ヒマジンノ国

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モンロー主義 |  ヒマジンノ国

 

↑、過去記事です。ロシア・ウクライナ紛争に関して、この時は楽観的なことを書いていました。ただ最近またロシアが新たな動員を開始するのではないか、というような不穏な空気も出てきているように思います。

 

以前の記事で、自分はゼレンスキーが排除されればウクライナ紛争も終わるかもしれない、という記事を書きました。ただ現状を見ると、未だにゼレンスキーは政権の中央に居て、紛争を指示しています。既に4年以上戦争状態が続き、両軍の戦死者の合計は100万人以上ともいわれます。

 

第2次世界大戦の日本の民間人を含めた死者数が、300万人程度でしょうか。ウクライナ・ロシア紛争での死者数はそのほとんどが戦闘員でしょう。それだけで100万人以上の死者数となれば、相当な大規模の戦争というような印象を受けます。

 

個人的な意見をいえば、以前も書いた通り、ゼレンスキーはこの件での最悪の人物だという認識を持っています。現在のウクライナ兵の平均年齢は40歳を超えているそうで、国内に若い男性がいないそうです。このままだとウクライナという国が無くなりかねません。

 

方やプーチンですが、初期の頃はこの戦闘を「特別軍事作戦(今でもそういっています)」といって、短期で終わらせる名目でした。本当に短期で終わらせるのであれば、この件はそれなりの大義があったと思いますが、現状だと、ウクライナを滅ぼしかねないと思います。

 

戦争が始まる前、1万4千人ほどのロシア系ウクライナ人が殺されたといわれ、そのロシア系住民の擁護のためにロシアは介入したといわれています。個人的には、これは明らかにウクライナ政府(ゼレンスキー政権)の方に問題があったと思います。ロシアがウクライナをまだ征服していないから、ロシアの負けだ、みたいな論調が日本国内にありますが、元々ロシアはドンバス地方の割譲のみを求めていただけで、これは律義にまだ守っています。

 

ただこれも、短期に作戦を終わらせるから意味があったと思っていて、現状のように数万人を守るために、100万人以上の死者を出す戦争を続けるべき、というのもおかしな話です。当然単純に戦死した人間の数を比べることや、人道上の問題もありますが、さすがにこのままいけば、「あの時ゼレンスキー側がおかしかったとはいえ、本当に軍事介入しか選択肢がなかったのか」といわれかねない状況になってきていると思います。

 

 

ロシアは新たに30万人から50万人以上の兵員の導入を行い、反攻に出るかもしれないといわれています。

 

初期のころの徴兵で、プーチン政権は不人気となりました。そのせいで、ワグネルなどを使って、囚人の動員を始めます。これが済むと今度は「多額の借金を抱える者」の動員を開始しました。前線に出れば借金を帳消しにし、戦死すれば多額の慰問金が入る仕組みです。地方の貧しい人たちを前線に送りながら、これでしばらくロシア軍の前線はもっていたようですが、近ごろはその人たちも底をつき始めているといいます。動員された人たちもほとんど訓練されずに前線に駆り出され、数日で死んでしまうものがほとんどだといいます。

 

ロシアも本格的な徴兵を始めなければ、兵士が足りなくなっているということです。

 

そのため、新たな徴兵を始めるという噂があり、戦域も他国に及ぶのではないかと懸念されています。ロシアも追い詰められているという感じが出てきました。両国共にチキンレースの様相です。

 

これで第3次世界大戦にもなろうものなら、ロシアのウクライナ侵攻がその発端になるという話になって行きます。

 

やはり問題解決に軍事力を安易に使う怖さがここにあると思います。

 

方や、米国のイランへの攻撃も終わらず、長引いてきています。西側の暗部に詳しいロシアのプーチンですが、彼もD・トランプに対して次のように発言しているそうです。

 

 

イラン戦争を見ていると、プーチンの発言もうなづけるような気がします。ベネズエラでの軍事作戦は上手くいったようですが、イランへの攻撃は終わりが見えません。

 

イランの国是には「イスラエルの消滅させること」、というのがあり、イスラエルにとっては仇敵だったわけです。

 

シオニストの意向が断れないトランプは、結局イランへの攻撃に出ました。

 

D・トランプが世界的な共産的傾向を軽減させたのは事実で、これは必要だったと思います。そういう意味ではどこか、正義の味方的な雰囲気もありました。

 

しかしイスラエルのガザでの民族浄化を止められるのは、米国とトランプしかいないと思われるのに、ほとんど何もいいません。

 

上の記事で書いたように、モンロー主義的な配慮から、各地域で核となる「国」を作り出したいという意向が、トランプ政権にはあるようです。極東では中国、それに対しては太平洋で日本とオーストラリア共同で均衡状態を作ってもらう、というような。

 

トランプが中東で核となる国として見ているのが、どうも「イスラエル」のようで、これが問題になっていると思います。イスラエルのガザの住人に対する行いは、さすがにハマスの件があったとはいえ、「非道」としかいえません。

 

飢えたガザの住人に配られる食料がありますが、それを目的に集まってくる現地人を、イスラエル兵たちが狙い撃ちにしているといいます。彼ら(イスラエル兵のこと)はひどく選民思想が強いといわれており、他民族を人とも思っていないのかもしれません。

 

こうした国が中東で力を持つという発想自体、かなり恐ろしいように思います。

 

そしてそれを止めないトランプ政権というのも、先のプーチンの発言ではないですが、その本性の一部を垣間見る気がしています。

 

東欧と中東でこのように戦闘が固定されてしまって、現状相当に危険な感じがあるのではないかと個人的には感じています。

 

今年のお盆休みは日帰りですが、岐阜県の郡上八幡に行ってきました。

 

郡上八幡は岐阜の山間にある古い城下町で、夜通し踊る盆踊りで有名です。自分は岐阜県出身ですが、郡上は初めてでした。盆踊りに興味はなく、夕方前には帰りましたが・・・。

 

若い人が観光で多くいて、多分彼らは盆踊りに参加するのでしょう。

 

 

山の上にお城があるので見学しました。

 

清流長良川沿いにあり、川は綺麗です。用水路にコイや川魚がいるのが有名で、大きなコイが悠々と泳いでいました。

 

涼しげな雰囲気と酷暑の混じり合いは、いかにも日本の夏という感じです。15時過ぎぐらいから雨雲が発達し、風も強くなりました。

 

 

ウナギを食べて帰りました。

 

 

今年の東京は去年より涼しいですが、岐阜は全くそんなことはなく、酷暑でした。しかし久しぶりに、日本の夏らしい日を体験できて思い出に残りそうです。

 

今の高市政権の移民政策については2通りのことがいわれていて、情報を探っていても今後どうなるかは今のところ良く分かりませんね。

 

「一旦ゼロベースで」みたいなことをいったせいもあってか、国民の中には少しでも移民政策を続けるというのに反対、という意見も多いですね。ただこれに関して、高市政権は移民政策を「止める」とは、1度もいっていないようです。

 

ルールを厳しくして、永住許可などの認可が中々取れなくなるする、ということで対応しようということらしい。

 

 

 

こういう考え方には自分も賛成します。

 

ルールを守らない外国人に関しては、国外退去も増えるのではないかといわれているようです。

 

しかし他方で、来年の4月にはバングラディシュやアフリカから新たな移民を受け入れる、という話は止めないみたいで、やはり不満は出ますね。総理が指示すれば止めれそうなものかと、勝手に考えてしまいます。

 

 

文科省が在留外国人児童に対して、100億円支援とかの話も流れてきます。どうなんでしょうか。

 

個人的にはルールや法律を厳しくするというのが、効果が1番あるのかと考えていて、その点は高市政権には賛成です。しかし他の点を見ていると、抜け穴とかはないのか?とか、今から止めさせれられそうなことをなぜやらないのか?とか疑問も多いですね。

 

仮に今の政権の結果が出てくるとしても最低でも5年ぐらいはかかりそうな気がしています。国民を満足させる気があるのなら、もう一歩踏み込んでほしいな、とは思います。

 

最近のアメーバブログはアクセス数が正確に表示されません。当日のアクセス解析での数が多くても、翌日の統計を見ると全然伸びていなかったりします。

 

ネットで調べると、機械が勝手に記事を徘徊する、ボットとかクロウラーとかがあるという話が出てきます。当日のアクセスが多い理由は、そのボットの徘徊をアクセス数としてカウントしている、ということなのか?翌日はそのボットのアクセスを差し引いて、統計を出している?ということかな。


しかし今年の前半は、そんなアクセス数の増減もなかったので、イマイチ理由が分かりません。なんだかね、直せないんでしょうか。


運営さん、ちょっといい加減すぎるんじゃないの?と思っています。

 

後は広告。これが本当に最悪です。

 

スマホでアメブロを見ようとしたら、必ず広告が出てきます。目的の記事を10秒以上見られません。また、広告の排除の仕方も分からない場合があり、一度アプリと閉じてやり直す時もあります。何でこんなことにしたのか、アメブロの意図も良く分かりません。

 

有料プランにすると消えるとか聞きます。やっぱり金か?


そろそろアメブロもやばいのか、と勘ぐったりします。

 

広告に関してはアメブロに限らず、YouTubeとか、アマプラとかでも酷いですよね。あれって逆効果だと思うんですが、皆さんはどう感じていらっしゃるのでしょうか?

 

とりあえず、以上の2点のせいでアメブロの好感度はかなり下がっています。

 

☆アメブロ アメーバアプリの広告、無料で簡単に消せますよ iPhone情報追記あり! | 奈々(なな)と巧(たくみ) ~にゃんこ日記~

 

↑、広告の消し方を書いてる方がいらっしゃるので、リブログさせてもらいます。とりあえずスマホで見る限り、これで広告は消えました。無料でできます。入力する文字はコピーで入れたほうが正確のようです。初めはマニュアルで入れたんですが、上手くいきませんでした。

ベトナム人などを中心に、外国人犯罪のニュースが増えています。福岡県での梨の盗難事件に始まり、直近では埼玉の殺人事件などの話もあります。国とか自治体が動くべき案件だと思うけど、動きませんよね。

 

 

また、熊本地震でのベトナム人の活躍は報道機関の捏造だそうです。

 

 

熊本地震でも始まったテレビの暴走。事実より“都合のいい物語”を作る災害報道

 

これはベトナム人が悪いという話ではありませんけども。しかし、事実は大事かと思います。

 

移民は世界中で問題になっていて、どうも何者かが意図的に進めているように見えますね。日本に限らず、政治家なんかが操られているという風に、個人的には見えます。

 

移民問題 |  ヒマジンノ国

 

日本では自民党が特に問題かと思います。そんな中、期待値の大きかった高市さんも、どこか中途半端で、人気に陰りが出てきているようです。

 

 

やっぱり政治家は中々信用できませんね。

 

 

減税と移民問題はもっと真剣に取り組んでほしいです。

 

米国のトランプ大統領も、エプスタインファイルなんか公開したりもしましたが、重要な部分は出てきませんよね。

 

高市さんもトランプ氏も核心に迫ることはしないんだよね。もっとしっかりしてほしいなと思います。

 

昨日はサントリーホールで、東京交響楽団による演奏を鑑賞。曲目はブラームス交響曲3番、ドヴォルザーク交響曲7番。指揮者はジョナサン・ノットから新たに音楽監督になった、ロレンツォ・ヴィオッティ。

 

スイス出身とありますが、名前からみるとイタリア系の人のようです。背の高い2枚目指揮者。36歳。

 

 

↑、ロレンツォ・ヴィオッティ。男前で、腕時計のモデルをやっていたりもするようです。ヨーロッパでも評判が良いらしく、今回興味を持って聴きに行って来ました。

 

まずは前半のブラームス交響曲3番。第1楽章、日本のオーケストラから、脂の乗ったエレガントな音を出します。表現はレガート気味で、中々聴きやすい。

 

第2楽章になるとガクンとテンポを落とし、繊細で優しい表現になります。初めは結構綺麗だなと思っていましたが、時間が経つにつれ、許容範囲ではあるものの、もたれるなと感じ始めます。

 

そして第3楽章、もう少しテンポアップするかと思ったのですが、こちらも遅めのスピードでじっくりやります。この楽章の名旋律を嚙み砕くように演奏し、あの渋い情熱がもう1つ伝わってきません。何でこんな表現にするのだろうと疑問が湧きます。

 

終楽章は常識的なテンポに戻り、非常に情熱的に演奏しました。中間の2つの楽章でテンポを落としたせいか、より躍動的に響きます。

 

ただまあ、何でわざわざ終楽章で盛り上がりを見せるようにしたかは良く分かりません。確かにブラームスのこの交響曲は第1・第4楽章、共にディミヌエンドで終わるので、少し盛り上がりに欠けるきらいがあります。そいうのをカバーするためかな、などと思ったりもしますが、初見では何とも判断が付きません。

 

個人的には色々疑問が残る第3でした。

 

後半は渋い曲の、ドヴォルザーク交響曲7番。こちらは完璧な名演でした。前半のブラームスのこともあって、緩徐楽章でテンポを落とすかもしれないと考えていましたが、そういうことは全くなく、こちらは全楽章、妥当なテンポでした。

 

ある方に聞いたのですが、ヴィオッティはこの曲をウィーン・フィルのデビュー曲にしたことがあるそうで、あの演奏ぶりだとこの指揮者の得意曲の可能性があります。

 

どの楽章も曖昧さがなく、彫りも深いですが、流れも損ないません。情熱が音楽に良く乗ります。第3楽章はスケルツォですが、舞曲な分、どこかウィーンのワルツを感じさせますが、同時に粗野ともいえるスラヴ系の情熱が混じりあい、独特の迫力が発生するのを、確実に表現していました。フィナーレも複雑で密度の濃い音楽ですが、どのメロディーも隈取良く聴こえ、素晴らしい情熱で鬱屈した悲劇的感情を爆発させていきます。そして濃厚な印象を与える結末は輝かしい鳴りっぷりで、聴衆を圧倒。個人的には全く文句なしの名演でした。

 

録音だともっと安全運転かもしれませんが、今日は本当に素晴らしかった。ライヴならではとも思いました。この7番だけでも聴く価値ありでしょう。

 

最後はリトル・サプライズといい、ブラームスのハンガリー舞曲1番を高速で披露します。おかげで会場のヴォルテージは一層高まりました。

 

ドヴォルザークの7番はブラームスの3番に触発されて作曲されたという話なんですが、こうやって聴くとブラームスの第3、その渋い情熱の、第3楽章なんか聴いていると、当時の二重帝国内での、スラヴ系住民へのオマージュかな?と感じたりしました。

 

どうしてもオーストリア(ウィーン)はハンガリーを含め、スラヴ系と密ですから、ブラームスの第3交響曲はどこかオーストリア的なのかなと勝手に感じたりしました。こういう音楽に比べるとワーグナーは極めてゲルマン的ですね。

 

新しい音楽監督のヴィオッティについては、今後も期待大です。

 

フランスの作曲家、ピエール・ブーレーズ(1925-2016)は最晩年に20世紀における、クラシック音楽ベスト10を発表しています。その内容は以下の通り。

 

エドガー・ヴァレーズ「アメリカ」、アルバン・ベルグ「管弦楽のための3つの小品」、イーゴリ・ストラヴィンスキー「春の祭典」、ベラ・バルトーク「管弦楽とチェレスタのための音楽」、アントン・ウェーベルン「管弦楽のための6つの小品」、ルチアーノ・ベリオ「シンフォニア」、カールハインツ・シュトックハウゼン「グルッペン」、グスタフ・マーラー「交響曲6番」、アルノルト・シェーンベルグ「モノドラマ、期待」、ピエール・ブーレーズ「レポン」。

 

ブーレーズの「レポン」だけではなく、例えばベリオの「シンフォニア」、あるいはシュトックハウゼンの「グルッペン」でもよいのですが、これをはじめから最後まで集中して、聴き通すことができる人が、世間に一体どれぐらいいるのでしょうか?

 

Berio - Sinfonia | François-Xavier Roth | SWR Symphonieorchester

 

↑、ベリオ、「シンフォニア」。

 

 

↑、ピエール・ブーレーズが自ら、「20世紀の名曲の1つ」という、彼が作曲したレポン。演奏には特別な環境が必要で、普通のコンサートホールでは演奏できません。仮に通常のホールで演奏したとしても、内容が難解すぎて、演奏会の基礎演目にはならないでしょう。

 

20世紀後半に発達した「現代音楽」と呼ばれる作品に、一定数の理解者がいるとはいえ、しかしそれはクラシック愛好家の中でも非常に少なく、それを更に世間一般の、音楽愛好者の絶対数から見れば、ほとんど「いない」も同然でしょう。

 

個人的な話をすれば、自分もまた「現代音楽」を好まない者の1人です(厳密な意味での現代音楽といえば、正確に「これ」と明言するのは無理があります。しかし上にブーレーズが挙げたベスト10のように、一応コンサートの演奏会に乗せることを目的とした作品とします。ミニマル・ミュージックなどは除外しています)。

 

指揮者のマウチェリが彼の著作で述べている「現代音楽」の部分から抜き出してみます。

 

<これまで述べたように大戦後、シェーンベルクが必ずしも前作より複雑な楽曲を書かなくなると、彼はストラヴィンスキー同様、ヨーロッパの前衛からたちまち見放され、音楽進化論の主導者ブーレーズから破門が宣言された。シェーンベルクは気落ちして元気がなくなり、ハリウッドでスターたちに囲まれて過ごした。前述のとおり、欧州での戦争が終わった直後(1945年9月15日)に亡くなるシェーンベルクの弟子アントン・ウェーベルン――禁欲的な作風で知られ、きわめて短く、緻密に組み立てられた曲を書いた――が、シェーンベルクに代わってセリー音楽や無調音楽の作曲家たちに創造的刺激を与える存在となった。それまで比較的目立たない存在であったウェーベルンが、その後半世紀にわたり、シリアスな音楽のゴッドファーザーになったのである。

 

「現代音楽」として認められるのは、12音に基づくセリー音楽だけだったため、20世紀の最後の頃までダーウィン=ヘーゲル・モデルが音楽の評価に用いられた。つまり、どんどん複雑化する音楽だけが価値を認められた。そうした音楽の多くは、数式を用いて作られ、高音、デュナーミク、リズム、音色をコンピューターがコントロールした。>(ジョン・マウチェリ著「20世紀のクラシック音楽を取り戻す」松村哲哉訳から)

 

「現代音楽」とは、無調から発展したセリーに加え、近代の科学的知見を取り入れた音楽とでもいえば良いのでしょうか?他にも西洋音楽は常に進化を続けてきたという信念から、ダーウィンの進化論なども加えられているようです。

 

そのおかげというべきか、絶対音楽が「音楽的な自己目的性」を中心に作られているということで、「仮に」人間がいなくとも「音楽のみ」が自律的に存在しているかのような作品ばかりとなってきました。

 

ですがこれらの作品は、人間の持つ「感覚」や「心の動き」を無視した音楽ばかりになり、一般大衆には意味不明の音楽ばかりとなりました。確かに電子音楽とクラシック音楽との繋がりを示す、ブーレーズの「レポン」など、専門家や愛好家からは、評価はあるでしょう。またこうした地道な一見意味のないような音楽から、後の新しい知見が発見されることもあると思います。

 

しかしこれらの音楽を「コンサート用の作品」といわれると、いささか引っかかるわけです。はっきりいってこれらはあくまで「研究用の」音楽であり、「コンサート用」というものからは区別すべきだと、個人的には思います。

 

また音楽が「科学」であるかどうかも微妙なところで、哲学の現象学などの立場からいえば「科学還元主義」は平均的な人間にとって見ると、一種のピーキーな考え方の1つにすぎず、これらを「真理」として見ること自体、常識の範囲から外れていきます(普段の生活の中で人々は「水を飲む」とはいいますが、「H2Oを飲む」とはいいません)。

 

実際「音」が何かといえば、空気の振動なわけで、これが「音」になっているかどうかは、はっきりと分かっていないわけです。何をいってるんだ?と思う人もいるでしょうが、人間を含む「動物」などは耳とその中に空気の振動を「音」として解釈する構造を持っているから、空気振動を音として認識するわけです。人間でいえば蝸牛管のようなものがあるからともいえます。 

 

つまり本来は空気が振動しているだけで、音などない可能性もあるものが、われわれの持つ体の器官のおかげで勝手に「音」として認識されている可能性です。

 

さて、このような問題について一定の意見を発表した指揮者がいました。それが有名なエルネスト・アンセルメで「人間の意識における音楽の基礎」という思想的書物です。

 

彼の発言の一部をある書物から引用していきます。

 

<われわれが音と音の間に音程を知覚するのは、音自体が空間のある高さに置かれたある音響位置として知覚されるからです。大体、音は耳に対してしか高さを持ちません。外界においては、音は空気の波動によって耳につたえられますが、その波動は波長によって、そこで耳にとっては、いわゆる振動数という毎秒間の波動の数によってそれぞれ特徴づけられています。したがって、音が、われわれにとって高いあるいは低い、鋭いあるいは重いというのは、もっぱら音がわれわれの内耳を通して知覚されるからです。

 

かたつむり管、あるいは蝸牛殻と呼ばれるこの内耳の器官は、らせん状にうずを巻いている管です。そして、音が聴覚意識にとって高さで呼ばれるのは、音の振動数がかたつむり管の軸に比例してある高さにおけるこの管の感性を目覚めさせるからです。要するに、聴覚意識にとって、異なる振動数の音の間に高さの相違や音程が存在するのは、それらの音がかたつむり管の中で種々の高さのレベルで知覚されるからなのです。

 

一連の異なった高さの音の知覚は、音の種々の振動数に対応するかたつむり管のそれぞれの位置を連結する電波を実際にかたつむり管の中で惹き起こします。各々の振動数比は蝸牛殻において、音程を示すロガリズム(㏒関数、つまり対数比)によって表され、振動数の比の責にロガリズムの和、すなわち音程の和が相応します。

 

したがって、音の連続をメロディーという継続的な音響線に変えるのはわれわれの聴覚なのです。この世界においては、すなわち音響現象においては、音は高さを持ちません。音と音の間に音程はないのです。もしあるとすれば時間の間隔だけであり、したがってメロディーは存在しません。高さ、音程、メロディーは、すべてわれわれの知覚の仕方に由来する、かたつむり管現象なのです。私は特にこの点を強調しなければなりません。

 

というのは、大多数の人々が、メロディーを描くのは音であり、そのメロディーを流星の跡を知覚するように知覚するのだと思っているからです。それは、知覚の現象を理解しようとするのなら、まず第1に一掃すべき錯覚です。実際、演奏家は、ある時間感覚と、同時に異なった高さの2音間の音程をもって連続する音を出します。そして、そのロガリズム的な知覚によって、2音間の相違を2つの空間的な音の位置の間の音程とし、その音程によってお互いの位置を連結し、その連続から1つのメロディーを作るのは、聴衆と器楽演奏者の聴覚です。

 

ですから、メロディーは決して音響現象ではなく、意識現象なのです。それは時間における音の連続から聴覚がうけとるイメージであり、われわれが、音響現象の上に投影するイメージなのです。>(クロード・ピケ著「アンセルメとの会話」遠山一行、寺山由美子訳から)

 

話を少し端折りますが、アンセルメは我々が感じ取る「音」の性質は、知的な側面(数学との関連性など)があると同時に、人間独自の主観的な意識現象としてみています。

 

つまり超訳していうのなら、「音」は人間を含む動物などが持つ器官によってもたらされる、空気振動に関する独自の解釈であり、物理的真理とは異なっている可能性があるということです(そういう側面が存在しているということ)。

 

 

↑、クロード・ピケ著、「アンセルメとの対話」。「人間の意識における音楽の基礎」の日本語訳がないのでこの本で代用します。評論家の故遠山一行氏が「人間の意識における音楽の基礎」の全訳を行うつもりでいたようですが頓挫。この著作の巻末にはその抄訳があるのでそれで代用します。ドビュッシーやラヴェル、ファリャ、あるいはストラヴィンスキーとの関係をみてみても、なぜエルネスト・アンセルメ(1883-1969)がこれら著名な作曲家の初演などに関わっていたのか?それが良く分かる内容かと思います。彼は単なる一演奏家ではなく、思想的な深い背景を持った、一流の指揮者であったことが感じられる著作かと思います。

 

ベートーヴェン・イヤー |  ヒマジンノ国

 

↑、アンセルメの過去記事。

 

それ故、アンセルメの思想からは外れるかもしれませんが、音の造形は「人間(生物)が聴くことによって生まれる、心理的な思い込み」である可能性があります。

 

ではこのような意識にとって、無調などの基礎とした現代音楽はどのように響くのか?

 

以前も別記事で引用しましたが、今回もまた引用します。

 

<国際前衛音楽界での種々な動き、新しい音楽のための広報活動や、多くの録音にもかかわらず、新しい手法による音楽が、どれひとつを取っても、全世界のどの国の交響楽団、歌劇場、コンサート・ホールのレパートリーとして定着していないことは、驚くべきことである。その理由は、コミュニケーションの崩壊ではないか、とされている。指揮者エルネスト・アンセルメが、自著『人間的意識内の音楽に基礎』(1961年)の中で引きだした結論ーー「新しい音楽が、正常な思考過程と聴覚的経験にとって、あまりに異質であるのは、間違った美学に基づいているからではないか」というのは、多分、正鵠を射ているだろう。>(ハロルド・C・ショーンバーグ著「大作曲家の生涯」亀井旭、玉木裕訳から)

 

これは1970年に発表された米国の音楽評論家、ハロルド・C・ショーンバーグの著作からの引用ですが、この著作から半世紀たった現代でもこの意見は充分にヴィヴィッドだと思います。

 

ブーレーズのレポンを聴いていても、自分にとってみると、正直最後まで聴くのは中々の修行です。「音楽的な聴き方」を無視をして、人間の心理的な解釈で、この音楽を聴くというのなら、初めから終わりまでサスペンス映画か何かの、不安を煽るような音楽が連続するだけで、聴後の満足感はまずないし、疲労の方が多いと思います。

 

上に書いた、現代音楽のような「聴き手の人間がいなくとも存在するような音楽」は、「音」が生物由来である可能性を退けようとしているように見えます。ところがこれらの音楽を人間の心理的側面で見てみると、結局、作曲家が「知的に見られたい」という心理を表した音楽である可能性が出てもいるように思え、あまり良い気持ちがしません。

 

ブーレーズらを始めとする、不協和音に満ちた「音楽」を聴くとき、それはあまりにも人間の心理に無関心であると同時に、自分たちが「偉く見られたい」というべき、作曲家の心理を感じ取るのは僕だけではないと思います。

 

やはり、人間が作り、人間が聴く以上、人間生活の常識を無視した音楽を、一般人が聴くには 、相当の困難が伴うようです。

 

6月19日。28年度から都響の首席指揮者になるという、ペッカ・クーシストを聴きにサントリーホールへ。

 

ペッカ・クーシストはフィンランド出身の、ヴァイオリニスト兼指揮者。今日は前半が自身の弾き振りで、シベリウスの「恋人」組曲、ヒルボリの「バッハ・マテリア」(日本初演)。後半がオーケストラの指揮のみで、タッローディの「きりん座」(日本初演)、シベリウス交響曲5番。

 

シベリウスの「恋人」ではクーシストのヴァイオリンの美音を堪能。滑らかで繊細な響きから、独特の香りがありました。続くヒルボリの「バッハ・マテリア」。今回現代音楽が2曲あり、ヒルボリとタッローディの曲です。これらは不協和音が連続するみたいな曲でなく、聴きやすい音楽で、コンサートで聴く分には悪くないなと思いました。

 

「バッハ・マテリア」は作曲家がクーシストに捧げた音楽ということで、クーシストは正に水を得た魚のよう。本当に生き生きと演奏をしました。演奏者がチューニングをしているのかと思っていると、実はもう音楽が始まっており、知らないうちにクーシストも加わって、20分程度のヴァイオリン協奏曲といって良いような、音楽になっていきました。即興性を求められる場面があるとかで、かなりジャズに近い響きの部分もあります。同時に、中間部はおそらく緩徐楽章の部分だと思いますが、懐かしいメロディが顔を出し、しっとりと聴かせもします。最初のチューニングを思わせるガチャガチャした響きから、幾重にも別種と思える音楽が重なって、一筋縄ではいかない音楽だと思いました。

 

このような複雑な音楽をクーシストは軽やかに、のびのびと演奏し、聴衆を驚かせます。只者ではない感じがします。

 

後半は交響詩の「きりん座」から。分かり易い描写音楽で、夜空に輝く星々とか、夜景に響く動物のさえずりなどを感じさせる音楽でした。聴きやすい音楽で10分程度。

 

ラストはシベリウスの交響曲5番。

 

クーシストは粘らないすっきりした演奏で、中々の快速。セクションごとの分離の良い演奏が多い中、若干団子気味ともいえる響きで押し通していきます。ヴァイオリンの主旋律など、やや埋没気味です。特に第1楽章では、後半積み上げられた動機が、北欧の澄み切った青空を思わせるような、大気の厚みを感じさせるような響きとなりますが、ここもこの指揮者は粘らずに、ずんずん進んでいきました。この辺りテンポを落として粘る指揮者も多い中、独特だという感じですね。同時にスケールはそんなに大きくない指揮ぶりだとも感じます。しかしその分シベリウス特有の爽快さは出ていました。

 

音も決して大きくなく、繊細で、シベリウスに必要な響きです。

 

第3楽章、今度は打って変わって、場面ごとの描き分けがあり、繊細な響きと相まって個人的には今日一の素晴らしさでした。オケによって、幻想的に切々と雪が降りしきるような印象が与えられる中、木管群によるあの懐かしい響きが歌われる時、シベリウスの音楽の美しさは極まります。

 

しなやかに響き渡る音楽は中々の素晴らしさです。

 

終演後はかなり湧きました。確かに相当な才人だと感じさせる演奏会で、驚きだったのは確かです。ただ指揮者としてはどうなんでしょう?シベリウスはあれで良いと思いますが、スケールが大きく、分厚い響きの音楽は難しそうです。

 

彼の本質は今日聴かせた2曲の現代音楽のような、過去にとらわれない斬新な資質にあるのかもしれません。

 

 

 

先日スター・ウォーズ最新作である「マンダロリアン・アンド・グローグー」を映画館で観てきました。

 

最近は人気に陰りが出てきているスターウォーズ・シリーズですが、劇場版は7年ぶりということらしいです。マンダロリアンというのは、スターウォーズ世界に存在する、アーマーを着た戦闘種族の名前です。その英雄、ディン・ジャリンが、グローグーと呼ばれる小さな子供のお供を連れて、悪を成敗するお話です。

 

原型はディズニープラスでドラマ制作されている「マンダロリアン」シリーズで、今回はシーズン3の続きとして制作されました。シーズン3の最後に出てきた、「反乱者たち」のゼブも登場。

 

 

個人的見解では今回は完全にファミリー向け、子供向きに振り切った内容に見えました。専門家の評価は低いですが、オーディエンス評価は好調のようで、終演後、この日も若い人たちが「面白い」といっていたのが聞こえてきました。

 

ドラマシリーズを知らなくても分かる程度の内容で、孤高の戦士ディン・ジャリンが、悪者たちを次々と倒していきます。なんというか、王道といえば王道の内容で、多くの人達に受け入れられそうな内容でした。ディズニー風スターウォーズとしては成功の部類かと思います。

 

 

しかし従来のコアなスターウォーズを期待すると、「何か違う」という人も多いと思います。ライトセーバーは一切出てきませんし、ジェダイの騎士もいないという、スターウォーズとなりました。個人的に面白いというほどの内容ではないですが、今後アソーカ・タノのシリーズも映画化するそうなので、その辺の伏線もあるかと思って観ていました。ドラマシリーズなんかを観ている人たちにとってみると、エズラ、アソーカらとスローン大提督の戦いが、これらのサーガの最大の見どころになっていくんじゃないかという期待があります。

 

今回の映画で、素晴らしいと思ったのは映像と音楽です(一応スクリーンXの大きな画面で鑑賞)。これはどちらも良くできていたと思います。コンセプト画そのものを映像化したようなクリチャーやロケーションの映像などは見ごたえがありました。音楽も従来のスターウォーズの音楽とは異なりますが、ドラマシリーズを知っているのなら、お馴染みのモチーフがあり、また、斬新な響きの音楽などが、かなり充実していた印象です。

 

2026年1月をもって、悪名高きルーカスフィルムの社長だった、キャスリーン・ケネディが退任。彼女はスターウォーズの正史に、ポリコレを持ち込みファンから大スカンを食らうエピソード7・8・9を制作しました(若い人たちを中心に、評価をしている人もそれなりにいるようです)。その後もスターウォーズ・シリーズ初の赤字映画となった「ハン・ソロ」、シーズン1で打ち切りとなったドラマシリーズの「アコライト」などを手掛け、次々とスターウォーズ・シリーズを破壊。

 

現状まだ噂段階ですが、エピソード7・8・9を、ディズニーがなかったことにするのではないかという話が出てきています。エピソード7・8・9のグッズなども全く売れていないそうです。

 

 

今回の「マンダロリアン・アンド・グローグー」の脚本はジョン・ファブロ―とジョージ・ルーカスの1番弟子といわれるデイブ・フィローニが担当しています。

 

ジョージ・ルーカスはスターウォーズを組み立てる際、神話学者のジョーセフ・キャンベルの提唱する、英雄の旅を描いた神話プロットを採用しています。そしてスターウォーズほどこの神話論理に忠実に作られた作品はないといわれており(特にエピソード4・5・6)大変な成功を収めました。

 

こうしたルーカスの持っていた物語のバックボーンに比べればデイブ・フィローニの作品は中々面白いものが多いものの、どこか同人誌的な感じがするのはやむを得ないでしょう。

 

それでも彼の作品は、いつも子供が見られるような内容になっていることが多く、作家としての良心を感じさせます。

 

今回の映画も、そのような良心を感じさせる映画で、今後も期待しても良いのじゃないかと思いました。

 

昨日はサントリーホールで、チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団を鑑賞。曲目はブルックナー交響曲4番と、ベートーヴェン・ピアノ協奏曲3番。指揮者はパーヴォ・ヤルヴィ、ソリストは反田恭平。

 

ブルックナー4番を実演で聴くのが今回が3回目。1回目はエリアフ・インバルの指揮でしたが初稿の演奏と知らずにチケットをゲット。演奏自体は良かったですが、初稿故、不完全燃焼でした。2回目はヴェンツァーゴの演奏でした。これは通常の4番でしたが、ヴェンツァーゴは強音部で速度を速め、意図的に壮大さを削る演奏で、これはこれで面白かったですが、本来の、迫力のあるフィナーレなどは聴けず、これも不完全燃焼でした。

 

今回は3回目の正直で、非常に良い演奏で満足しました。

 

外国のオーケストラに関していえば、去年の後半からチェコフィル、年始のウクライナオペラと、割と、東欧の土臭いオーケストラの演奏ばかり聴いてきたのですが、昨日のチューリッヒ・トーンハレは泥臭さのない、品の良い響きで美しかったです。聴いていると、あんまり特徴のない音のような気がしますが、複数の楽器が混じりあい出すと、日本のオーケストラでは出ないような、まろやかで上品な響きとなります。チェロの響きの味わいとか、日本のオーケストラの持つインターナショナルな響きとは一線を画し、伝統に根差した美しい響きで、本場ものだという気がしました。

 

前半のベートーヴェンはピアニストが反田恭平氏で、自分は初めて聴きます。自分はコンクールとかに全く興味がなく、反田さんは名前とか顔は認識していましたが、演奏を聴くこと自体今回が初です。

 

どんな感じなんだろうと思っていましたが、構えの大きいグランドマナーな演奏という印象。結構面白いなと思いました。今回1回聴いただけなので、良く分かりませんが、クラウディオ・アラウとかルービンシュタインみたいな、ゆとりを持ったスタイルを目指しているように見えました。

 

結末まで時間をかけたピアノ協奏曲3番でした。まだ若いのであれですが、ああいったスタイルはもっと円熟してからが本番かなという感じを持っていますが、これはこれで名演かと思います。

 

後半はブルックナーの交響曲4番。

 

正直、現代のコンサートに出向いて、ブルックナーならそれこそギュンター・ヴァントのような完璧な名演を求めているのかといわれればそうではないし、あり得ないだろうとも思っています。ある程度の範囲内で、ブルックナーに限らずですが、満足できる演奏であればうれしいかなと思って聴いています。

 

今回のヤルヴィの演奏は個人的に充分満足いく出来栄えで、素晴らしかったと思います。原因の1つはオーケストラにあると思いました。どこかメカニックで、乾いた印象のある日本のオーケストラによるブルックナーが多い中、チューリッヒ・トーンハレは滑らかで美しい響きがあり、節回しも日本それとは異なります。

 

多分ヤルヴィなら日本のオーケストラでもほとんど同じような響きは出せるのでしょうが、音響の細部における、細かい節回しや、音のシルキーな繋がりなど、これは日本のオーケストラがどんなに頑張っても出せない、欧州の味わいだと思いました。

 

こういった日本では聴かないような響きの中、ヤルヴィは推進力のある、表情の良く出た解釈を披露、素晴らしかったです。音量も無駄に大きすぎず、バランス感覚に優れたヤルヴィらしい響きです。

 

個人的にはやはり第4楽章。1番スケールが大きい楽章ですが、インバルの時は第1稿で、ヴェンツァーゴの時はスケール小さめで肩透かしを食らっていました。

 

今回は第1主題の咆哮から、濃厚な表情があり、最高でした。牧歌的な第2主題を経て、第1主題にも劣らぬ巨大さを持つ第3主題の、大きな音響が眼前に現れると、自分は心の中で「キター!」と叫んでいました。

 

やっぱりブルックナーはこうじゃないと駄目だなと思って聴き入った瞬間です。

 

展開部はこの楽章の導入楽句によって始まります。地平線に没する夕日の如く、第2主題が展開され、寂寥感と静けさが混じりあったのち、第1主題と第3主題が巨大な音響体として重ね合わされ、大自然の偉大さと神の造形への畏怖の念が、これ以上ないヒロイックな感情を伴って表現されていきます。まさに第4交響曲の白眉ですが、ここもちゃんと出ていました。最高やな~と思います。

 

 

やはりヨーロッパのオーケストラは違うな、と思いました。非常に満足しました。

 

終演後、隣に座っていた夫婦は「ブルックナーは分からん」といっていましたが、もうちょっと勉強してから来いよ、とさすがに思います。ブルックナーを聴きに行くと良くあるんですよね、「分からなかった」という声。インバルの時は2人組の若い女子が「繰り返しが多すぎる」とかのたまっておられました。聞こえてるんですよ。

 

人は自由なので別に構わないですが、それにしても、もうちょっと予習してこないか?と思います。今回なんか、それなりの値段がするチケットだし、ああゆう御仁は理解できないですね。

 

別にブルックナーの音楽が分からなくても何も問題ないと思いますが、楽しみで来ている人の身にもなってよとは思います。文句はあっていいけど、ホール出てからにしてくれないですかね。

 

というブルヲタの苦言を呈して今回は終わりにします。