最近のニュースなどを見ていて感じたことを書いてみます。しかし、あまり明るいニュースがないようです(-_-;)。
子供が事故に巻き込まれて死ぬ事件が多いですね。高齢者社会になって、高齢者ドライバーが増え、そこから起こる高齢者の車の操縦ミスなどが原因の1つでしょうか。
ただ幼児の列に車が突っ込んだ事故は以前にもありました。その時から感じていたことを書きます。古い本ですが、哲学者の和辻哲郎が「風土」(岩波文庫)の中で、以下のような批判をしています(前書きが昭和10年になってます。1935年)。
<我々は日常日本において自動車や電車を見慣れている。それは西洋から輸入されあるいは西洋をそれを模して作られたものであるが、しかし我々日本人がそれらのものにおいて珍しさというものを感ずるということは、今日においては通例はないであろう。
・・・(中略)・・・
ところで日本へ帰って街上の自動車・電車を見る。それはまるで麦畑の中を猪が暴れまわるような感じである。
・・・(中略)・・・
電車の方が一階の軒より高く、また一軒の間口よりも大きく、そうしてもしそれが暴れ込めば家の方がめちゃめちゃにこわれるだろうと思われる堅固さで、しかもそれが木造家屋の力を圧倒し去るような勢いをもって突き進んでくる、それが右のような印象を与えるのは当然であろう。電車がそばにくれば向こう側の家は見えなくなって電車の屋根の上に空が見える。背の低い自動車でさえも時には同じように偉大なものとして現れてくる。ある小路では自動車が運河にはいった鯨のように横たわり、そうしてそれが実際に一軒の家の間口よりも大きく軒よりも高いのである。
ヨーロッパの町々では、家に比べてはるかに小さいこれらの交通機具が、いかにも交通のための「道具」らしく、従って町や人間に服従した家来らしく、そのものの持つ意味にぴったりと合った感じをしか与えない。しかるに日本の町では、これらの「道具」「家来」であるものが人を圧し家を圧し街を圧してのさばり回っている。
・・・(中略)・・・
我々は道路が広げられて自動車や電車の交通が便利になるという視点だけから見ていた。しかしそれは自動車・電車と家や町との不釣り合いを道路と家や町との間に押しひろげることにほかならないのであった。我々は新しい「都市計画」によって次々に新式の立派な道路を与えられる。>
最近は木造住宅も少いし、自動車も軽自動車が発達して、時代の変化もありますが、上の80年以上前の和辻哲郎の批評を読んでも現代日本の「車社会」の印象はほとんど変わっていないな、と思いますね。
実家の家の正面に立派な道路がありますが、自分の子供時代は大した舗装もしていない小さな道路でした。その道路は途中までしかなく、その先は畑でした。しかし、都市計画で道路は拡張し、畑を突っ切って、近くの幹線道路に無理やり繋げられました。確かに若干便利にはなりましたけど、それほど必要かといわれれば微妙でしょう。昔はその道路近辺で子供が遊べましたが、今は近所の公園に行くためにその道路を渡らなければなりません。
日本の道路は狭く、小さな路地など、白線だけを引いて歩行者用のスペースになっているケースも少なくありません。人のギリギリそばをものすごいスピードで車が通ることも珍しくもありませんし。いくら軽自動車とはいえ、何か1つ間違って、車と家の壁との間に人が挟まれれば大事故になります。正直、こんなにたくさん道路が必要かは微妙だと考えています。人が沢山住む場所なら、車が通れないようなところがあってもおかしくないはずです。しかし現実は逆で、どこまでも車を通そうとするかのように、アスファルトで固めた道路を行政は作ろうとします。そこに住む人のことを考えたならば、街の外周だけ道路でくくって、各家に必要な生活道路はつくるにしても、街の中は車は一切入れない状態であっても恐らく問題はないはずです。
道路を作れば作るほど事故に遭う人が増えるのは道理です。幼い子が事故に遭う確率も増えるでしょう。
日本、というよりこれは東アジアに良く見られる傾向なのかもしれませんが、人と車の距離が思いの外近いという気がするものです。当然その分、人と車の接触などは増えることが予想されます。
かつて東京教育大学が茨城県に移転した時、その場所を探すために時の大臣が上空からヘリコプターで飛んだといいます。そして上空から眺めて、沢山の畑を見て、「まだ土地が余っているじゃないか」と。実際筑波大学は茨城県の田園地帯に突如姿を現します。南北4キロ、東西1キロの巨大なキャンパスです。しかし、当然そこで農業をしていた人には導線を急に引き裂かれた形になったわけです。
都市計画なんていっても結局「地図上」でここにまっすぐ道路を引いたらいいんじゃないかという様な程度の感覚で、どんどん道路をつくるわけですから、実際そこで生活している人たちの感覚を無視した道路が出来上がっていくわけです。
そこに病気の高齢者なり、注意力散漫の人なりが事故を起こせば、他人を巻き込むことは容易に想像できます。
実際生活している人の感覚を無視して、頭の中や地図上だけで合理性や正確性を求めると、人の住みにくい世界になります。機能性を追求した、20世紀初めのドイツのバウハウスによる、初期の集合住宅の実験では、精神異常者が良く出たといいます。
機能性だけとか、合理性だけでは人間はおかしくなると思います。最近の日本の低賃金の集合住宅も無造作に立てられていて、ごみ置き場なども汚かったりしますしね。「住めればいいだろう」ぐらいな感じです。21世紀にはいってから日本ではかなり通り魔殺人なども増えています。こういうのも一種の精神異常者かなと、思いますね。
都市計画なども含めて、我々の身近な部分を見直すことは多いと思いますけどね。地方議員などヨーロッパに視察なんかに出かけていって、一体何を見ているんだと思いますよ。見る目がなさすぎるというか。道路を造れば儲かる人がいたり、票を集められたりする人がいるのかな?しかしやっていることが雑過ぎるんですね。自動車が日本に入ってきてかなりになりますが、都市計画などの観念はこの国で、全く成熟していないと思います。行政に関わる人もちゃんとした教養と、感性が求められていると思います。
何もヨーロッパのようにしろという話ではなく、日本なら日本なりのやり方はありそうです。また、道路も本当に必要かどうか、良く考えて作らないと、日本中アスファルトで埋め尽くされてしまいます。
日本フルトヴェングラー協会の会長で、野口剛夫という方がいらっしゃいます。個人的にはクラシック関係の書物を見ると時折顔を出す方というぐらいの認識です。この人は2013年に「新潮45」という雑誌に<「全聾の天才作曲家」佐村河内守は本物か>という論文を寄稿して少し話題になりました。2013年はまだ佐村河内守が偽物と分かる前の話です。
彼はここでクラシック音楽の演奏家であるフジコ・ヘミングや辻井伸行氏などに関するマスコミの取り上げ方のおかしさについて意見を述べ、同様に当時まだ、「全聾の天才作曲家」として騒がれていた佐村河内守への不信感を述べています。
野口氏は佐村河内守が作曲したとされていた作品を聴いて、必ずしも良い作品でないと感じたことを、各種の情報を踏まえて書いています。当然、過去の天才作曲家達のレベルにはないということを書いているわけです。結局彼は正しかったわけで、佐村河内守に散々振り回されたNHKのようなマスコミなどを見ると、いかに本物を見る目が大事かということを物語っています。
そしてこうした「本物を見る目」というのは、やはり各自が自分の実体験に照らし合わせた経験や感覚から導き出されてこないと、生まれてこないのだと思います。「得をしたい」とか「人気が欲しい」とか、そういった自分の埒外にある感覚に導かれると間違いを犯すようになると思います。
音楽関係の話題では、ピエール滝のコカイン使用事件の後、麻薬を使って作曲した作品を市場に出していいのかどうか、という話題がありました。
電気グルーヴなんて個人的には全く興味がなく、ネットでちょっと聴いたことがあるぐらいです。作曲家の三枝成彰氏がベルリオーズのアヘン使用のことを例に出して、作品には罪がないということで擁護していましたけど。作曲家の方は擁護している人が多かったような気がします。
ただまあ、彼らのようなアンダーグランドな世界はどうしても麻薬などの温床地帯になっているという印象はぬぐえませんけどね。偏見だといわれるかもしれませんが。
自分も好きでテクノなどを聴いていたこともあります。しかし曲にもよるんでしょうが、気分は高揚するんですが、反面「自分を肯定できないこと」が許せなくなるという感覚が強くなります。逆にいえば、「自分を肯定すること」しか受け入れなくなるというのか・・・。
個人的な体験では、テクノを聴いた後は、昔嫌な思いをしたこととかを思い出したりするようになるんです。そしてそれに腹が立ったりとかするようになります。そういう風に作られている、ということなんでしょう。
しかしその反面には、音楽による麻酔的な自己肯定の強力な快感があります。日々学校や職場で自己批判にさらされる人にとって見ると、これほどの快感はないわけです。こうした音楽には、自分を認めることは徹底的に受け入れますが、肯定してくれないならどんどん攻撃する、という一種のチンピラ主義みたいのがあるような気がします。一応文化的見地なんていう権威付けをするのなら、「現代社会批判」みたいな感じなのかな。幼稚ではありますけどね。
まあ、全てのテクノミュージックなどが、そうだという話ではなく、自分が聴いていたものはそのような感じだった、ということでしかありませんが・・・。
電気グルーヴの音楽がそうなのかどうか確かめるまで聴いてませんが、どのみち、地下の箱に入って何時間もテクノのような音楽を聴けば、ある種の催眠効果に浸ってしまうのは間違いないところでしょう。そうなれば自己の意識で何かをする、という感じは弱くなると思いますけど。外部の刺激に弱くなるんですね。
ワーグナーの音楽にも似たような効果がありますね。ただ音楽の目的自体は違いますけど。
デヴィ夫人がジュリアナ東京のイベントで呼ばれて、トイレに入ると麻薬の匂いが随分したという話をしていたと思います。酒井法子もDJをして随分暴れている映像が流出していましたけども。
個人的には、ピエール滝がコカインをやっていた、とかいわれてもそんなに驚かなかったですが、実際はどうなんでしょうかね?ベルリオーズの「幻想交響曲」を聴いてアヘンをやりたいなんて人はいませんが、音楽が作る世界が麻薬の温床になっているというのなら問題ですよね。
スイマセンね、この件は半分ぐらい推測で書いてみたんですが、間違っているかもしれません。ただ随分怪しい印象はしているので、一言書いてみたくなりました(゚Д゚)ノ。
犯罪とか事故とか、最近結構多いと思います。個人的には当然関わりたくないことばかりです。そのためには物事の原因を知らねばならず、それを怠ると、事件や事故に巻き込まれてしまうのかも、と考えている今日この頃です。