オスティナートの結実 | コリンヤーガーの哲学の別荘

コリンヤーガーの哲学の別荘

30年温めてきた哲学を世に問う、哲学と音楽と語学に関する勝手な独り言。

 最初に、

 

 お断わり

 

 この記事は、1.序に変えて 2.予備知識 3.スコア その① 4.構成、5.スコア その② 6.録音をめぐって 7.結語 で構成されているが、5.の原稿の再検討と記事の字数が1万を超えそうなので、5.スコア その②の後半。と6.録音をめぐって の一部を省略し、次回記事とさせていただきます。通して読まれる方は順番にご注意ください。

 

 

 1.序にかえて、音楽史の過程にみる変奏曲の変遷 

 

 ひとつの旋律を展開する手法としては、変奏曲、フーガ、カノンなどがあり、ソナタ形式の展開と違って全曲が主旋律(動機)に支配される。バロック以来ののフーガや変奏曲は、転調、拍子変化を伴うものとして発展してきた。

 

 引用

 

 オスティナート

 

 主にバスに現れる特定の音:型を、楽曲全体を通じて、あるいはまとまった楽節全体を通じて、同一音声、同一高音で、たえず繰り返すことをいう。この手法は、かなり早くから現れね13世紀のモテット《Amor potsest conqueri》(譜例1)https://youtu.be/lV3sKmO1baAのテノール精声部にみることができる。もっとも名高い例は、14世紀イギリスののカノン《夏は来りぬ Summr is incumein》https://youtu.be/lz6KmXS1yMk?t=21 ://youtu.be/lz6KmXS1yMk のバス声部に、〈ぺス pes〉として追加されているもので、ここでは上4声が《Summernr》の旋律によるカノンを展開する間、バスは(譜例2)の音型によるオスティナートを、2声のカノンとして歌う二重カノン形をとっている。オスティナートは、しばしばバスに現れ、それはとくに→〈バッソ・オスティナート〉または〈グラウンド〉と呼ばれる。しかし他声部に現れることもあり、フレスコバルディの〈Capriccio sopra il cucco〉 https://youtu.be/InlIKW5WQ1A?t=21 〈ソプラノ・オイティナート〉の例である。16世紀には、オスティナートの手法は、舞曲にしばしば用いられて、リズムの強調に役立てられている。20世紀に入っても、この手法はヒンデミット、バルトーク、ストラヴィンスキー、オルフ、メシアンによって愛用されている。ジャズでいう→〈リフ〉もオスティナートの一種である。

 

『新音楽辞典』 音楽之友社  71頁

→は同辞典に項目として記述がある

譜例は省略

 

 成立時当時のオスティナートは転調もなく、主旋律が支配的でああるが、これがフーガや変奏曲の原型であろう。これら上記の作品は中世の雰囲気をもつ素朴な音楽だが、グレゴリオ聖歌初期のモノフォニー時代と違って、音楽に奥行きを持たせようとする意図が認められ、徐々にバロック以降の形式の発展を予感させる。

 ただ、この転調や拍子変化のない単純な構成を超えつつ保存する努力も続いたということに感謝しなければならない。。

 

 引用

 

 シャコンヌ

 

 バロック時代の重要な器楽形式であった変奏曲の一種。元来メキシコからスペインに渡来した舞曲であったが、イタリア、ドイツで器楽形式として発展を見せた。3拍子の荘重なリズムを特徴とする。変奏の技法には4小節または8小節の和声定型を設定した(たとえばⅠ-Ⅱ-Ⅲ-Ⅳ、両端は確定的であるが内側の音は変更可能)その反復の枠組の中に楽曲の統一と変化を作り上げるものと、一定の旋律の反復→〈バッソ・オスティナート〉を設定し、他の声部が体位的変奏を受け持つものと2種類あるが、バッハはその区別を→パッサカリアとの楽種の区別に用いているが(無伴奏ヴァイオリンのためのバルティータ第2番のシャコンヌ、https://youtu.be/sU9lrF4h52w  オルガンのためのパッサカリアニ短調)、両者には文献的にも用例的にも本質的な区別はつけにくい。

『前掲』 263頁

 

 音楽の構成が複雑化する中で、むしろオスティナートのような素朴な音形の繰り返しを保ちつつ、展開を拡張するのは簡単ではなかったし、ベートーベンやモーツァルトも幼少期に練習したであろうバッハやヘンデルの楽曲は、彼らがただ音楽を知るということにおいて学んだにとどまらず、天才たちの中で音楽史が刻まれて行く過程を見る思いでもあったといえよう。

 

 パッサカリアもまた、調性の固定、旋律、動機の固定という全曲を支配する一種の変奏曲形式だが、変奏曲よりも、より厳密に固定されている。

 

 パッサカリア

 

 テーマを なおかつ全曲をそのような統一と支配を感じさせないロマン派作品に仕上げるには並大抵の才能では不可能である。そういう作品をひとつ取り上げたい。

 

2.予備知識

 

 ブラームス 交響曲第4番ホ短調 作品 98 第4楽章 「パッサカリア」

 

           作曲  ヨハネス・ブラームス 交響曲第4番ホ短調 作品98

           初演  指揮 ブラームス 演奏 マイニンゲン宮廷管弦楽団  1885年10月25日

           編成  フルート2 (ピッコロ持替=第3楽章のみ)

                オーボエ2

                クラリネット2 (A管 第3楽章のみC管)

                ファゴット2 コントラファゴット1

                ホルン4

                トランペット2

                トロンボーン3

                ティンパニ1

                トライアングル1(第3楽章のみ)

                弦楽5部

                                 

 

  3.スコア その①

 

ブラームス 交響曲第4番 ホ短調 作品98 第4楽章 全音楽譜出版社 147頁

 

 第4楽章の弦を除くトゥッティが全曲を支配するパッサカリアの主題で、前掲の『辞典』のオスティナートの説明にあるように、8小節のテーマである。(ただしこの作品では、各変奏での一部でアウフタクト処理による繋ぎがあって、7小節になることも9小節になることもある)ここではフォルテ指定されていて、E-F#-G-A-A#-H-↓H-E (注 ドイツ語式なので「シ」はH、BはH♭である)の3/4の全音のみの音形である。このフォルテの扱いが大変困難である。が、演奏においては、こういうテーマは大げさな起伏を排除するもので、ほとんどの指揮者が感情移入せず、冷たく客観的に演奏する。

 ここでこの8音が1小節づつ割り当てられてスラーが附いていないことから、テーマの音形を聴き手に植えつけるよう演奏すべきことは明らかで、分断されない全音で演奏すると、この作品の3/4という拍子の最初の8小節では、聴き手には掴み取れない。このスラー無しの扱いには指揮者によってはスラーを想定したような演奏もある。

 

 

148~149頁

 

 9小節目から第1変奏だが、四分音符と8分音符8分休符と4部休符の音形で、6/8の舞曲的背景を提示し、3拍子を予感させながら、2/4の2拍目の強調を予感させる。それは第2変奏のアウフクタクトを第1変奏の8小節目(全体17小節目)からフライング気味に始まりつつ木管がカノンへ誘うフレーズを奏でる。この第2変奏は、動機の

  副主題  E-D-C#-A-H-C-D-H-↑A-G-F#-D-F#-G-F#-E-G-C#-D#-↑A-G-F#(第3変奏第1小節目の1拍目「E」で解決)

と主題を下降音形と上昇音形の複合折り合わせに展開して、調整は記譜上の主調ホ短調が維持されたままイ短調との間をさまよう転調しない(研究者の中では「サブドミナントの優位」として冒頭の和声をイ短調とする見解がかなり主張されているが、わたしはそれはロマン派音楽の揺らぎと思っている。テーマの関係調への「飛躍ではない」のではあるが、関係調との「不可分性」がしのばせてあって、バッハの技術の踏襲である。

 オーボエとクラリネットの主旋律はホ短調だが、それに添えられる重唱のセカンドはC#を含み、イ短調の内実を示しつつホ短調に還る自然な音形である。

 

同主調 (I)

ホ長調
平行調 (III) ト長調
属調 (Vm) ロ短調
属調平行調 (VII) ニ長調
下属調 (IVm) イ短調
下属調平行調 (VI) ハ長調

 

ホ短調の関係調の一覧

 

 

150~151頁

 

 第3変奏、ここでは3拍子の、強-弱ー弱のがスタッカートとアクセントで強調される。後半4小節で唯一Es管ホルンがシンコペーョンを刻み、C管ホルンが1小節遅れて同じリズムを刻むリズムのズレが一瞬顔をのぞかせる。

 第4変奏は、動機がバス(チェロ、コントラバスとファゴット)に移行し、第1ヴァイオリンが主題をスキップするように上下に躍動する。

 第5変奏は8部音符の、最初の半拍休符のアウフタクトで始まる上昇音形(5小節)下降(3小節)のアルペジオ風のパッセージであるが、この上昇と下降は木管の逆行で中和されて奥行きが吹かされる。第2フルートと第2クラリネットは、8部音符の1拍2音に対して、1拍3音の三連符のズレを背景で静かに進行して、構造物のような空間を誘う。

 

 

 

152~153頁

 

 第5変奏にホルンが加わり、重層感が少し増す第6変奏は、第5変奏の5音アウフタクトから半音アウフクタクトに移行する。第5変奏の8小節目(全体48小節目)の最後の8部音符と次の第6変奏の旋律は、スラーでつながっていないが、これがバロック以来の変奏の受け渡しで、第6変奏2小節目以降で、半音アウフクタクトは明確である。

 

 

154~155頁

 

 第6変奏後半4小節の起伏は、第7変奏のよりリズミカルな1/4拍のアウフクタクトの前兆としてあって、第7変奏は鋭さを伴いながら後半の下降ではリズムが縮小されて一旦解決する。

  第5から第7変奏においても、ファゴット、コントラファゴット、コントラバスなどのバス群にE-F#-G-A-A#-H-↓H-E(動機) は維持されている。ただしその奏法は、四分音符単音、アルコ、不規則リズムの分散和音と変化する。

 第8変奏の前半の4小節は、第5変奏以降の加速をさらに早め、16分音符のパッセージで曲想は激しさを増す。チェロとコントラバスに維持されている最初の動機がこの作品の骨格の由来がオスティナートにあることを改めて知らしめてくれる。また3拍子の舞曲としての拍の移動を、2小節目のバスの2拍目のsF (スフォルツランド)によって支えられていることも特筆される。

 

 

 156~157頁

 

 第8変奏の後半4小節は、第2拍のfp(フォルテピアノ)指定で急激に静寂に向かう中で、フルートが動機の音順並び替えの下降旋律をディナーミグ指定の僅かな減速を表わす。このディナーミグは「テンポの無機的な前進」に制限を加える減速指定で、リタルダンドのようなはっきりと分るものでも、指揮者の主観によるアゴーギグではない。記譜上はインテンポで、1小節のなかのどれかの拍を長くして強調するようなものではない。

 一見収束に向かうように感じさせるが、フルートの下降が半音階的で不安を醸し出すのは、つづく第9変奏でのさらなる激しい主題展開をドラマティックに演出する兆候を兼ねている。

 第9変奏の前半2小節は、16分音符に添える6連符の上昇である。この6連符の開始音の音程は、第1小節目が「E」第3小節目が「G」で、前変奏の最初の音程「H」で、ホ短調の主和音である「E-G-H」を横に分散して、低音から徐々に高音へ開始音を移してクライマックスを演出する高度な和声構造を成す。

 

158~159頁

 

 第9変奏後半は、再び木管の半音階的下降だが、第8変奏のフルートの下降と違い、今度は一段の収束を確信させる。ただしこの動きの解決は、つづく第10、11変奏を経て、第12変奏の1拍目に託される。

 

 

160~161頁

 

 第10変奏 第11変奏の推移部は、 接続する動機(オスティナート)とスキップする動機を体現する。

 第10変奏は、弦と木管の掛け合いの静寂だがE-F#-G-A-A#-H-↓H-E(動機) は、主題の後半のモチーフの半音から入っているようで、チェロは、最初の4小節で「E-F#-G-A」を影で支えるように奏で、後半の第1小節目でビオラが唯一「A#」を担当するが<ここにクレッシェンド-デクレッシェンドのタイで結ばれた4拍を静かに強調し、第3小節第1拍目の「A#」が終了しない響きの中に、第1ヴァイオリンのただ1拍の「H」に引き継がれるが、再コントラバスが「H-E」添えてホ短調に解決を見る。一種の「リレー」であり、背景に込められた接続に意味がある。

 第11変奏は、三連符のリズムに符点休符を織り交ぜたヴァイオリンとフルートの高音に、チェロが動機を維持する。

 

4.構成

 

 ところで、161頁の第11変奏の最後の小節の後に置かれた、複従線の小節区分(通常。小節区分は単線だが、複縦線は音楽の1段の終わりを示す)は、この作品の第4楽章の構成にかかわっている。

 

ブラームス 交響曲第4番 ホ短調 作品98 「解説」

全音楽譜出版社 21~22頁

 

 一見、ソナタ形式の「提示部」ように、「主要主題」(動機と第3変奏まで)と「副主題」(第4~9変奏)とあるが、根本的にソナタ形式と違う点は「提示部を貫いて動機が失われることなく貫徹しており、主要主題と副主題は、「ソナタ形式の第1主題、第2主題」とはまったく性格を異にするという事である。提示部の一貫性は明らかで、副主題部はこの「解説」にも指摘があるように、「動機のサブドミナント的展開」であって、ソナタにおける、「第1主題とは別の「第2主題を提示する」というものではない。第2変奏の「副主題」E-D-C#-A-H-C-D-H-↑A-G-F#-D-F#-G-F#-E-G-C#-D#-↑A-G-F# の提示の背景にチェロとコントラバスの動機E-F#-G-A-A#-H-↓H-Eが響く。

 展開部の始まりの部分は、「再現部」のように聴こえる。この作品はたった8音に支配されていることが、ブラームスがみずからに与えた「試練」で、この部分が「展開部の始まり」という先入観なく聴けば違和感はない。むしろ全音スコアの解説の表にある193小節目以降を「展開部」とする区分には、その直前の192小節目の最後にブラームスが複縦線を書き入れていない事からも疑問の余地が残る。むしろ「展開部」と「再現部」は一体と考えたほうがよいのではないか。

 

5.スコア その②

 

 

160~161頁 その2

 

 第12変奏は、構成としては「推移部」であるが、フルートの独奏の旋律は動機の変則変形である。3/2拍子への移行は、音価を倍加して実質の「緩徐楽章的」テンポへ聴き手をそれとなく連れ出す。

 

 

 

 

162~163頁

 

 第13変奏で、同主調のホ長調に移る。木管の旋律にの掛け合いに添えられる低弦の8分音符の上昇アルペジオは、3/2拍子を保ちつつ少しリズミカルな速い動きを示す。

 第14変奏は、トロンボーンとファゴットのコラールに引き続き低弦の上昇アルペジオが掛け合う。コラールは主題動機のホ長調への移転かつ変形である。

 

164~165頁

 

 つづく第15変奏でコラールに木管が加わり、弦の上昇音形は、ヴィオラの下降音形と一体となりより厚みを増す。このコラールの最後の小節でフルートの下降は、続く管楽器のトウッティによる主題動機のf=フォルテによる全音合奏およびホ短調回帰の前兆で、ここで初めてブラームスはこの楽章で rit リタルダンドとフェルマーターを用いている。テンポ変化のすくない作品の中では一際目立つが、ここがすなわち分岐点である。

 

 

166~167頁

 

 第16変奏は、全音スコアの解によれば、展開部の始まりである。3/4に戻って速さが戻ってくる。動機の最初の4音に続いて弦の下降は、前小節のフルートの音形の発展形態で、ここで、E、に帰結せず、つづく第17変奏で、動機の音形をつかってかつ音順を解体して入替え、第18変奏で向かって cresc クレシェンドして主題動機が前面に帰ってくる。

 

以下、「オスティナートの結実 その2」に続く

 

6.録音を巡って

 

 私見のまとめとして、ここで述べることはあくまでも個人的な好みだとことわっておきたい。この作品はドイツ音楽に精通しつつ、東欧の弦楽器の軟らかさを愛する東欧出身の指揮者に名演が多い。ベームやワルター(ユダヤ人だが)などのドイツ系生粋組のパッサカリアは無骨すぎるというか、ベートーベンの自由を追う自在な音形を「ドイツ的」形式に仕上げることにこだわっていて、少し融通がきかない。ベートーべン演奏ほど解放されている(音楽に魅せられている)のではないが、ブラームスがなぜこの作品の終楽章に「パサッカリア」を採用したかを前提としないといけない。

 

カール・ベーム 指揮  ウィーンフィルハーモニー管弦楽団

 

ブルーノ・ワルター 指揮  コロンビア交響楽団

 

 カラヤンは己の道を行っていて「リテヌート奏法」に徹して、パッサカリアの原点たるオスティナートの素朴に還る気持ちがない。彼のヘンデルの合奏協奏曲を聴けば、今日のピリオド楽器全盛にあって、「音を続けすぎ」で「スラーによる連結」が美しくはあるが、この作品もヘンデルもはそういう事を求めてはいない。第1楽章の出だしの「ため息の旋律」も第4楽章の最初のテーマ提示部も音の繋げすぎに納得いかない。

 フルトヴェングラーも己の道を行く。練習番号F以降の徐々に加速するアッチェルランドはこの作品にはふさわしくない。高速テンポを望むならクライバーのように最初から「高速で押し通す」方法論が正解と思う。

 

ヘルベルト・フォン・カラヤン 指揮  ベルリンフィメハーモニー管弦楽団

 

 

 

 結局ウィーンも中欧の先進であって、周辺にベートーベンの描く田園風景は残されていたけれど、それらは大都市と密接に結びついた「田舎」であった。

 

 19世紀後半から20世紀初頭のハンガリーやチェコの「田舎」は、まだ17世紀のバロック以前の生活が残っていて、水道も電気もなく、川の水を汲み、ランプや蝋燭で夜を過ごしていた。そういう環境が身近である指揮者にとって、村の祭りの歌声(オスティナートが響く)の素朴さを引き出すめの方法とは、旋律を歌い、和声を維持固定し、奇をてらったテンポ変化や強弱を避けて、音楽にかかわる悦びを忘れない感覚が染み付いたものがあるのではないかと考える。

 このブラームスは、基本的には旋律も拍子もテンポ変化も強弱も制限され、演奏には技術的にヴィルトヴォーゾ的な困難さを伴わない反面、そういう意味で演奏の「引き出し」が制限され限定されているからこそ困難を伴っている。

 よって、自然と対峙する生活者たちの困難を肌身で知っている東欧の指揮者にとっては、堂々たるドイツ音楽ではあるが、どこか懐かしくしい記憶を呼び起こす、庶民の巷(ちまた)に寄り添う性格が感じ取れたのではないか?

 

 ハンガリー系の指揮者のわたしの中の名演としては、まずもって、セル/クリーブランド管弦楽団だが、

 

ジョージ・セル 指揮  クリーブランド管弦楽団

 

 少しロマン派ドイツ音楽寄りで、オスティナートの懐かしさからは距離がある。端正すぎて、よくセルに向かって批判される「音楽に厳しすぎる」ということはこの場合にも当てはまる。第2楽章はすばらしい。

 ハンガリー出身のセルならば、もっと「いにしえ回帰」「自然、素朴回帰」が期待されるが、ブラームスというドイツの巨匠に立ち向かう時よりも、お隣のチェコ音楽の方が力が抜けて、セルのノスタルジーを燻る(くすぶる)ようです。ブラームスから逸脱するけれど、ジョージ・セルのもっとも素晴らしい録音は、ドボルザークの交響曲第8番だとわたしは思っている。

 

ジョージ・セル 指揮  クリーブランド管弦楽団

ドボルザーク 交響曲第8番 ト長調 作品88

 

 次に、わたしが聴き惚れたブラームス交響曲全集のひとつであるケルテス/である。

 

イシュトヴァン・ケルテス 指揮  ウィーンフィルハーモニー管弦楽団

 

 第4楽章の弦の強弱のつけ方の微妙なコントロールとストリングスの豊麗な奥行きは、パッサカリアのバスの動機を失わせることがない。この作品のバス以外のセクションの鳴らし過ぎは禁物で、ワーグナー的な派手な合奏は排除されるべきで、バロック的、室内楽的に響かねばならぬ。数あるウィーフィルのブラームスでも絶品の弦である。ほとんどアゴーギグを廃したこの演奏は、オスティナートの記憶を呼び覚ます。

 

 さて、わたしの独断で、わたしが最高と思えるのは、アンタル・ドラティである。

 

 

 

アンタル・ドラティ 指揮  ロンドン交響楽団

 

 スコア その①と、その②でも指摘したけれど、この作品の演奏は、インテンポが基本で、ドラティの演奏ではその効果はスコア のトレモロの音の粒の揃いに認められ、また最後の音にフェルマーターがなく、4拍のタイで終わるという事への忠実さがこの作品の音楽史上の意味を損なわない大事な点だと思う。しかしドラティは、インテンポだからこそ、強弱記号やアクセント、スタッカート、アルコ、ディナーミグ、強弱記号を変化させて「作品の単旋律性格を、変奏に自在に展開」して見せる。しかも旋律の「ノスタルディー」的「悲哀」は、ハンガリー出身者らしい歌いでもある。

 

7.結語

 

 ブラームスは作曲に対してとても誠実であった。誠実というより生真面目である。この誠実さはおそらくバッハに学んでいるとわたしは思う。

ブラームスは、技術に関してはベートーベンを手本として学んだことは間違いないが、ベートーベンにはブラームスにない茶目っ気があって人間の性格としてベートーベンは明らかに「陽」で、それは『クロイツェルソナタ』ピアノ三重奏曲『幽霊』などに見られる「遊び心」でありベートーベンの天才の「余裕」である。バッハでさえ『コーヒーカンタータ』のような世俗作品には「遊び心」があるけれど、ブラームスにはそういう作品を、少なくともわたしは認めたことがない。「ベートーベンの後継者を期待されて」第1交響曲の完成に14年もかかったブラームスは、あくまでもベートーベンとの比較で考えると、「陰」である。

 そのかわり、ブラームスの生真面目さは、バロック以来の形式、構成、展開に真摯に学んでいる点で、ひとつひとつの音と和音の意味合いが深遠である。ゆえにブラームスを聴くには緊張感を必要とするが、彼が学んだ、その音楽が生まれてきた原点が、中世を抜け出す頃の、(交響曲第4番のパッサカリアとは一聴似ても似つかぬ)オスティナートのような庶民の素朴な音楽を端緒としているがゆえに、それをブラームス時代の「現代」のロマン派の傑作に結びつけようとするその緊張感は、ブラームスの作品を聴くに及んで、理屈を超えた懐かしさを感じさせる。たとえて言えば、このパッサカリアのイメージは、つめたい冬の朝に荒涼とする丘陵に数本そびえ立つ葉の落ちた細く高い樹木の並木の白黒写真の様である。こういう音楽を視覚化して感想にはを述べることは問題を孕むし、実はこういう喩えを大変躊躇するところがわたしの基本姿勢でもある。あえてこの記事で書くのはそれはわたしの個人の感性を他者に表明する象徴であって、視覚的のイメージが沸かないからといってもなんら問題にはならない。どんな風景が見えるかどうか、または音楽の視覚的な具体化を好む好まないはそれは人それぞれである。

 わたしがここで述べたいのは、ブラームスの過去の音楽手法への徹底した学びが、ブラームスの音楽を介して、私たちが音楽の原点なるものへ勧誘させられ、そこに言い知れない「懐かしさ」を感じるということである。

 

 「そこにバッハがある」。わたしの以前のブログ記事のタイトルの意味を説明すると、ブラームスの「パッサカリア」は音楽史の結実、こういう事になるであろうか?

 

 『オスティナートノ結実への補完』に続く