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 ヒマジンノ国

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フランスの作曲家、ピエール・ブーレーズ(1925-2016)は最晩年に20世紀における、クラシック音楽ベスト10を発表しています。その内容は以下の通り。

 

エドガー・ヴァレーズ「アメリカ」、アルバン・ベルグ「管弦楽のための3つの小品」、イーゴリ・ストラヴィンスキー「春の祭典」、ベラ・バルトーク「管弦楽とチェレスタのための音楽」、アントン・ウェーベルン「管弦楽のための6つの小品」、ルチアーノ・ベリオ「シンフォニア」、カールハインツ・シュトックハウゼン「グルッペン」、グスタフ・マーラー「交響曲6番」、アルノルト・シェーンベルグ「モノドラマ、期待」、ピエール・ブーレーズ「レポン」。

 

ブーレーズの「レポン」だけではなく、例えばベリオの「シンフォニア」、あるいはシュトックハウゼンの「グルッペン」でもよいのですが、これをはじめから最後まで集中して、聴き通すことができる人が、世間に一体どれぐらいいるのでしょうか?

 

Berio - Sinfonia | François-Xavier Roth | SWR Symphonieorchester

 

↑、ベリオ、「シンフォニア」。

 

 

↑、ピエール・ブーレーズが自ら、「20世紀の名曲の1つ」という、彼が作曲したレポン。演奏には特別な環境が必要で、普通のコンサートホールでは演奏できません。仮に通常のホールで演奏したとしても、内容が難解すぎて、演奏会の基礎演目にはならないでしょう。

 

20世紀後半に発達した「現代音楽」と呼ばれる作品に、一定数の理解者がいるとはいえ、しかしそれはクラシック愛好家の中でも非常に少なく、それを更に世間一般の、音楽愛好者の絶対数から見れば、ほとんど「いない」も同然でしょう。

 

個人的な話をすれば、自分もまた「現代音楽」を好まない者の1人です(厳密な意味での現代音楽といえば、正確に「これ」と明言するのは無理があります。しかし上にブーレーズが挙げたベスト10のように、一応コンサートの演奏会に乗せることを目的とした作品とします。ミニマル・ミュージックなどは除外しています)。

 

指揮者のマウチェリが彼の著作で述べている「現代音楽」の部分から抜き出してみます。

 

<これまで述べたように大戦後、シェーンベルクが必ずしも前作より複雑な楽曲を書かなくなると、彼はストラヴィンスキー同様、ヨーロッパの前衛からたちまち見放され、音楽進化論の主導者ブーレーズから破門が宣言された。シェーンベルクは気落ちして元気がなくなり、ハリウッドでスターたちに囲まれて過ごした。前述のとおり、欧州での戦争が終わった直後(1945年9月15日)に亡くなるシェーンベルクの弟子アントン・ウェーベルン――禁欲的な作風で知られ、きわめて短く、緻密に組み立てられた曲を書いた――が、シェーンベルクに代わってセリー音楽や無調音楽の作曲家たちに創造的刺激を与える存在となった。それまで比較的目立たない存在であったウェーベルンが、その後半世紀にわたり、シリアスな音楽のゴッドファーザーになったのである。

 

「現代音楽」として認められるのは、12音に基づくセリー音楽だけだったため、20世紀の最後の頃までダーウィン=ヘーゲル・モデルが音楽の評価に用いられた。つまり、どんどん複雑化する音楽だけが価値を認められた。そうした音楽の多くは、数式を用いて作られ、高音、デュナーミク、リズム、音色をコンピューターがコントロールした。>(ジョン・マウチェリ著「20世紀のクラシック音楽を取り戻す」松村哲哉訳から)

 

「現代音楽」とは、無調から発展したセリーに加え、近代の科学的知見を取り入れた音楽とでもいえば良いのでしょうか?他にも西洋音楽は常に進化を続けてきたという信念から、ダーウィンの進化論なども加えられているようです。

 

そのおかげというべきか、絶対音楽が「音楽的な自己目的性」を中心に作られているということで、「仮に」人間がいなくとも「音楽のみ」が自律的に存在しているかのような作品ばかりとなってきました。

 

ですがこれらの作品は、人間の持つ「感覚」や「心の動き」を無視した音楽ばかりになり、一般大衆には意味不明の音楽ばかりとなりました。確かに電子音楽とクラシック音楽との繋がりを示す、ブーレーズの「レポン」など、専門家や愛好家からは、評価はあるでしょう。またこうした地道な一見意味のないような音楽から、後の新しい知見が発見されることもあると思います。

 

しかしこれらの音楽を「コンサート用の作品」といわれると、いささか引っかかるわけです。はっきりいってこれらはあくまで「研究用の」音楽であり、「コンサート用」というものからは区別すべきだと、個人的には思います。

 

また音楽が「科学」であるかどうかも微妙なところで、哲学の現象学などの立場からいえば「科学還元主義」は平均的な人間にとって見ると、一種のピーキーな考え方の1つにすぎず、これらを「真理」として見ること自体、常識の範囲から外れていきます(普段の生活の中で人々は「水を飲む」とはいいますが、「H2Oを飲む」とはいいません)。

 

実際「音」が何かといえば、空気の振動なわけで、これが「音」になっているかどうかは、はっきりと分かっていないわけです。何をいってるんだ?と思う人もいるでしょうが、人間を含む「動物」などは耳とその中に空気の振動を「音」として解釈する構造を持っているから、空気振動を音として認識するわけです。人間でいえば蝸牛管のようなものがあるからともいえます。 

 

つまり本来は空気が振動しているだけで、音などない可能性もあるものが、われわれの持つ体の器官のおかげで勝手に「音」として認識されている可能性です。

 

さて、このような問題について一定の意見を発表した指揮者がいました。それが有名なエルネスト・アンセルメで「人間の意識における音楽の基礎」という思想的書物です。

 

彼の発言の一部をある書物から引用していきます。

 

<われわれが音と音の間に音程を知覚するのは、音自体が空間のある高さに置かれたある音響位置として知覚されるからです。大体、音は耳に対してしか高さを持ちません。外界においては、音は空気の波動によって耳につたえられますが、その波動は波長によって、そこで耳にとっては、いわゆる振動数という毎秒間の波動の数によってそれぞれ特徴づけられています。したがって、音が、われわれにとって高いあるいは低い、鋭いあるいは重いというのは、もっぱら音がわれわれの内耳を通して知覚されるからです。

 

かたつむり管、あるいは蝸牛殻と呼ばれるこの内耳の器官は、らせん状にうずを巻いている管です。そして、音が聴覚意識にとって高さで呼ばれるのは、音の振動数がかたつむり管の軸に比例してある高さにおけるこの管の感性を目覚めさせるからです。要するに、聴覚意識にとって、異なる振動数の音の間に高さの相違や音程が存在するのは、それらの音がかたつむり管の中で種々の高さのレベルで知覚されるからなのです。

 

一連の異なった高さの音の知覚は、音の種々の振動数に対応するかたつむり管のそれぞれの位置を連結する電波を実際にかたつむり管の中で惹き起こします。各々の振動数比は蝸牛殻において、音程を示すロガリズム(㏒関数、つまり対数比)によって表され、振動数の比の責にロガリズムの和、すなわち音程の和が相応します。

 

したがって、音の連続をメロディーという継続的な音響線に変えるのはわれわれの聴覚なのです。この世界においては、すなわち音響現象においては、音は高さを持ちません。音と音の間に音程はないのです。もしあるとすれば時間の間隔だけであり、したがってメロディーは存在しません。高さ、音程、メロディーは、すべてわれわれの知覚の仕方に由来する、かたつむり管現象なのです。私は特にこの点を強調しなければなりません。

 

というのは、大多数の人々が、メロディーを描くのは音であり、そのメロディーを流星の跡を知覚するように知覚するのだと思っているからです。それは、知覚の現象を理解しようとするのなら、まず第1に一掃すべき錯覚です。実際、演奏家は、ある時間感覚と、同時に異なった高さの2音間の音程をもって連続する音を出します。そして、そのロガリズム的な知覚によって、2音間の相違を2つの空間的な音の位置の間の音程とし、その音程によってお互いの位置を連結し、その連続から1つのメロディーを作るのは、聴衆と器楽演奏者の聴覚です。

 

ですから、メロディーは決して音響現象ではなく、意識現象なのです。それは時間における音の連続から聴覚がうけとるイメージであり、われわれが、音響現象の上に投影するイメージなのです。>(クロード・ピケ著「アンセルメとの会話」遠山一行、寺山由美子訳から)

 

話を少し端折りますが、アンセルメは我々が感じ取る「音」の性質は、知的な側面(数学との関連性など)があると同時に、人間独自の主観的な意識現象としてみています。

 

つまり超訳していうのなら、「音」は人間を含む動物などが持つ器官によってもたらされる、空気振動に関する独自の解釈であり、物理的真理とは異なっている可能性があるということです(そういう側面が存在しているということ)。

 

 

↑、クロード・ピケ著、「アンセルメとの対話」。「人間の意識における音楽の基礎」の日本語訳がないのでこの本で代用します。評論家の故遠山一行氏が「人間の意識における音楽の基礎」の全訳を行うつもりでいたようですが頓挫。この著作の巻末にはその抄訳があるのでそれで代用します。ドビュッシーやラヴェル、ファリャ、あるいはストラヴィンスキーとの関係をみてみても、なぜエルネスト・アンセルメ(1883-1969)がこれら著名な作曲家の初演などに関わっていたのか?それが良く分かる内容かと思います。彼は単なる一演奏家ではなく、思想的な深い背景を持った、一流の指揮者であったことが感じられる著作かと思います。

 

ベートーヴェン・イヤー |  ヒマジンノ国

 

↑、アンセルメの過去記事。

 

それ故、アンセルメの思想からは外れるかもしれませんが、音の造形は「人間(生物)が聴くことによって生まれる、心理的な思い込み」である可能性があります。

 

ではこのような意識にとって、無調などの基礎とした現代音楽はどのように響くのか?

 

以前も別記事で引用しましたが、今回もまた引用します。

 

<国際前衛音楽界での種々な動き、新しい音楽のための広報活動や、多くの録音にもかかわらず、新しい手法による音楽が、どれひとつを取っても、全世界のどの国の交響楽団、歌劇場、コンサート・ホールのレパートリーとして定着していないことは、驚くべきことである。その理由は、コミュニケーションの崩壊ではないか、とされている。指揮者エルネスト・アンセルメが、自著『人間的意識内の音楽に基礎』(1961年)の中で引きだした結論ーー「新しい音楽が、正常な思考過程と聴覚的経験にとって、あまりに異質であるのは、間違った美学に基づいているからではないか」というのは、多分、正鵠を射ているだろう。>(ハロルド・C・ショーンバーグ著「大作曲家の生涯」亀井旭、玉木裕訳から)

 

これは1970年に発表された米国の音楽評論家、ハロルド・C・ショーンバーグの著作からの引用ですが、この著作から半世紀たった現代でもこの意見は充分にヴィヴィッドだと思います。

 

ブーレーズのレポンを聴いていても、自分にとってみると、正直最後まで聴くのは中々の修行です。「音楽的な聴き方」を無視をして、人間の心理的な解釈で、この音楽を聴くというのなら、初めから終わりまでサスペンス映画か何かの、不安を煽るような音楽が連続するだけで、聴後の満足感はまずないし、疲労の方が多いと思います。

 

上に書いた、現代音楽のような「聴き手の人間がいなくとも存在するような音楽」は、「音」が生物由来である可能性を退けようとしているように見えます。ところがこれらの音楽を人間の心理的側面で見てみると、結局、作曲家が「知的に見られたい」という心理を表した音楽である可能性が出てもいるように思え、あまり良い気持ちがしません。

 

ブーレーズらを始めとする、不協和音に満ちた「音楽」を聴くとき、それはあまりにも人間の心理に無関心であると同時に、自分たちが「偉く見られたい」というべき、作曲家の心理を感じ取るのは僕だけではないと思います。

 

やはり、人間が作り、人間が聴く以上、人間生活の常識を無視した音楽を、一般人が聴くには 、相当の困難が伴うようです。

 

6月19日。28年度から都響の首席指揮者になるという、ペッカ・クーシストを聴きにサントリーホールへ。

 

ペッカ・クーシストはフィンランド出身の、ヴァイオリニスト兼指揮者。今日は前半が自身の弾き振りで、シベリウスの「恋人」組曲、ヒルボリの「バッハ・マテリア」(日本初演)。後半がオーケストラの指揮のみで、タッローディの「きりん座」(日本初演)、シベリウス交響曲5番。

 

シベリウスの「恋人」ではクーシストのヴァイオリンの美音を堪能。滑らかで繊細な響きから、独特の香りがありました。続くヒルボリの「バッハ・マテリア」。今回現代音楽が2曲あり、ヒルボリとタッローディの曲です。これらは不協和音が連続するみたいな曲でなく、聴きやすい音楽で、コンサートで聴く分には悪くないなと思いました。

 

「バッハ・マテリア」は作曲家がクーシストに捧げた音楽ということで、クーシストは正に水を得た魚のよう。本当に生き生きと演奏をしました。演奏者がチューニングをしているのかと思っていると、実はもう音楽が始まっており、知らないうちにクーシストも加わって、20分程度のヴァイオリン協奏曲といって良いような、音楽になっていきました。即興性を求められる場面があるとかで、かなりジャズに近い響きの部分もあります。同時に、中間部はおそらく緩徐楽章の部分だと思いますが、懐かしいメロディが顔を出し、しっとりと聴かせもします。最初のチューニングを思わせるガチャガチャした響きから、幾重にも別種と思える音楽が重なって、一筋縄ではいかない音楽だと思いました。

 

このような複雑な音楽をクーシストは軽やかに、のびのびと演奏し、聴衆を驚かせます。只者ではない感じがします。

 

後半は交響詩の「きりん座」から。分かり易い描写音楽で、夜空に輝く星々とか、夜景に響く動物のさえずりなどを感じさせる音楽でした。聴きやすい音楽で10分程度。

 

ラストはシベリウスの交響曲5番。

 

クーシストは粘らないすっきりした演奏で、中々の快速。セクションごとの分離の良い演奏が多い中、若干団子気味ともいえる響きで押し通していきます。ヴァイオリンの主旋律など、やや埋没気味です。特に第1楽章では、後半積み上げられた動機が、北欧の澄み切った青空を思わせるような、大気の厚みを感じさせるような響きとなりますが、ここもこの指揮者は粘らずに、ずんずん進んでいきました。この辺りテンポを落として粘る指揮者も多い中、独特だという感じですね。同時にスケールはそんなに大きくない指揮ぶりだとも感じます。しかしその分シベリウス特有の爽快さは出ていました。

 

音も決して大きくなく、繊細で、シベリウスに必要な響きです。

 

第3楽章、今度は打って変わって、場面ごとの描き分けがあり、繊細な響きと相まって個人的には今日一の素晴らしさでした。オケによって、幻想的に切々と雪が降りしきるような印象が与えられる中、木管群によるあの懐かしい響きが歌われる時、シベリウスの音楽の美しさは極まります。

 

しなやかに響き渡る音楽は中々の素晴らしさです。

 

終演後はかなり湧きました。確かに相当な才人だと感じさせる演奏会で、驚きだったのは確かです。ただ指揮者としてはどうなんでしょう?シベリウスはあれで良いと思いますが、スケールが大きく、分厚い響きの音楽は難しそうです。

 

彼の本質は今日聴かせた2曲の現代音楽のような、過去にとらわれない斬新な資質にあるのかもしれません。

 

 

 

先日スター・ウォーズ最新作である「マンダロリアン・アンド・グローグー」を映画館で観てきました。

 

最近は人気に陰りが出てきているスターウォーズ・シリーズですが、劇場版は7年ぶりということらしいです。マンダロリアンというのは、スターウォーズ世界に存在する、アーマーを着た戦闘種族の名前です。その英雄、ディン・ジャリンが、グローグーと呼ばれる小さな子供のお供を連れて、悪を成敗するお話です。

 

原型はディズニープラスでドラマ制作されている「マンダロリアン」シリーズで、今回はシーズン3の続きとして制作されました。シーズン3の最後に出てきた、「反乱者たち」のゼブも登場。

 

 

個人的見解では今回は完全にファミリー向け、子供向きに振り切った内容に見えました。専門家の評価は低いですが、オーディエンス評価は好調のようで、終演後、この日も若い人たちが「面白い」といっていたのが聞こえてきました。

 

ドラマシリーズを知らなくても分かる程度の内容で、孤高の戦士ディン・ジャリンが、悪者たちを次々と倒していきます。なんというか、王道といえば王道の内容で、多くの人達に受け入れられそうな内容でした。ディズニー風スターウォーズとしては成功の部類かと思います。

 

 

しかし従来のコアなスターウォーズを期待すると、「何か違う」という人も多いと思います。ライトセーバーは一切出てきませんし、ジェダイの騎士もいないという、スターウォーズとなりました。個人的に面白いというほどの内容ではないですが、今後アソーカ・タノのシリーズも映画化するそうなので、その辺の伏線もあるかと思って観ていました。ドラマシリーズなんかを観ている人たちにとってみると、エズラ、アソーカらとスローン大提督の戦いが、これらのサーガの最大の見どころになっていくんじゃないかという期待があります。

 

今回の映画で、素晴らしいと思ったのは映像と音楽です(一応スクリーンXの大きな画面で鑑賞)。これはどちらも良くできていたと思います。コンセプト画そのものを映像化したようなクリチャーやロケーションの映像などは見ごたえがありました。音楽も従来のスターウォーズの音楽とは異なりますが、ドラマシリーズを知っているのなら、お馴染みのモチーフがあり、また、斬新な響きの音楽などが、かなり充実していた印象です。

 

2026年1月をもって、悪名高きルーカスフィルムの社長だった、キャスリーン・ケネディが退任。彼女はスターウォーズの正史に、ポリコレを持ち込みファンから大スカンを食らうエピソード7・8・9を制作しました(若い人たちを中心に、評価をしている人もそれなりにいるようです)。その後もスターウォーズ・シリーズ初の赤字映画となった「ハン・ソロ」、シーズン1で打ち切りとなったドラマシリーズの「アコライト」などを手掛け、次々とスターウォーズ・シリーズを破壊。

 

現状まだ噂段階ですが、エピソード7・8・9を、ディズニーがなかったことにするのではないかという話が出てきています。エピソード7・8・9のグッズなども全く売れていないそうです。

 

 

今回の「マンダロリアン・アンド・グローグー」の脚本はジョン・ファブロ―とジョージ・ルーカスの1番弟子といわれるデイブ・フィローニが担当しています。

 

ジョージ・ルーカスはスターウォーズを組み立てる際、神話学者のジョーセフ・キャンベルの提唱する、英雄の旅を描いた神話プロットを採用しています。そしてスターウォーズほどこの神話論理に忠実に作られた作品はないといわれており(特にエピソード4・5・6)大変な成功を収めました。

 

こうしたルーカスの持っていた物語のバックボーンに比べればデイブ・フィローニの作品は中々面白いものが多いものの、どこか同人誌的な感じがするのはやむを得ないでしょう。

 

それでも彼の作品は、いつも子供が見られるような内容になっていることが多く、作家としての良心を感じさせます。

 

今回の映画も、そのような良心を感じさせる映画で、今後も期待しても良いのじゃないかと思いました。

 

昨日はサントリーホールで、チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団を鑑賞。曲目はブルックナー交響曲4番と、ベートーヴェン・ピアノ協奏曲3番。指揮者はパーヴォ・ヤルヴィ、ソリストは反田恭平。

 

ブルックナー4番を実演で聴くのが今回が3回目。1回目はエリアフ・インバルの指揮でしたが初稿の演奏と知らずにチケットをゲット。演奏自体は良かったですが、初稿故、不完全燃焼でした。2回目はヴェンツァーゴの演奏でした。これは通常の4番でしたが、ヴェンツァーゴは強音部で速度を速め、意図的に壮大さを削る演奏で、これはこれで面白かったですが、本来の、迫力のあるフィナーレなどは聴けず、これも不完全燃焼でした。

 

今回は3回目の正直で、非常に良い演奏で満足しました。

 

外国のオーケストラに関していえば、去年の後半からチェコフィル、年始のウクライナオペラと、割と、東欧の土臭いオーケストラの演奏ばかり聴いてきたのですが、昨日のチューリッヒ・トーンハレは泥臭さのない、品の良い響きで美しかったです。聴いていると、あんまり特徴のない音のような気がしますが、複数の楽器が混じりあい出すと、日本のオーケストラでは出ないような、まろやかで上品な響きとなります。チェロの響きの味わいとか、日本のオーケストラの持つインターナショナルな響きとは一線を画し、伝統に根差した美しい響きで、本場ものだという気がしました。

 

前半のベートーヴェンはピアニストが反田恭平氏で、自分は初めて聴きます。自分はコンクールとかに全く興味がなく、反田さんは名前とか顔は認識していましたが、演奏を聴くこと自体今回が初です。

 

どんな感じなんだろうと思っていましたが、構えの大きいグランドマナーな演奏という印象。結構面白いなと思いました。今回1回聴いただけなので、良く分かりませんが、クラウディオ・アラウとかルービンシュタインみたいな、ゆとりを持ったスタイルを目指しているように見えました。

 

結末まで時間をかけたピアノ協奏曲3番でした。まだ若いのであれですが、ああいったスタイルはもっと円熟してからが本番かなという感じを持っていますが、これはこれで名演かと思います。

 

後半はブルックナーの交響曲4番。

 

正直、現代のコンサートに出向いて、ブルックナーならそれこそギュンター・ヴァントのような完璧な名演を求めているのかといわれればそうではないし、あり得ないだろうとも思っています。ある程度の範囲内で、ブルックナーに限らずですが、満足できる演奏であればうれしいかなと思って聴いています。

 

今回のヤルヴィの演奏は個人的に充分満足いく出来栄えで、素晴らしかったと思います。原因の1つはオーケストラにあると思いました。どこかメカニックで、乾いた印象のある日本のオーケストラによるブルックナーが多い中、チューリッヒ・トーンハレは滑らかで美しい響きがあり、節回しも日本それとは異なります。

 

多分ヤルヴィなら日本のオーケストラでもほとんど同じような響きは出せるのでしょうが、音響の細部における、細かい節回しや、音のシルキーな繋がりなど、これは日本のオーケストラがどんなに頑張っても出せない、欧州の味わいだと思いました。

 

こういった日本では聴かないような響きの中、ヤルヴィは推進力のある、表情の良く出た解釈を披露、素晴らしかったです。音量も無駄に大きすぎず、バランス感覚に優れたヤルヴィらしい響きです。

 

個人的にはやはり第4楽章。1番スケールが大きい楽章ですが、インバルの時は第1稿で、ヴェンツァーゴの時はスケール小さめで肩透かしを食らっていました。

 

今回は第1主題の咆哮から、濃厚な表情があり、最高でした。牧歌的な第2主題を経て、第1主題にも劣らぬ巨大さを持つ第3主題の、大きな音響が眼前に現れると、自分は心の中で「キター!」と叫んでいました。

 

やっぱりブルックナーはこうじゃないと駄目だなと思って聴き入った瞬間です。

 

展開部はこの楽章の導入楽句によって始まります。地平線に没する夕日の如く、第2主題が展開され、寂寥感と静けさが混じりあったのち、第1主題と第3主題が巨大な音響体として重ね合わされ、大自然の偉大さと神の造形への畏怖の念が、これ以上ないヒロイックな感情を伴って表現されていきます。まさに第4交響曲の白眉ですが、ここもちゃんと出ていました。最高やな~と思います。

 

 

やはりヨーロッパのオーケストラは違うな、と思いました。非常に満足しました。

 

終演後、隣に座っていた夫婦は「ブルックナーは分からん」といっていましたが、もうちょっと勉強してから来いよ、とさすがに思います。ブルックナーを聴きに行くと良くあるんですよね、「分からなかった」という声。インバルの時は2人組の若い女子が「繰り返しが多すぎる」とかのたまっておられました。聞こえてるんですよ。

 

人は自由なので別に構わないですが、それにしても、もうちょっと予習してこないか?と思います。今回なんか、それなりの値段がするチケットだし、ああゆう御仁は理解できないですね。

 

別にブルックナーの音楽が分からなくても何も問題ないと思いますが、楽しみで来ている人の身にもなってよとは思います。文句はあっていいけど、ホール出てからにしてくれないですかね。

 

というブルヲタの苦言を呈して今回は終わりにします。

 

5月5日、上野で開催中の、米国画家アンドリュー・ワイエスの回顧展を見にいってきました。

 

上野公園は相変わらず人だらけで、何か買おうと思うと並ぶことが必須みたいな感じでした。

 

 

アンドリュー・ワイエス展も人が多いと思っていたのですが、他人のスレッドなんか見ると、今日の感じはそうでもないらしい。自分は20年以上前?箱根でこのアンドリュー・ワイエスを見たことがあって、その時はほとんど貸し切り状態でした。

 

今日は見たい絵があると、少し待たないといけない感じで、立ちっぱなしになり、腰が痛かったです。上野の美術館はほとんど行かないので、知らなかったのですが、もっと有名な画家とかだとまともに見ることすら難しいとか。

 

展示で面白いと思った作品は半分ぐらい。ワイエスは精緻な写実主義者で、力の入った作品は細かいところまで神経を使って描いているのが良く分かりました。

 

殺伐として、白色を基調にした風景画が多いです。しかし殺伐としながらも全体に静けさを感じさせて、光の加減なども美しかったです。

 

 

↑、クリスティーナ・オルソンという作品が展示されていて、間近で見ると木の扉の木目などやたら細かく描いてありました。ああいうのは写真では伝わらないですね(写真は借り物です)。

 

残り半分の作品は、彼のプライベートに焦点を当てた習作などが多く、ちょっとお腹いっぱいになりました。

 

4月26日、サントリーホールでスペインの指揮者、パブロ・エスラ=カサド、東京交響楽団による演奏会を鑑賞。曲目はシューベルトの未完成交響曲、ブルックナーの交響曲6番。

 

パンフレットには、カサドは欧州で人気があると出ていますが、相変わらず自分はその辺の事情は疎いので、今回はブルックナーの6番を聴きたくてチケットを取りました。当然ながらカサドも初めて聴きます。

 

前半はシューベルトの未完成交響曲。洗練された響きで現代的でした。音も粘らず透明感も高い。今風といえば今風。しかし繊細というよりは、悲劇的な部分では激しい強音を見せるなどして、思いの外、劇的な演奏でした。音楽を通して感情を表に出すタイプで、個人的には聴きやすいと思いました。中々力強くもあり、美感もありで良かったと思います。

 

後半はメインのブルックナー。深みがあるかどうかは別として、この人オーケストラを鳴らす手腕は中々だと思えるような演奏でした。

 

従来のブルックナー6番に抱く印象とは違うような、明るいオーケストラの音色。特に金管軍は輝かしいぐらいの音色で、朗々と鳴ります。また各旋律や音型の造形も、感情が乗り鮮やかです。時には行進曲のように、オケの足並みをガッチリ揃えて推進力のある進行を見せたりと、曲の持つ曲想を表情多彩に表現していきます。

 

カサドは気力や活力を感じさせる指揮ぶりで、音の強弱を使ったり、あるいはテンポの交錯を狙ったりと、単調にならない、色々なアプローチを見せました。また自分の感じた情熱のまま演奏している、というやり方は、演奏者のメッセージを伝えるのに適していると思います。

 

陰りがないことを除けば、ブルックナーの曲想に合致した解釈であったことも間違いないと思います。フィナーレのコーダなども、大胆で劇的な表現だったりして楽しめました。これも伝統的なブルックナー像とは違うのでしょうが、名演の部類かと思いました。

 

恐らくですが、こういう演奏を録音で聴き直すと、ちょっとやりすぎではないのか、みたいな感じがあると思います。しかし、一期一会のコンサートであればありだなと思いますし、お客さんも盛り上がりやすいでしょう。

 

実際、散々オーケストラから多様な響きを引き出したカサドの手腕に皆さん驚いた風でして、相当なブラボーが飛びました。オケがはけても沢山の人が帰らず、参賀となりました。

 

 

派手目なブルックナー6番の演奏という感じでしょうか。しかしカサドの東京交響楽団のデビューは好印象ということだと思います。

 

 

アークヒルズは蚤の市で人だかり。今日は20度ぐらいの気温で、お日柄も良く、新緑が美しい気持ちの良い1日でありました。

今回はクラシック音楽を聴く側として、生演奏と録音の差などを書きていきたいと思います。

 

コンサート・レコード・CDについて簡単に書いています。ストリーミングは聴かないので、触れていません。またレコードについては中古市場が活発で、特に過去の名演奏家のレコードについては中古品の記述などがありますので、よろしくお願いします。

 

さて、自分がクラシック音楽を聴き始めたころは、録音媒体としてCDが主流でした。その後時間が経って、自分がレコードを主体的に聴くようになるとは、夢にも思っていませんでした。

 

それほど細かいことを気にせずにいうのなら、レコードよりも、CDの方がコンサートの音に近いような気がします。

 

コンサートで聴く音の音質は、音の透明感とか、滑らかさはCDの感覚に近い、という感じですかね。しかしレコードを聴いたあと、CDで音楽を聴くと、音が硬い、味気ないとも感じます。

 

やはり音楽は生の演奏を聴くのが1番良いのだろうと思います。スケールの大きい音楽の迫力なんかは、家庭の音響装置では限界があり、録音で聴いたものと、実際に生で聴いたものとの違いに驚くこともあります。

 

去年ボエームを生で観ましたが、第3幕の大きな空間を使った、生きた絵画のような雰囲気は、映像や録音では感じられないと思いました。

 

しかしここは日本。生で歌劇を観たり、気に入ったコンサートを聴いたりというのは、それこそ東京にでも住んでいなければ中々難しいと思います。日本人のクラシック鑑賞が録音中心になるのは、仕方のないことといえるでしょう。

 

個人的には、コンサート以外で音楽を聴くとなると、最近は大体がレコードで聴くようになりました。レコードを聴くようになってから、CDの音は圧縮されていると特に実感するようになり、音の硬さなどを含めると、音楽を聴いていて疲れるというか、そういう印象も感じるようになりました。

 

かといって全くCDを聴かないというわけでもありません。クラシック以外の音楽はCDで聴くことが多いし、レコードになっていない音源はCDで聴くしかないですね。

 

最新の録音など、そのままレコードになる時もありますが、まずはストリーミングかCDか、という感じでしょうか。リサ・バティアシュヴィリなどショスタコーヴィチやプロコフィエフの良いアルバムがあるんですが、なぜかレコード化してません。ヒラリー・ハーンや、最近ではマリア・ドゥエニャスなんかもレコード化してるのに、解せません。本人が嫌がっているのでしょうか。こうなるとCDで聴くしかありません。

 

 

↑、バティアシュヴィリによるショスタコーヴィチとプロコフィエフのアルバム。アナログ盤になったら購入しようと思っていたのですが、現状まだ販売されていないと思います。来日も中々してくれません。マリア・ドゥエニャスのLPも購入しましたが、それほど感銘は受けませんでした。こういうことをいうのは何ですが・・・ドゥエニャスについては、美人だから採用しているのでは?という勘繰りが自分にはありますが・・・。

 

プロコフィエフのVコン |  ヒマジンノ国

 

↑、過去記事です。

 

レコードは実際のところ、音がザラザラするときもありますし、ノイズも乗ります。しかし音の味わいはどうしても、あくまで個人的な感想ですが、CDの上をいくような気がします。

 

特に弦楽器に対するレコードの優位性は高く、中古レコードは値段が跳ね上がるものも多いです。有名なところだと、男性ではレオニード・コーガン、女性ではヨハンナ・マルツィなどのオリジナル盤が非常に高価で、日本円で70万円とか80万円とかします。

 

 

オイストラフとクレンペラーによる、ブラームス・ヴァイオリン協奏曲の名盤(1960)。

 

SAX2411。

 

 

↑、コ―ガンとオイストラフを比べると、オイストラフの方が実力が上、というのが一般的な見方だと思います。ただオイストラフのレコードは高価ですが、それ以上にコ―ガンのレコードが高いのが事実です。この辺もレコードの特殊性が出ていると思います。コ―ガンのレコードは、市場に出回ったものが少ないと考えられます。コ―ガンのオリジナル盤を聴いてみたいと思いますが、まず無理なので諦めています。

 

確かにピアノの音のように、音が面で広がる場合、レコードは若干不利なのかもしれません。針圧を間違えると、ピアノの音色は音が割れやすいようです。だからといって、決して音が悪いわけではなく、弦の方が向いているという話です。

 

こうなってくるとレコード鑑賞というのは、生のコンサートを聴いたり、CDで録音を聴いたりというのとは、また違う鑑賞の芸術だと思うようになりました。

 

特に1950年代や60年代、初期のステレオ録音など、レコードの音が素晴らしく、これは技術が進んだ現代でも同じ音を再現できません。モノラル録音についても、CDで聴く時よりもずっと音が柔らかく、透明感があります。

 

これは自分の推測にすぎませんが、レコードが開発された当時はやはりそのレコードの作り手に、相当の気合があったのだと思っていて、UKのコロンビア、デッカ、HMVの初期ステレオ録音などを聴いていると、おそらくは実際の録音よりも良い音になっているんじゃないか?と思える場面が多々あります。

 

つまりレコードはレコードの持つ特有の音も含めて楽しむもので、実際のコンサートとはまた違う楽しみだと思うようになりました。実際のコンサートの音でないのなら「インチキ」だという意見もあると思います。しかしそのようなレコードが存在する以上、聴きたいと思う人はそれなりにいるわけで、これはやむを得ないでしょう。

 

 

アニー・フィッシャーとエイドリアン・ボールトによる、モーツァルト・ピアノ協奏曲20番、23番(1958)。

 

SAX2335。

 

 

↑、このレコードのピアノの音が美くてびっくりします。多分実際の音はこんな音ではなかったと思います。これもレコードの音のマジックではないでしょうか。味わいの深さがと爽やかさが同居した美音です。

 

 

クラウディオ・アラウによる、ショパン・ピアノソナタ3番(1960)。

 

OS3025。

 

 

↑、上記オイストラフとアニー・フィッシャーのアルバムはUK盤ですが、このアラウのアルバムは国内盤です。日本人は物持ちがよく、国内盤のレコードは綺麗な状態の美品が多いです。レコードの出来栄えは一般にUK盤が1番良いことが多く、価格も高価です。それに比べると中古品の国内盤はUK盤の10分の1以下という価格設定の場合も多いです。音は決して悪くなく、非常に滑らかです。ただ、50年代、60年代のレコードは、どうしても音のリアリティが外国産よりも劣ることが多いので、安くなりがちだと思います。しかし、贅沢をいわなければこれでも充分だと思います。

 

金曜日、サントリーホールでBCJによる「マタイ受難曲」を鑑賞。聖金曜日の演奏ということらしいです(イエスが4月の金曜日に亡くなったという伝承から)。

 

BCJは古楽器による全曲演奏で、指揮者は鈴木優人氏。鈴木さんとBCJのコンビを聴くのは今回が2回目です。前回がメサイアでした。前回同様、古楽器ながら柔らかめの響きで、劇的に過ぎない、静かなドラマ性を感じさせる演奏で、非常に美しかったと思います。

 
自分はマタイを生で聴くのは今回が初めてですが、この曲の響きの美しさを堪能しました。合唱も精度が高く、透明感があります。
 
コラール、レチタティーヴォ、アリアなどの書法、そこに4種の人間の声を組み合わせ、一定の世界観を作りつつ、色彩的な音色が清潔に広がっていくのは素晴らしく、バロック音楽の持つ、自然と人間の感情が一体になった雰囲気に魅了されます。
 
あっという間の3時間になりました。
 
録音だけでは中々分かりにくい、響きの広がりとか透明感を実感できました。
 
さすがにマタイを聴きに来るお客さんだけあって、会場は静かで集中力も高かったと思います。
 
少し話はずれますが、個人的にはイエスの伝承を全て信じるか?といわれれば難しいところがあり、ダ・ヴィンチ・コードではないですが、妻と子供がいたイエス像の方がリアルに近いものではないかと思っています。
 
ただ、この曲はイエスの奇蹟がメインの主題なので、善人が受けるいわれなのない中傷や、悲劇などが同情的な音楽の中で展開する様は、イエスの奇蹟を信じたくなるものがあります。
 
ゆっくりと進むドラマの中に、積み重ねられて行くバッハの信仰心は、他人の心を動かす強い力があります。全曲聴き通すと独特の雰囲気になるんですね。その独特の雰囲気と感情は、言語化しにくいです。
 
歌手はエヴァンゲリス卜の櫻田さん、イエスを演じたクリストフ・フィラー、男性アルトのテリー・ウェイが特に素晴らしかったです。
 

 

昨日はピアニストの、アンドラーシュ・シフのリサイタルを聴きに、所沢ミューズに行ってきました。

 

15時開演のコンサートで、会場は満席。自分は恥ずかしながら、いつも通り(?)、シフを初めて聴きます。あんまりよく知らないので、色々書くと怒られそうですが、現代の巨匠?みたいな感じなんでしょうか。ハンガリー生まれ(1953年)で、英国からはサーの称号も貰っているような人物です。

 

チラシにはバッハの評判が良いとか書いていますが、多分ファンはそれだけではないという意見でしょう。

 

しかし今回のコンサート、前半だけで1時間半。内容を事前に教えてもらえないので、いつ終わるのか不安になったりしました。

 

その前半だけでも、バッハから始まって、ハイドンのソナタ、モーツァルト2曲、ベートーヴェンの田園ソナタと盛りだくさん。ピアノソナタを3・4曲連続して聴く感じで、若干の眠気が襲います。

 

自分は仕事の疲れのせいもあるんですが、モーツァルトぐらいから意識が飛ぶ瞬間があり、2度ほど寝落ちしました。

 

シフのピアノの音色は、高い練度と純度が同居した、角のない柔らかい音で、表現も自然。バッハなどは日常に潜む、生きる喜びが、音の内部から柔らかく滲み出るような演奏(ゴルトベルグのアリアと、フランス組曲5番)。

 

ハイドンは初めて聴く曲で(ソナタ33番)、繰り返しが多く少し退屈しました。モーツァルト(幻想曲とロンド)も美しい瞬間がありましたが、少し地味すぎるかなという印象もあり、先も書きましたが眠気が襲ってきました。

 

ベートーヴェンの田園ソナタはおそらく名演だったんですが、眠気が取れず、半分ぐらいしか覚えていません。

 

前半は選択された曲の曲調が、個人的に、全体に似かよった感じがあり、それを連続して演奏するので、少し一本調子に聴こえるような気もして、やや疲れました。

 

後半はシューベルト4曲(アレグレットや即興曲などから)が美しい名演、その後ベートーヴェンのソナタ30番をやりました。これも詩的な感情が乗る名演で、弾き終わったシフはかなり疲れた様子です。

 

これで終わりかな、と思っていたんですが、ここから大アンコール大会が始まり、なんと8曲もアンコールをやりました。お客さんも帰ろうとして、用意をしますが、シフが繰り返し袖から出てくるので帰れません。

 

拍手に応えて出てきては1曲弾き、袖にはけてはまた出てきて1曲弾き、の繰り返しです。

 

ベートーヴェンから始まり、ブラームス、モーツァルト、シューベルト、ショパン・・・と全て暗譜で続々弾いていきます。

 

料理のフルコースどころではない大演奏会となって、皆さん大盛り上がり。最後はスタンディング・オベーションとなり、びっくりです。

 

調べると他のリサイタルでも似たようなことをしているようなので、昨日が特別ということでもなさそうです。確信犯かもしれません。ガランチャの時も5曲アンコールやって、全員総立ちになっていたので同じ様な感じでしょうか。

 

なんというか、演奏の内容が素晴らしいというのもあるんですが、それ以上にプロの演奏家の、ショウマンシップみたいなのを実感したリサイタルでした。

 

15時開始のリサイタルで、終了時刻が何と18時25分。こんなにピアノの音色を1度に沢山聴く機会は、中々ないかと思いますね。

 

 

高市さんがD・トランプと会談のために訪米中とか。ホルムズ海峡の話なんかをしたらしい。色々いわれているようですが・・・。

 

少し話はずれますが、自分は以前の記事で次のように書きました。

 

自民党大勝 |  ヒマジンノ国

 

「簡単にいえば、トランプ政権はリベラル思想・政策の排除に努めており、おかげで世界情勢そのものが変わったということです。日本は米国の軍事戦略に引っ張られて、中東へ軍事派兵する可能性もなくなりました。」

 

て書いてるんですが、真逆のことが起こっていて、さすがに我ながら草です(^-^;。恥ずかしいです。中東へ自衛隊の艦船を送れという話になりましたが・・・一応送らなくて良いようです。

 

D・トランプ氏もベネズエラの時のように、上手くいかなかったのでしょう。ちょっと焦っているように見えましたね。しかし今回は、トランプもあんまり印象良くないですね。

 

イランへの攻撃も、ここまで急ぐ必要がありますかね。おかげでMAGAは分裂気味。西側では割とトランプ寄りだったメローニも米軍のイラン攻撃を批判しました。

 

イヴァンカ・トランプの娘婿のクシュナーは有名なシオニストのユダヤ人。ネタニヤフが彼と仲が良く、家に泊まりに来るほどの関係らしいです。この辺にせっつかれると、D・トランプも断れないのでは?

 

それに良くいわれるように、トランプ政権は福音派のキリスト教的な終末論に偏った関係者が多く、今回のイラン戦争もその終末論に関係しているという人も多数います。

 

トランプとガザ |  ヒマジンノ国

 

 以下、私見を含めて個人的に感じることを書いておきます。

 

 D・トランプ氏は福音派に属しており、彼も終末論を信じている可能性があります。ホワイトハウスでは彼の重要なブレーンの1人である、福音派の牧師ポーラ・ホワイト氏とともに祈りを捧げています。

 


彼女は福音派の重要な牧師だそうで、2025年、トランプが設置した信仰局の局長に選ばれています。おそらく米国大統領の精神的支えとなっていると考えられます。

 

 

またトランプ政権の陰の大統領ともいわれる、実業家のピーター・ティ―ル氏も高市総理を訪問。表舞台に出てきました。

 

トランプ氏 |  ヒマジンノ国

 

トランプ氏が、エプスタイン・ファイルの公開に躊躇した理由の1つのが、このティ―ル氏との関係だったのでは?などと噂されました。

 

ピーター・ティ―ル氏は保守的なキリスト教徒といわれ、国連などの他国籍の集まりが世界を支配するのは間違っているといいます。彼はキリスト教に根差した、徳のある人物や政治家でなければ世の中を良くできないといい(現トランプ政権の方向性と合致している)、国連のようなリベラル勢力の強い政治体制などを、キリスト教の黙示録に登場する「アンチ・キリスト」と呼んでいます。

 

人間の競争によって生まれる、暴力社会や、一部の為政者が行う管理社会は間違っているといい、戦争なども、有能なキリスト者が抑制的に運営できるようにと、彼が生み出した会社が軍事企業の「パランティア」です。

 

しかし、なんだ?この思想、という感じの思想ですね。今までどこかで聞いたことないかな?みたいな話よね。

 

その人物が高市総理に会いに来たというので、結構な反発がSNSでは出ていますね。日本人の個人情報をパランティアに流すのか?と。

 

疑問など |  ヒマジンノ国

 

色々それらしいことをいっていますが、ティ―ルのいっていることも結局人類を管理する話にしか聞こえませんけどね。彼なんかもトランス・ヒューマニズム肯定派ですし。やっぱり何か裏があるかな、とは感じますね。トランス・ヒューマニズムなんてのも元来左派連中の主張じゃないの?と自分なんかは思います(上の過去記事の中で、ティール氏が無神論者だと書いていますが、違うようです。修正いたします。トランス・ヒューマニズムもどれぐらい支持しているかなど、細かいところはまだ良く分かりません)。

 

こういう人らって、最後は管理社会を作りたがる人ばっかりで嫌になります。左からいっても右からいっても、結局最後は同じ答えになる、では困るんですけどね。