1.勝手な読み取り
引用
コスモス
倉庫の深いひさしのしたで蜂がぶんぶん出入りしている
ホテルを出て浜に向かうと海が道へあふれてきた
浜辺でおはようと行き違う人に声をかけたが
じぶんが言ったのではない気がした
ゆっくりと揺れる海に 一輪のコスモスが海と空の境界を行き来している
ヴェールを剥ぐように(わたしは)死へ誘われているのであろう
古びた船小屋の壁に掛けたロープ
はがれたコンクリートの道に記念碑のように置かれた錆びた錠の肌に
灰色の蛾が止まっていた
向こうから漁師らしい老人が歩いてくる
作業服で よれよれの日除け帽子で 黒い長靴を履いて
少し曲がったたばこを吸っている
「あれは あんたには 何に見えるかね」
かれは海の もっと向こうをさすように指を
道と平行にのばして言った
指の先に 赤いブイがゆれている
そのときかれは(わたしの)見知らぬ祖父の影だったのかもしれない
(わたし)自身だったかもしれない
生まれるとは そのほうへ誘われることだ
誘われ 誘われる道筋に 白い鳥が遊んでいる
こ港の町は(わたしに)見つけられるのを待っていたようだ
わたしが見つけられるのを待っていたように
生まれたときから おたがいに属していた と いま 言える
(わたしを)見つけてくれて 感謝しているよ
と がらんとしたロビーの古びたソファーにすわってつぶやいた
そこは〈かもめホテル〉と呼ばれていた
(わたしに)似合うように だろうね
ほんとうの名は知らないが
木澤 豊 詩 詩集 『かもめホテル』
発行者 村松 信人 発行所 澪標(みおつくし) 50~52頁
詩(poem) にたいして、分析、分解的な解釈は邪道と指弾されるべきだろうと思います。元来詩は、作者のイマージュに溶け込んで読み手の感性をくすぶるもので、言葉の持つ「背景」を具体化するのは作者に失礼である。
とは言うものの、わたしにも読み方がある。木澤先生に失礼とは思うが、わたしはわたしなりに自分の記事の読者にわたしの勝手な読み込みを、また木澤先生の詩の持つ魅力を伝えたい。そう考えることは誤りではないと思う。
コスモス
倉庫の深いひさしのしたで蜂がぶんぶん出入りしている
ホテルを出て浜に向かうと海が道へあふれてきた
(この詩は対比されているそれぞれの対比の両項の象徴として意義を持つのは、「上」と「下」を分かつ「水平線」や「地平線」、または「日常」と「非日常」というひとの存在の「境界」と思われる。現世の地上生命は、日陰を求めて地平線の上の「ひさし」の下で生きようつくす。蜂が「ぶんぶん」と生きようとする意志を、第一行にあらわすが、見上げたひさしという視線の角度を、反対の下に向けると「海が道にあふれてきた」と、詠み、「生命たる蜂」の「動」が、無機物たる「海」に視点を移す。読み手の視線を変える手法である。)
浜辺でおはようと行き違う人に声をかけたが
じぶんが言ったのではない気がした
(声を掛けた「主語」は隠された「わたし」で、「声を掛けようとする」意志はあった。つまり「浮世」に関わろうという意思をどこかで持ちつつも、その関わりから離れていたい心境を主語の省略で示す。次の行には、主語を敢えて「わたし」と示さず「じぶん」というひらがなの自己を持ってくる。)
ゆっくりと揺れる海に 一輪のコスモスが海と空の境界を行き来している
(「コスモス」は「蜂」につづいて登場する生き物だが、蜂と違って躍動感がない植物で、しかし美しさを秘める。その「一輪」=群生を特徴とするコスモスを「一輪」と表現して「個」をそれとなく暗示する。「ゆっくりと揺れる海=揺れるという動詞が世間の波風を、つめたい視線で捕らえている自己の心持を示す」のである。「コスモス」は「じぶん」で、「海」=死と「空」=生の「境界」を行き来している。)
ヴェールを剥ぐように(わたしは)死へ誘われているのであろう
(「ヴェールを剥ぐように」衣服を脱ぎ捨てる。ボタンをはずしベルトを緩めるような手間をかけることなく容易に身体をさらし、海に入っていける、そんな簡単な手順で一瞬に死に入ることができる比喩として語られている。死への意思ではなく、無意識に吸い込まれる主語「(わたし)=括弧付」は「誘われる」意味上の目的語として、受動態の文体に置かれている。が、by以下、つまり「何」に誘われるかはここでは隠されている)
古びた船小屋の壁に掛けたロープ
はがれたコンクリートの道に記念碑のように置かれた錆びた錠の肌に
灰色の蛾が止まっていた
(漁(りょう)は日常の「動」であって、ひとびとの営みだが、その大切な道具=ロープは今は「静」にあって躍動しない。壁にかけられているだけで、「動」はイメージの向こうにあるだけだ。「はがれた」「記念碑」とは「静」にいたる過去からの時間の長さを象徴し、「錆びた錠」をあければ、死の世界としての「海」に近づくことができるが、三番目の生き物「蛾」がその錠に触れる事を躊躇させる。蛾は擬態して「静止」しているが、その擬態を見抜いて錠に触れる事をためらわせる。ここで躊躇させた主語はやはり擬態に気づいた「わたし」でこれも隠すように詩の言葉に婉曲されている)
向こうから漁師らしい老人が歩いてくる
作業服で よれよれの日除け帽子で 黒い長靴を履いて
少し曲がったたばこを吸っている
(「向こうから」という方向の基点を示さず、言わば「向こう」とはこの詩の世界が表現する「わたし」にとっての「向こう」で十分である、と感覚する読み方が求められる。2文字のスペース(文字の空白)を置いて海への扉の錠を開ける前に自分の意識が、「死」を考えずひたすら日常の労働にいそしみ、つらい漁=労動に生きるために「作業服」「日除け帽子」「長靴」の曲がった「たばこ」を纏う(まとう)「漁師」に向けらられる)
「あれは あんたには 何に見えるかね」
(ここで「わたしは」はじめて他者のコトバを聞く)
かれは海の もっと向こうをさすように指を
道と平行にのばして言った
(視線が海という「下」に向けられていたアングルを少し「水平」に「道と平行」に、指された方へと向けられる。)
指の先に 赤いブイがゆれている
(ブイは海に浮いているものであり、空の空気が海に押し込もうとする力と、浮かせようとする海の圧力との間(水平線)を漂い、上下する。この迷いの物象こそ「さまよい」であり、この迷いに対する心証こそ「さすらい」である、と筆者たるわたしは思う。)
そのときかれは(わたしの)見知らぬ祖父の影だったのかもしれない
(わたし)自身だったかもしれない
(「かれ」が「わたし」の「見知らぬ」縁者で「わたし」に助言してくれた「他者」なのか、はたまた「わたし」の中のもうひとりの「わたし」である「他者」なのか、その結論を出すことにさしてこだわっていない、執着していないがゆえに「かもしれない」という仮定法をつづけている。しかしどちらにしても、ひとつの結論めいたものが示される。)
生まれるとは そのほうへ誘われることだ
誘われ 誘われる道筋に 白い鳥が遊んでいる
(ここではじめて「わたし」の終着点として、SVC構文で語られる「誘われることだ」という地平に至るが、「そのほうへ」の代名詞「その」が何を指すか直接語られていない。が、あえて言えば4行目の「死」を指すが、そこから詩のコトバが13行尽くされて、内実としては、むしろ「死でないほうへ」とするほかない。詩人がここでそれをコトバ化せず代名詞で暗喩する意味は「生のほうへ」とは表現したくない気持ちが込められているからだと思う。「生」は「死」を含む「生」であり、そこに「境界」を感じるのは「死」に向き合った時、すなわち「死」が「生」を包みこむ時に限られるという思いである。「誘われる」という受動態は、「生」を与えられたものと気づかされる一瞬である。「誘われる」水平線の祖父かもしれない見知らぬ「わたし」が指し示した「道筋」に「誘う」主語たる、4番目の生き物「白い鳥」が戯れているが、「遊んでいる」という現在進行形 present continuous が生業(なりわい)の時間進行に立ち戻させる。)
こ港の町は(わたしに)見つけられるのを待っていたようだ
(わたしが)見つけられるのを待っていたように
生まれたときから おたがいに属していた、と いま 言える
(こうして「一輪」のコスモスは、人々との営みを共有する「群生」の「コスモス」に還って行く。主語の「町」に「(わたしに))」「見つけられる」という受動態の意味上の主語につけられた括弧は、受身構文の by 以下の意味上の主語だが、無生物主語である「町」が人を待つという非現実はありえない。よって括弧は、「わたし」の主観的な思いとして、「待っていたようだ」と詠うことによって、また、たまたまこの「町」を見つけた主語たる「わたし」が、この町にとって本来何の関わりもない者であることを示す。この両者が「わたし」の思いとしては「うまれた時から」存立していたことに気がついた「わたし」を、浮き世との共生に復帰させる。「いま 言える」は到達点なのであろう。
(わたしを)見つけてくれて 感謝しているよ
と がらんとしたロビーの古びたソファーにすわってつぶやいた
そこは〈かもめホテル〉と呼ばれていた
(わたしに)似合うように だろうね
ほんとうの名は知らないが
(詩を通して変化していく「わたし」の思いの着地点を確信して「感謝」しているよとさらりと詠う。ホテルの本当の名前はどうでもよく、しかし「わたし」にとっての「白い鳥」が「かもめ」であることを明かして、「(わたし)に似合うように」「わたし」はそのホテルを〈かもめホテル〉と呼ぶ。この最後だけ括弧は、やま括弧=〈〉が用いられている)
2.意識下の「死」
「死」
この詩の前半にあるのは死への決意というものではない。主語のわたしが「死のう」と思っている、「自殺」を考えているという「わたし」の存在を感じさせはしない。
しかし。
死と生の端境をぼんやりと輪郭なく彷徨い、「死に憧れ」つつ「生への執着」するという矛盾した事実がわたしたちちの日常をオブラートに包んでいる。「生か死か」という大上段の判断を迫られること無く「生か死か」ということが問われ続けているはずの日常(圧力を受けつつそれ)に「背を向けている」わたしたちの現実を説明する。わたしたちの日常は「生か死か」という土壇場に追い込まれてはいない、と感じている錯覚にある。
この詩を初めて読んだときの第一印象は、漠然とした「虚しさ」と「混沌」と「幸福」が静けさに徐々に解けいる(溶けいるではない)ような感覚であった。
結局わたしは自称哲学者なのだ。詩人としての才能はない。ここまで読んだ詩を分解して見せて、こういう読み方しかできないと自分の詩の才能の無さをさらけ出しているようなものだ。これ以上この詩の内容については語るまい。
一輪のコスモス焦点をあてた写真家の作品は、群生という本来のコスモスの生態を逸脱し、
一輪の他者たる群生のピントをぼかして、「個」としてのコスモスに焦点を当てて際出させるが
別の写真家は、群生の背景の海に焦点を合わせて、
群生コスモスの咲き乱れを写し取って、孤独を感じさせない。
写真を見る側は広がりと奥行きに溶けるがごとく、自己の孤立を解消するが、
群生のコスモスの一輪一輪はピントがぼけていて、
個は他者との共生によってしか美しさを放てないことを暗示する。
自己主張は他を後景に押しやり、己の美しさだけを表現するが、
自分の美しさを薄めて他の美しさを承認し、他の中で自己を埋没させることで、
他者とともに、個の美しさを最大限生かす、個では実現不可能な世界を実現する。
このような「群生」のコスモスの「個」の「共生」への解消こそ、
「個」の自己実現である。
このことの理解こそ人間「共生」への憧れ(あこがれ)としてある。
しかし、こういう読み方が良いか悪いかは別として、この木澤先生の詩とは離れたところで、詩を読むにあたってのわたしの思考についてあらためて考えることは無駄ではあるまい。
「勝手な読み取り 後篇」に続く