棄する代わりに、得撫島うるっぷとう以北の千島18島(北千島列島)が 日本に譲渡されることが決められました。さらに、明治38年(1905年)、ポーツマス条約(英語: Treaty of Portsmouth)によって、樺太からふとの南半分が 日本に割譲されました。よって、占守島(しゅむしゅとう)は 国境の島だったのです。お気付きのように、北方四島(南千島列島)は 歴史上 日本の固有の領土であり、以上の条約におきましても 常に 日本の所有だったのです。サンフランシスコ条約締結以来、不当にも、この北方四島(南千島とも言われます)の領有権の帰属は 未確定でありますが、いまだにロシアの実効支配下にあります。 ロシアと平和条約を結び、北方領土問題が解決したら、北千島列島を ロシアのものとして認めるということが 日本の立場・主張のはずです。今こそ、北方領土返還運動をするべきであります。以前 父親も話していましたが、過去に エリツィン(ロシア語:Борис Николаевич Ельцин)大統領のときは ロシアは お金が必要でありましたから、多少の援助をして 北方領土を返還させるチャンス(英語:chance)があったので御座ございますがね。

 話を その占守島(しゅむしゅとう)の戦いのことに戻しますが、当初 ソ連軍は この島を 一日で占領する予定でした。ところが、日本軍の抵抗により 六日間 足止めされました。冒頭に 硫黄島(いおうとう)の戦いことを言及させて頂きましたが、この戦いと同様の働きのぉかげで 北海道に侵攻されることがおくれました。スターリンは、北海道を二分割して 北東部(釧路-留萌を結んだ直線以北)半分を ソ連のものにしようと考えていました。あわよくば、北海道全体以上を考えていたかもしれません。御承知のように、戦後、連合国によって 日本を四分割統治する計画があった訳でありますからね。仮に、千島列島と同様に ソ連軍に上陸されて 実効支配されていましたら、少なくても 北・北海道に 日本民主主義人民共和国が誕生していたかもしれません。実際に、ドイツ、朝鮮 そして ベトナムでは そうであったのですからね。なお、去る11月11日(水)の「今上天皇陛下の お言葉」のブログ の中段以降に、

「(前略)戦前の日本が 途中から おかしくなって来たのは、何と言ってもソ連の陰謀が原因であり、それによって 支那しながおかしくなり、さらに 米国もおかしくなって、日本は その(はさ)み撃ちにあった、これが正しい歴史事実です。この事実を述べたのが 東条英機の宣誓供述書であり、マッカーサー(米語:Douglas MacArthur)の証言でもありました。ここで、補足致します。(中略)

 解任され 米国に呼び戻されたマッカーサーは、上院の軍事外交合同委員会というところで 証言しました。この委員会は、米国の軍事外交では 最高の権威とされるところです。ここで 彼は、縷々るる 日本についての状況を述べ、その最後のところで、“Their purpose,therefore,in going to war was largely dictated by security.” 『従って、彼ら(日本人)が戦争に入ったのは、主として自衛のためであった。』と、つまり、安全保障のためであったと、こう 決定的な証言をしたのです。(中略)

 東京裁判は 日本側の主張など一切無視しましたが、結局 マッカーサーは、東条英機が言ったことを 本当であったと自ら認めたのです。ですから、これからの日本の歴史教育は、『東京裁判史観』から『東条英機・マッカーサー史観』に移らなければならない、と思われるわけです。すなわち、某・宗教団体の総裁でも 大東亜戦争のことを 『日本の侵略』と 自虐的に話しているかたがいますが、歴史事実が明らかになって来た今日、この二人ふたりの歴史観を是非とも伝えなければならないと思われるのです。(後略)」と記させて頂きました。なお、去る10月5日(日)の「ボランティア・高尾山登山」 去る1月21日(水)の「ボランティア・高尾山登山・その2」のブログ で、

「(前略)18年間、月二回、日曜日に、・・・ボランティアを、このトップの方々(かたがた)二人ふたりに委託されて、おこなって参りました。そのボランティアで、過日、子供達と父兄を連れて・・・(後略)」とぉ伝え申し上げました ボランティアの男性スタッフ(英語:staff)も、「自虐的」とのことでした。


 ときに、前述の 去る11月11日(水)の「今上天皇陛下の お言葉」のブログ そして 去る10月5日(月)の「硫黄島(いおうとう)」のブログ の下段に、

「(前略)去る8月15日(土)の『終戦の日』のブログ の中段に、

『(前略)去る8月9日(日)の【長崎原爆の日】のブログ の中段に、

【(前略)去る3月10日(火)の〖煮物〗のブログ の冒頭にも、

〖(前略)本日は昭和20年3月10日の東京大空襲の日で御座ございますので、黙禱もくとうさせて頂きました。御承知のように、丁度70年目の年になります。ちなみに、当時、母親は14歳で、東京・市ヶ谷いちがやの大本営の近くに住んでいました。記憶を風化させないように、と思っております。(後略)〗と記させて頂きました。日本の重大なこと、および、一大事で、知っていること、そして、知ってしまったことはぉ伝えさせて頂きますことが使命であると思わせて頂いております。それで、語りがせて頂かなければならないと感じております。(後略)】と記させて頂きました。御承知のように、本日(8月15日)は 丁度70年目の終戦の日で御座ございます。(後略)』と記させて頂きました。

 最後になりますが、この夏からずっと硫黄島(いおうとう)のことを記させて頂こうと思って参りました。硫黄島(いおうとう)のことは膨大ぼうだいで、しかも、深刻なことで御座ございますので、何から書き始めていいのかわかりませんでした。記し始めてから気が付いたことで御座ございますが、自分が書いているとは思えませんでした。より大きな存在に書かされているような気持ちになりました。このことは、()(まで)、すなわち、この一年間、このブログを記させて頂いて参りまして思っていたことで御座ございますが、今回は、この書かされているという気持ちが更に強かったです。


 去る8月22日に、誠に有り難いことに、読者のかたから、前述の 去る8月15日(土)の『終戦の日』のブログ のコメント1に、

『(前略)【おかあさん】と言いながら断崖絶壁を飛び込んだというくだりでは、涙ぐみました(ノ_・。)(後略)』とのコメントを頂きました。そこで、()ぐに 頂いたコメントの回答をさせて頂き、コメント2に、

『(前略)【おかあさん】と言いながら断崖絶壁を飛び込まれたということを記させて頂きながら、当方も涙がこぼれました。(後略)』と記させて頂きました。ブログを記させて頂きながら、感極(かんきわ)まって涙がこぼれることはよくあることであり、今回もそうでした。重ねて何卒なにとぞ宜敷よろしくぉ願い申し上げます。 (後略)」と記させて頂きました。今年は 終戦して 丁度70年目の年であり、日本の重大なこと、および、一大事で、知っていること、そして、知ってしまったことはぉ伝えさせて頂かなければならないと思われますので 記させて頂きました。師走に入り、この占守島(しゅむしゅとう)のことを 今年中につづらせて頂くことが出来まして 本当によかったです。去る昨年の12月1日(月)の「心療内科学会」のブログ の下段に、

「(前略)一昨日おととい、すなわち、11月29日【土】夜は懇親会がありましたが、去る(昨年の)11月23日(日)の『アロマ・テラピー』のブログ でもぉ伝え申し上げましたように、菜食でぉ酒を飲まないということもあり、周囲に気を使わせることのないように遠慮致し、このブログを記しておりました。お伝え申し上げましたように、高校の同期会のときには同期によるミニ講演会があるとのことでしたが、挨拶の委託もないときには、基本的に遠慮致しております。(後略)」と記させて頂きました。昨日も、同様に忘年会がありましたが、事前に通知を致し このブログを記しておりました。去る1月30日(金)の「永代神楽祭えいたいかぐらさい」のブログ の中段に、

「(前略)同・判事は、他国の裁判官達が、夜、パーティに出席しているのに、一人で部屋にこもって、もの書きをして、日本の子供達に、簡単なわかり易い言葉で申しますと、うしろめたい思いを背負って、すさんでいくのは見逃せないと言って、このさばき(東京裁判)は無効であると語ってくれました。誠に有り難いことで御座ございます。(後略)」と記させて頂きました。誠に有り難いことに、少しでも、この 極東国際軍事裁判(通称・東京裁判)の印度インド代表のラダ・ビノード・パール(英語: Radhabinod Pal)判事のような働きが出来ればよいが と思わせて頂いております。

 なお、去る3月16日(月)の「納豆」のブログ の冒頭に、「(前略)母校の、某・理事長に勧められた内科学教室に入局・・・(後略)」と記させて頂きました。また、去る1月18日(日)の「金時人参にんじん」のブログ冒頭で、その入局した内科学教室の同門会のことを言及させて頂きました。昨日、年に一回の この同門会・新年会の案内が来ましたが、前述の理由で 欠席で通知致しました。


 ところで、記し始めてから気が付いたことで御座ございますが、自分が書いているとは思えませんでした。より大きな存在に書かされているような気持ちになりました。今回も、ブログを記させて頂きながら、感極(かんきわ)まって 何度も 涙がこぼれました。


 本日も、最後(まで)ぉ読み頂き、誠にありがとうございました。唯々感謝。(^-^)