ヒマジンノ国 -2ページ目

 ヒマジンノ国

ブログの説明を入力します。

 

予想通り自民党が大勝。316議席を獲得。戦後最大の議席数となり、維新などの勢力合わせると350議席を超える巨大与党となりました。自民党も復活、ということで、色々思うこともあります。

 

正直勝たせ過ぎだと思いますが、今回はどうしようもないです。

 

高市人気もありますが、野党がひどすぎます。

 

今の高市政権が良いものに見える背景には、日本の裏権力の交代があったからだと思います。「裏権力」なんていっていますが、一応ざっくばらんにいえば、米国の政権が変わったということ。

 

結局米国の意向で、日本の政権は方向性を決めなければならないので、バイデンの極左政権が、MAGAのトランプ政権になったせいで、日本もそれに習う必要が出てきたのだと思います。

 

この話を去年の年末にまとめようと思っていたのですが、時間がなくて諦めました。

 

簡単にいえば、トランプ政権はリベラル思想・政策の排除に努めており、おかげで世界情勢そのものが変わったということです。日本は米国の軍事戦略に引っ張られて、中東へ軍事派兵する可能性もなくなりました。

 

ブッシュ、クリントン、オバマ、バイデンによる、米政権のグローバリズム展開は国連軍の創立などといいながら、各国の軍事力を自分たち(トランプのいうDS)の野望のために利用するスタイルでした。これは軍事力に限らず、各国の政治も利用されてきました(ウクライナも同じことです)。

 

ところがトランプ政権になって、その軛が一旦外れたということです(影響は別の形で出てきています)。

 

これは欧州も同じで、イタリアは比較的従順ですが、英・独・仏・カナダなどは未だトランㇷ゚の政策に反発しています。しかし今後、彼らも折れていく可能性があると思います。

 

このように世界的にリベラル思想や、政治家が批判される状況が創り出されており、日本でも同様だということ。これは現状やむを得ないことで、旧勢力が創りだそうとしていたNWO(新世界秩序)が失敗したことを意味します。

 

日本国内でも、その旧世界の秩序を作り出そうとした勢力が表舞台から消えつつあるということです。

 

恐らく旧勢力は米国のDSが中央におり、中国辺りを利用しつつ、世界的規模の政府や監視体制の構築を狙っていたと考えられます。

 

日本の立憲、公明、共産党などこうした動きの中で最早政治的な意味がなくなりつつあります。またこういった世界の中で、自分たちの意義や価値観を表現できないのなら、今後は選挙などでも選ばれなくなっていくでしょう。

 

歴史的な転換点なのだと思います。それが理解できない人たちは用済みとなってきています。

 

しかし今回の選挙で選ばれた人たちが、そのことを理解しているかといえば、多分ほとんどの議員がそんなこともないし、今の政治に妥当な人たちかといえばかなり疑問があります。

 

高市政権は石破や岸田政権よりもずっと良いと思いますが、変化が不可逆に動いている中で、変に悪かった部分が、方向変換したせいで良く見えているだけ、という可能性もあると思います。

 

そういう状況の中で、高市政権の、その方向性の先に何があるかは、現状の自分では、推測はしかねます。

 

昨日はサントリー・ホールで、ジェームズ・フェデック指揮、読売交響楽団によるブルックナー交響曲7番を鑑賞。

 

当初の予定ではスイスの指揮者、マリオ・ヴェンツァーゴが指揮する予定でしたが、体調不良でニューヨーク出身のジェームズ・フェデックに変更になりました。

 

2月はフルシャ&N響か、このブルックナー7番か迷ったのですが、フルシャはあんまりプログラムにそそられなかったので、こちらに出向いてきました。

 

ヴェンツァーゴは前回の来日時、ブルックナー4番を聴いて結構癖の強い内容だったので、今回もそれなりに内容を予想して出かける予定でした。しかし初めて聴く指揮者に変更となり、予定は真っ新に。

 

前半はソリストに諏訪内晶子を迎え、細川俊夫氏のヴァイオリン協奏曲「ゲネシス」をやります。現代音楽といって良いと思います。割と聴きやすい曲で、18分ぐらい。ブルックナーとかマーラーの前座でたまにこういった現代音楽をやる時があります。前回のヴェンツァーゴの時は、スクロヴァチェフスキの交響曲をやりました。

 

しかし何だろう、こういった現代音楽って、もう1回聴き直したい、と思う曲がまずないですよね。

 

最近SNSで「クラシック音楽の衰退」を憂うスレッドを見かけましたが、こういった現代音楽を聴くと「そういうとこやぞ」と思いますね。作曲家とか専門家しか認めないような音楽ばっかりだと、誰も聴かなくなると思いますね。「芸術」は自由なのかもしれませんが、何をしても良いってことにはならないのでは?自分には贅沢病としか思えんけどね。

 

後半はメインのブルックナー7番。どうなるかと思いましたが、ヴェンツァーゴと違って、フェデックは自然体の演奏で、非常に良かったです。

 

初めの2つの楽章は滑らかすぎるきらいはありましたが、先を急がない演奏で、結構じっくり聴かせました。朴訥というか、作為のない演奏で、ブルックナーのこういう演奏は定番かな、と感じます。

 

スケルツォも力瘤の入り方は興奮を呼ぶもので、満足。

 

フィナーレも軽くなりがちの内容ですが、フェデックは強弱の変化をつけて、重心が低く、立派に仕上げていました。後半の2つの楽章の方が集中力があったと思います。

 

まずまずのブルックナーだったのではないでしょうか。

 

しかし、この日は自分が座った席の2列か3列目ぐらい後方、割と真後ろからフライング・ブラボーが炸裂。第3楽章が終わったぐらいから、年配男性の妙なうめき声が漏れ、2人でコソコソ話している声が聴こえました。第3楽章、中々良かったので「興奮しているのかな」と思いました。

 

そして曲が終わってフライング・ブラボー。先の2人組と同じ方向から聴こえてきたので、直感的にそいつ等だと。自分はあんまり気にしない方なんですが、フェデックは明らかに嫌な顔をしてました。あれだけ話題になって、我慢できないとは、動物か?

 

それ以外は皆さん盛り上がって、良いコンサートでした。

 

 

次回衆議院選挙の投票日が2月8日。その選挙の争点の1つに上がっているのが「移民問題」です。

 

労働力不足に伴い、その労働力を日本人ではない、外国人を受け入れて確保しようという話。しかしこれを自民党はずいぶん前から進めてきています。技能実習生やら、特定技能実習生やらと名付けて数十万人受け入れています。技能実習生だけで既に45万人ぐらいですか。これを高市政権では123万人まで増やすと明言。これがSNS上で、結構議論になっていますね。

 

自分もこの件は腑に落ちない方です。

 

一旦ゼロベースで、といったはずなんですが、蓋を開けるとそうでもなさそう、という話。高市支持者は「議論を一旦初めから考え直す」という意味での「ゼロベース」、ということをのたまっておられました。某政治経済評論家ですが。「一旦ゼロベース」と聞くと、多くの人は「まずは受け入れを止めてみる」という風に聞こえると思うけどね。いかにも政治家的論法よな。

 

高市政権は前政権よりましだと思うし、移民問題もそれなりに抑制しようという姿勢は見られます。ただ、現在でも既に250万人ぐらいの移民は居るという話で、これ以上まだ入れるの?という疑問はあります。

 

 

既に40人に1人ぐらいは移民でしょう。これって労働者の数字ですから、その家族なんかもいるとなると、どうなの?という話。子供を産めば増えますし。

 

移民がいないと、経済に支障をきたす、という話らしいけど。

 

実際どれぐらいの労働力が必要なのか?とか、どの業界がどれぐらい必要としているか?とかも教えてほしいですよね。その業界で働きたい日本人は本当にいないの?もし、いるというのなら、まずはそういう人を受け入れてからじゃないの、とは感じます。移民ありきの話はおかしくないですか?移民の話は、いつもどこから湧いてきた話か分からなくて、かなり怪しいなあ、という感想です。

 

移民政策はかなりの程度、自民党が「意識的に」作ってきた政策でしょう?それも今まで成功してきているのか中々分からない。特にベトナム人なんかが技能実習性に多いといわれていますが、結局日本になじめず、失踪する、という話も良く聞きます。失踪しても、別に本国に帰るわけではないですから。日本国内で何をしているか、誰も把握していないのでは?

 

そして遂に外国人の犯罪率で、1番多かった「中国人」がいなくなり、その代わり「ベトナム人」の犯罪率が1位に、というニュースが出てきます。おい!

 

 

自民党議員に聞きたいですよね。これってあなたたちのやってきた移民政策とは関係ないんですかってね。簡単には因果関係なんかは分かりませんが、相当に怪しいですよね。そりょあ、ちゃんとしたベトナムの方もいらっしゃるとは思いますが、かなりマスで受け入れているので、国の形が変わりかねない案件です。もっと慎重になれよ、とは感じます。お役所仕事すぎて、ザルすぎません?

 

この辺の反省の弁があってからの話なら、まだぎりぎり話は分かるけど、そんなこともなく、まだ移民政策やるんかい、としか思えません。担当大臣の、小野田さんの話もXで見たけど、まだまだ言葉足らずでしょう。信用問題なんですよ。そりゃあ、反発も出るよね。

 

 

金儲けしたい連中は、安い賃金で人を雇いたいんでしょう。しかし下手に安い人材ばかり入れてしまうと、賃金の底辺が上がらず、貧困が固定化する可能性があるらしいですね。

 

移民政策も一部の人の利権になっている可能性はあるでしょう。

 

自民党の行ってきた、その移民政策のからくりを以下のように説明している方がいます。参考までに↓。

 

 

自民党は利権政党だといわれてますが、高市政権になってそんなに変われるかどうか?今のところ、まだまだ色んなところに良い顔しようとしてる風には、自分には見えます。

 

文句ばっかりいっても、仕方ないのかもしれませんが。

 

次回の選挙は多分自民党が圧勝するんでしょう。安倍さんの時もそうだったけど、あんまり圧勝させるのも問題なんだと思いますけどね。人気投票みたいに選挙をやるのは、やはり問題かと思います。政治家に緊張感を持ってやってもらうにあは、ある程度ぎりぎりの勝利になった、とかにしないといけないんじゃないか、と自分は考えています。しかしそう都合良くはならんのでしょう。政党は過半数を取ると平気で、国民の信任を得た、とかいいます。しかし、選ばれたから何をしても良い、という話ではありません。

 

「夫婦別姓が争点」みたいな、馬鹿バカしい論点の選挙より、今回はずっとましだとは思うんですが、やっぱり自民党自体はおかしいとは思っています。比例では入れづらいよな、と思います。

 

よっぽどしっかり考えて投票しないと、長期的な視野に立った場合、大変なことになってもおかしくないと思っています。

 

昨日は新国立劇場で、J・シュトラウスの軽歌劇「こうもり」を鑑賞。1度生で観てみたいと思っていた作品です。

 

今回鑑賞した感じだと、まあまあかなという感想です。あまり感銘は受けませんでした。

 

これは個人的なことですが、最近は年を取ったせいか、「お笑い」に対する感度が低いようです。「こうもり」は喜劇で、なおかつ軽歌劇(オペレッタ)なので、内容も軽い。

 

モーツァルトの「フィガロ」なんかもそうですが、「劇」として観ると、年のせいで、お笑いが作為的に見えるようになってきているようです。「こうもり」も「フィガロ」も筋書きを知っているので、余計そう感じます。もう少し若かったら、笑えたのかな、と思ったりしました。

 

どんなに音楽として優れていても、一旦「劇」として観だすと感じ方が変わってくる自分がいるようです。

 

演奏は可も不可もなく。「こうもり」らしさが出ていないという感じでもなく、かといって、特に優れた感じともいえず。第2幕初めのアデーレと客人たちのアンサンブルが1番良かったです。オペレッタはセリフがオペラに比べると、純粋に劇的要素が強く、その辺も「劇」としても喜劇に入り込めないと厳しい感じでしょうか。やはり音楽的に充実した場面に意識が行く自分がいます。

 

歌手はエイゼンシュタインのトーマス・ブロンデルが頑張っていました。指揮者のダニエル・コーエンはそれなりの推進力のある指揮ぶりでした。

 

ということで、あんまり参考にならない批評になりました。この曲を初めて知る人なら、それなりに面白いと思えるのかもしれません。

 

 

来シーズンの新国立劇場のラインナップが発表されました。また値上げするらしいです。正直、このキャストでこの値段かい、みたいのが結構ありますね。世界的に見ても、豪華なミュージカルの舞台などは減ってきていているそうなので、色々厳しいのでしょうか?

 

観たい演目はありますが、どうするか迷っています。

米国のトランプ大統領がベネズエラのマドゥロ大統領を、軍事力を行使して、拘束し、米国で裁判にかけるとか。ベネズエラは麻薬の大量供給国で、マドゥロは独裁体制をひいてその利益にあずかっていたともいいます。ベネズエラ国内でも不人気で、色々いわれていたそうです。

 

トランプ大統領のやり方が国際法に違反する、という話はとりあえず置いておいて、D・トランプ氏は米国を含む、アメリカ大陸を他の地域からの影響から切り離す、いわゆるモンロー主義に近づけたいようです。

 

19世紀の南北米大陸が、旧宗主国である英国やスペインから独立し、その影響を排除したいという旨を、米国のモンロー大統領が宣言しました(モンロー主義)。日本が真珠湾を攻撃したことによって、そのモンロー主義は終わりをつげ、米国は超大国となり、世界に覇権を及ぼしました。しかし今日D・トランプは再びアメリカ大陸を、他国の影響から独立させたいようです。その念頭にあるのが、今回はヨーロッパ大陸と同時に、中国になるのだと思います。

 

ベネズエラの石油利権は中国やロシアと関係があるとされていたので、この軍事行動はその一環だと思います。グリーンランドの領有権にしてもあそこはデンマーク領なんですね。まずは欧州の影響力の排除があり、次にそのデンマークから手を伸ばしかねない、中国などからも切り離したい意向があるようです。

 

トランプが狙っているのは、世界中が地域ごとにまとまり、コミュニティーを作ることのように見えます。覇権主義で世界の警察を演じるアメリカではなく、地域の1つとしての米国を目指しているようです。

 

台湾有事についても、D・トランプ氏の米国は、その米国の地域的独立を脅かすのなら、手を出してくるという塩梅ではないかと思います。中国が力を持ちすぎれば覇権行為に出ますので、それができない程度には行動を起こすのかと考えています。

 

トランプ氏 |  ヒマジンノ国

 

ウクライナ・ロシア紛争もワンチャン、解決の可能性があるのかもしれません。上の記事の中で自分はこう書きました。

 

「ゼレンスキー対ヴァンスの口論の直前、米国はゼレンスキーの代わりになる人物を欧州で探していたといいます。これはうまくいかなかったようですが、最近では米国の調査団がウクライナ入りし、米国の寄付金が何に使われているか調査をするという話も聞いています。」

 

その後、この米国の調査団のせいかどうかは分かりませんが、ゼレンスキー政権の汚職が発覚。

 

 

去年の中頃はウクライナ・ロシア紛争の停戦の失敗や、エプスタイン・ファイルの公開も渋っていたトランプ氏ですが、ここにきて時間はかかっていますが、一応公約通り、エプスタイン・ファイルの公開に踏み切ったようですし、ウクライナ・ロシア紛争も粘り強く終戦に向けて交渉しているように見えます。

 

ついにあのファイルが!ビルゲイツ、ケビンスペイシー、ミックジャガー、マイケルジャクソンやビルクリントンの写真続々と!米司法省エプスタインファイルを公開!

 

↑、ユーチューブの「プク太の世界時事ニュース」チャンネルで、エプスタイン・リストの公開第一段時の様子を簡単に紹介しています。

 

ウクライナはロシアと西側に挟まれて、歴史的に、政治的な安定性が生まれにくい場所だったそうです。そのため政治の腐敗も大きく、賄賂などが横行していた、というのは割と有名な話。各国からの寄付金も何に使われていたかは分からない、というのが事実です。

 

個人的な見解ですが、ゼレンスキーはロシアのプーチン以上に問題のある人物だと思っていて、彼がしっかりしていれば今回の悲劇は起きなかったと思います。

 

ポロシェンコ、ゼレンスキーという2代に渡る腐った政治家のせいで、ウクライナは存続の危機にあるのは自明、当然プーチンがいけないという話も分かりますが、ゼレンスキーが居座ると和平も中々進まないのでしょう。

 

プーチンを排除しようと思うと、それこそ第3次世界大戦に近いことをしないと無理です。それを西側のエリートや政治家たちがウクライナを使って狙ってきたわけです。元々ウクライナ内の内戦を止めさせることを前提に、大統領に選ばれたのがゼレンスキーだったんですよね。そういう意味ではウクライナの国民は間違った選択をしたわけではないと思います。

 

ところが国内をまとめ切れなかったゼレンスキーは西側のパペットとなり、急先鋒となりました。国内問題をロシアの介入を許すことによって、国際問題化した。これって世界中の物価高の一因になってもいます。

 

そこに投入した支援金も何に使われているか分からないという現状です。ゼレンスキーも自分が何をやってきたか知らないはずもなく、色々はっきりすれば自分の身も危ないのは分かっていたと思います。当然簡単には折れません。

 

しかしここにきて、政権の汚職が暴露されたことによって、やっと和平の兆しも出てきたように思います。

 

昨日は、去年の年末からバレエや第9など、複数の演目を日本で公演している、ウクライナ国立劇場の公演の1つを聴きに行ってきました。東京文化会館です。

 

演目は歌劇の「トゥーランドット」です。中国の冷酷な姫、トゥーランドットとその愛を求める、ダッタン人の王子カラフの物語です。

 

ウクライナ国立劇場の演目、歌劇に関しては、ヴェルディのアイーダとプッチーニのトゥーランドットの2演目。自分は最近プッチーニが多かったのでアイーダにしたかったのですが、良い席がなく、空いているトゥーランドットを聴くことになりました。

 

この公演は、値段が新国立劇場より安い。海外オペラとしてはずいぶん安く、何でだろうと思っていたんですが、幕が開くとオーケストラは小編成、合唱団も比較的少人数で、コンパクトな演奏となりました。本国が戦時下である影響なのかもしれません。

 

小編成ながら透明感がなく、やや泥臭い感じのするオーケストラは、さすが東欧のサウンドといったところで、独特のローカル色があると思います。

 

1幕目は、悪くないですが、やはり全体に浅めの響きであり、密度不足を感じさせました。歌手もまだ調子を発揮していない様子。幕間に「この程度なのかな」と思いました。

 

しかし2幕以降は持ち直したようで、少人数ながらコーラスは太い声でパワーがあり、オーケストラも小編成とも思えないような迫力を出しました。この日はこの第2幕が1番美しかったように思います。第3幕も安定した出来栄えで、最終的に納得した観劇になりました。

 

歌手はリュー役のグレヴツォヴァを筆頭に、ティムールのコヴニール、カラフのズラコマンなど中々魅力的な歌唱を聴かせました。ただ全員役にこなれているせいか、少し新鮮味に乏しくありましたが、逆をいえばそれなりの完成度にあると感じます。

 

 

↑、タイトルロールのヴィクトリア・チェンスカは主役級の中では1番落ちたかもしれないです。しかし外見がトゥーランドットそのものに見えますね。

 

細かい傷があるのかもしれませんが、全体を通すとそれなりの感動を与える公演だったと思います。

 

しかし余談ですが、個人的にこの歌劇、第3幕は脚本に問題ありだと思います。奴隷の女性リューの自害で、トゥーランドットの氷のように冷たい心も融け、カラフへの愛を発見するという筋なんでしょうが、説得力が弱いですよね。

 

リューはカラフを愛していて、そのせいでカラフのために死ぬんですが、リューが死んだ後のカラフの対応が結構冷たい。若干リューの死を嘆くものの、そのまますぐにトゥーランドット姫を口説きにかかります。

 

おいおい、リューはお前のために死んだんだぞ、もう少しなんかあるんじゃないのか?とは思いますよね。「そこに愛はあるのか」と問わずにはいられません。トゥーランドットも心変わりが早すぎる。

 

カラフは劇全般を通して、ほとんど問題がない人物として描かれているのですが、この重要な瞬間にカラフは人の気持ちが分からないサイコパスに見えるといっても過言ではないのでは?

 

確かにリューの自殺に焦点を当てても、劇内容にずれが出るので、リューが自分勝手に死んだといった方が良いんでしょう。まあ、この辺、現実世界でプッチーニのメイドが「勝手に」自殺した、という話とリンクする部分なのかもしれませんが。

 

歴史的な評価が定まった作品にこれ以上いっても仕方ないので、これぐらいにしておきます。

 

とういうことで個人的にこの歌劇に完全に没入できない自分がいます。トゥーランドットは派手目なオーケストラを豪華絢爛な感じで楽しみたい作品でしょうか。

 

そういう意味では次回はフルオーケストラで楽しみたいですね。

 

ウクライナ国立歌劇場の演奏に関しては、あの編成で中々聴かせる演奏に仕上げていると思いました。そういう意味では完成度は高かったと思います。

 


 

国内のどの劇場もカーテンコールの写真撮らせてくれませんが、何故なんでしょうかね。今回も歌劇団と聴衆の結びつきなどが感じられて、カーテンコールも良かったと思います。

 

明けましておめでとうございます。2026年の幕開けです。

 

2010年にブログを始めたので、今年でアメブロ16年目になるようです。しかし記事の数は950件程度で、まだ1000件に及んでいないようです(^-^;。超スローペースです。しかし、2026年内には1000件になるのかも。

 

読んで下さっている方も決して多くはありません。それでも続けているのは、自分自身、多分書くこと自体が、嫌いでは無いからだと思います。

 

それにしても、いつもこのブログを訪れてくれる方には、御礼を申し上げます。ありがとうございます。

 

クラシック記事に特化とか、政治記事に特化した方が良いんでしょうけど、自分はブログを使って、頭の中の考えをまとめていることが多いので、この体裁は仕方ないかな、というところです。

 

去年末は、政治の話のまとめも書きたかったのですが、時間がなくて断念しました。今年の初めはその辺を書きたいですが、時間があるのかどうか分かりません。また音楽の話では、1月に歌劇を2つ聴く予定ですので、その辺も書くつもりです。

 

年始の挨拶はこのぐらいにいたします。時間がある時にまた、ブログを書いていきたいと思います。よろしくお願いいたします。

一応今年いったコンサートを振りかえって、年内のブログを終了いたします。今年は14回通ったようです。個人的にはよく頑張ったな、と思っています。月1ぐらい通えれば良いかなと考えていたので、満足しています。しかし、評判になったコンサートにはあまり行っていないので、結局立場はオルタナティブな感じのままです。マイナーなコンサートの感想が多いですかね。

 

以下今年通った各コンサートに、簡単な寸評から反省点などを拾い出して、終了したいと思います(以下の写真は全て借り物で、当日の演奏とは異なるものも多いです)。記事の1と2は連続して、下に続きます。

 

新国・さまよえるオランダ人 |  ヒマジンノ国

 

 

まずは2月1日の新国立劇場のオペラ「さまよえるオランダ人」。生での、ワーグナー初観劇だったのですが、オランダ人役のエフゲニー・ニキティン氏が体調不良で、1度の公演しか登場せず、他の日は代役の日本人がオランダ人を担当しました。自分は代役の日に鑑賞。

 

あまり書きたくないですが、この代役のオランダ人役の方があまりにひどく、ちょっとびっくりしました。劇が始まる冒頭で、支配人らしき人物が謝罪をしていましたが、現場の人間も状況を分かっていたということでしょう。国内にはワーグナーを歌える人がほとんどいないのではないでしょうか。

 

あれぐらい声が出ないと、オペラは画面が引っ込んで見えるんですね。良くないパターンを体験できたというのは、貴重といえば貴重でしょうか。「さまよえるオランダ人」なのに、オランダ人不在という感が強い公演となりました。

 

冒頭での、マルク・アルブレヒトの指揮ぶりも、くすんだ響きでパッとしません。一応後半主演者全員で盛り上げようという意図は感じました。それなりに感動したので、これはこれで勉強になりました。

 

ヤノフスキによるミサ・ソレムニス |  ヒマジンノ国

 

 

3月の終わりに聴いた、ヤノフスキによるパルシファルは途中離脱したので、除外します。

 

ヤノフスキによるベートーヴェンのミサ・ソレムニスを4月4日に鑑賞。東京文化会館での公演ですが、この時期の文化会館周辺は人だかりがすごく、あまり好きになれません。文化会館には始まるまでの待合がなく、周辺地域のカフェなども人ばかりで、席が取れません。コンサートが始まるまでに疲れてしまいます。

 

さて、肝心のコンサートですが、ミサ・ソレムニスは4月4日と6日、2回やりました。自分が聴いたのは初日。前半コーラスが、少しですが、揺れる場面があり、どうもN響含め、出演者は少し疲れているように見えました。おそらく少し前にやった、パルシファルのせいでしょう。2日とも聴いた人のコメントを見ると、後日は復調していたそうです。

 

この日の演奏で1番気になったのは「クレド」の解釈でしょう。フーガなど異常な速さで演奏し、重さのない演奏でした。この解釈が今もって、自分には不明です。従来の演奏だと「クレド」はベートーヴェンの力強い信仰告白であるはずで、力感ある力強さを求めるのが賢明のような気がします。あの演奏はあくまで「ミサ」としての主体を離れ、音楽的に処理した結果だったのでしょうか?

 

「クレド」は前述のような後半のフーガと、前半の受胎告知を示すオラトリオ風の場面からなります。これがいつものベートーヴェンと違うのは、主題動機の展開からなる、交響的なアプローチではなく、「ミサ」の典礼文の内容にそって、別種の音楽の書法が並べられている点にあります。要は「ミサ」の内容を標題とした、標題音楽ともとれます。つまり音楽は、典礼文の内容に肉薄していますが、それでもなお伴奏にすぎないのです。自分もブログの中で、この曲を勝手に彼の「第10交響曲」といっているので、問題ありですが、この曲は「ミサ」の内容を無視して音楽的な処理に終始してしまうと、「内容的な中抜け」を起こすように思えます。

 

ですのでこの「クレド」を軽くやると、後半の楽章の感動が薄れてしまいます。内容の繋がりが薄くなるからです。

 

正直、自分はあまり沢山コンサートに行く機会がないので、できるだけ「先入観無し」で、コンサートを聴きたいとは思っています。ミサ・ソレムニスも繰り返し演奏されてきた曲なので、今までにない新しい解釈があって良いと思います。しかしこの日はヤノフスキの解釈には、必然性を感じませんでした。

 

ただ、ミサ・ソレムニスを聴く機会が少ないのも事実なので、この日は実演を聴けたことを喜びたいと思います。

 

パーヴォ・ヤルヴィ N響 |  ヒマジンノ国

 

 

4月13日、NHKホールでヤルヴィ指揮のN響を鑑賞。曲目はベルリオーズ「イタリアのハロルド」とプロコフィエフの交響曲4番という渋いプログラム。

 

両曲名演だったと思いますが、プロコフィエフの交響曲は理解が難しいという印象です。個人的には精神的な糧になるかといわれれば、微妙な感じのする曲でした。

 

ベルリオーズは美しい瞬間が何度もある名演だったと思います。

 

オクサーナ・リーニフ、ヤメン・サーディ、ショスタコーヴィチ |  ヒマジンノ国

 

 

4月21日、ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲を聴きに、サントリーホールに出かけました。

 

この日も名演で、感じの良い演奏会でした。後に調べてみると、ボーダナ・フロリャックはウクライナの女性作曲家で、息子が前線で戦っているとのこと。

 

リーニフの演奏はどの曲も引き締まっており、バルトークの「中国の不思議な役人」組曲は多分十八番なんだと思います。深みはないですが、確信に満ちた演奏で、満足そうでした。

 

ルイージのブラームス |  ヒマジンノ国

 

 

5月5日、所沢ミューズでルイージの指揮するN響を聴きました。ルイージの実演を聴くのは2度目になります。1度目は池袋の芸術劇場でした。

 

1度目はあまり感銘を受けず、イタリアの普通の指揮者という印象でした。しかしこの日の演奏は大変美しく、感銘を受けました。何で、前回とはこんなに印象が違うのか?と思えるほど良かったです。日本のオーケストラでもこんなにコクのある、美しい音がするのかと驚きます。ヨーロッパのオケじゃないかと感じるぐらいでした。全任者のヤルヴィとか、デュトワのせいなのかもしれません。また、大きすぎないホールのせいかもしれないと推測しますが、今のところ推測にすぎません。

 

しかし、1度目と2度目の鑑賞経験を比べてみると、芸劇ではホールが大きくて音が散っていたように思えます。反対に所沢ミューズは、音が散らずに、音色の魅力が伝わってきました。ホールの影響は大きかったと感じています。

 

所沢の時は、自分は割とオーケストラに近い席で聴いていたので、ルイージの様子も良く分かりました。彼は肩の力を抜いて、緊張感があるものの、流れの良い音楽を作り出していました。この日のプログラムはN響のヨーロッパ公演の一部になっていたものです。

 

その後、ヨーロッパ公演の批評を確認してみました。

 

現地の批評に次のように出ていました(ブラームスとベルグのプログラム)。

 

「大音量の時代において、このパフォーマンスは、音楽が良いものになるために大音量である必要はないことを思い出させてくれました。また、指揮者は自分が望む音を得るためにアクロバットをする必要もありません。文化やジャンルを超えて、控えめな専門知識、細部への細心の注意、熟練度の高い演奏がうまくいきます。」(翻訳ソフトによる)

 

また別の批評では。

 

「柔らかく輝く音色と指揮者との絶妙な一体感が聴く者の心を捉えた(中略)。ヨハネス・ブラームスの《交響曲第4番》を聴いていると、まるでヨーロッパの名門オーケストラの演奏を聴いているかのような印象を受けた。指揮者と演奏者たちは、その曲の持つ歌謡性と情熱を余すところなく引き出していた。」

 

実際このような批評がかなり正しいというのが、この日の所沢のコンサートを聴いた、自分の意見です。

 

少し話はずれますが、日本が国際的に成功した種目に「野球」があります。ここ何年も国際的ランキングでは日本が第1位を獲得しています。その日本の「野球」の特徴といえば、パワーを生かしたものではなく、走塁や野球技術を生かした「スモール・ベースボール」です。日本のホームランバッターがメジャーリーグに行っても大体が中距離ヒッターになるように(大谷翔平の様な突然変異は除く)、パワーでは白人や黒人などには敵いません。

 

日本のオーケストラについても似たようなことを思う時があります。音は大きくないが、内向きの技術の高さを利用した演奏といいますか。この日はその良さが出ていた演奏だと思います。日本のオーケストラの良さを生かした名演だと感じました。ホルンやフルートなど、緻密に瑞々しく鳴っていました。室内楽風といって良いのか、大味感は一切ありませんでした。

 

大音量のモダン・オーケストラとは違う方向性の名演だと思います。

 

多分欧州でも、N響とルイージのブラームス辺りについては、そのような感想を持った人もいるのではないかと思います(マーラーについては良く分かりません)。米国の音楽批評家が日本のオーケストラを聴いて、欧米のオーケストラを「ノイジ―」だといっていたのを読んだことがあります。

 

何が良くて悪いかは中々難しい問題です。条件次第(TPO)で人は聴き方が変わるので、はっきりしたことはいえませんが、N響とルイージのコンビはいろんな条件次第で、かなり美しく聴こえるんじゃないのかとこの日感じました。

 

ただこの人、同じ曲目をサントリーホールや、NHKホールでやって、自分が聴こえた様に聴こえるかは何ともいえません。音が散ってしまって、散漫に聴こえる可能性もあると思います。

 

また、ルイージのこの日の指揮ぶりから見ても日本のオーケストラの緻密さを好んでいるんじゃないかという気がしましたね。ヤルヴィなんかも同じなんじゃないのかと思います。

 

そういう意味では、ルイージの芸風で、大きな劇場で彼らがどれぐらい実力を発揮できているかは分かりませんし、また、そういった大劇場で実力発揮できなのなら、実力不足という話もあるかと思います。特に、ルイージについては、NHKホールでの演奏は、かなり損をしている可能性はあるのかもしれません。

エリーナ・ガランチャ |  ヒマジンノ国

 

 

6月17日、世界的なメゾソプラノ、エリーナ・ガランチャによるコンサートを聴きました。ただ曲目に慣れないものが多く、対訳などが欲しいコンサートでした。ブラームスとラフマニノフの歌曲辺りは、対訳を、コンサートを開催する側が準備しても良いとは思います。

 

オペラとか、合唱曲の演奏でもないので、ガランチャは終始リラックスしていたように見えました。彼女の声についてはたっぷり聴けて、満足できました。

 

ただオペラの本番そのものを聴かないと、分からないことも多いとは感じます。

 

カネラキス、アリス=紗良・オット |  ヒマジンノ国

 

 

7月5日、カリーナ・カネラキスとアリス=紗良・オットのコンサート。美女2人の主演で、華やかな感じといっても良いのかと思います。カネラキスのマーラーは「男性の演奏」とは違う、という感じです。マーラー特有のエキセントリックさが少ない演奏で、独特の優しさを感じました。性差によって、交響曲の印象が変わることもあるのか、と感じましたね。

 

ソフトな印象のあるマーラーで興味深かったです。

 

アラン・ギルバートのブラームス |  ヒマジンノ国

 

 

7月18日、アラン・ギルバートによる、ブラームスの交響曲1番、2番のコンサート。このコンサートは、鑑賞後色々考えてしまった演奏会です。今回は当日書いたブログとは、少し意見を変えて書きます。

 

アラン・ギルバートの音作りは、いわゆる「日本の指揮者」とは違う、オーケストラの鳴らし方のように聴こえました。充実した、腹に響く様な低音部、旋律は水平方向に流れ、味わい深い響き。音が外側に放出されるような感じです。外国で活躍してきた指揮者だという印象を覚える、職人的ともいえるような響きでした。

 

そんな彼が演奏するブラームス1番を聴き終わったとき、充実した響きで「これで熱のある拍手が無かったら、おかしいよな」、と思ったのを覚えています。実際熱烈な拍手がありました。そのように自分もこれは多分「名演」だろうと、感じはしたのですが、実際は心ではほとんど何も感じておらず、何でだろうと思った次第です。

 

その後理由を確かめるために、複数のブラームスの1番の録音を聴き直しました。過去の名指揮者たち、クレンペラー、シャイー、フルトヴェングラーなども聴きました。でも何かちょっと違うと感じます。結局カラヤンの1977年盤を聴いて、ああこれかなと、やっと腑に落ちる録音に巡り合います。

 

特に第1楽章ですが、カラヤンの演奏は冒頭からブラームスの鬱々とした内面に広がる情熱が、もうもうと沸き立ってきます。第1の、初めの楽章における、熱烈なピストン運動が、ちゃんと縦の線を揃えて演奏されると、このような「もうもう」とした情熱が湧きたって聴こえるんですね。

 

アラン・ギルバートをはじめ、フルトヴェングラーでさえ、水平方向に音楽が流れ、この情熱が湧きたってきません。このようなスタイルなら、ザンデルリングが緻密な音楽を聴かせています。

 

多分自分は知らないうちにこのような、カラヤン型の演奏を勝手に求めていたのでした(他は有名なミンシュ盤などが同様の効果を上げていると思います)。

 

さて、その上でアラン・ギルバートの演奏をどう考えるか、です。自分はヤノフスキのミサ・ソレムニスの感想で、できるだけ「先入観なし」で聴きたいと書きましたが、この日は上にも書いたように明らかな自分の好みを持ちこんでいるのだと気づきます。誰しも「好み」はあるし、偏見を免れることは出来ません。また「好み」があるからこそ、判断の基準が生まれるわけです。しかし、「好み」を持ち出すことで、その日の演奏の良さを聴き逃してしまうこともあるかと思います。

 

この日は多分に後者の感じがあったかな、と自分は思っていて、事前にアラン・ギルバートの演奏がこれぐらいになる、と分かっていればもう少し理解もできたかなと思っています。

 

アラン・ギルバートの演奏は全体に抑制をかけた指揮ぶりで、第1楽章の頂点でも8割5分ぐらいの力の入れ方でした。全体に曖昧さがなく、緻密な音楽を聴かせました。カラヤンのような効果をあげられる指揮者は少ないので、多くの指揮者がやるような解釈です。こうした演奏自体、「王道」という方も多く、そういう意味では現代的に磨き抜かれた、大人のブラームスだといえると思います。

 

後はブラームスの交響曲について(特に第1についてですが)、自分が思っていたよりも、思い入れがあったのかと気づいたコンサートになりました。

 

アダム・ヒコックスによるショスタコーヴィチ |  ヒマジンノ国

 

 

ショスタコーヴィチ・イヤーということで、割とショスタコの演奏が多かった年のように思います。交響曲については11番と15番の演奏が多かったようです。しかし、自分は11番も15番も聴くことができませんでした。

 

8月23日、サントリーホールでまだ20台という若さのアダム・ヒコックスの指揮でショスタコーヴィチ交響曲10番を聴きました。しかし、20代とも思えぬような、音量とか、技術に頼らぬような指揮ぶりで、充実した演奏を聴かせました。ちょっとびっくりです。

 

10番の録音も久しく聴いていませんでしたが、このコンサートの後、若い時に聴いていた感動が蘇ってきて、色々聴き比べをしました。

 

ヒコックスについては、今後どんな指揮者になっていくのか興味があります。

 

新国・ボエーム |  ヒマジンノ国

 

 

10月2日、今年2度目のオペラパレスで、歌劇を鑑賞。年初めの「さまよえるオランダ人」がかなり酷かったので、心配でしたがこの日の「ラ・ボエーム」は素晴らしかったと思います。

 

新国初期の頃は有名な歌手も多く招いていたとも聞きますが、自分が新国に行くようになってからはせいぜい5年程度です。ですので、詳しいことは良く分かりません。しかし、自分が通うようになってから、それほど有名な歌手は登場しないことが多いと思います。その中でもこの日は、歌手が有名かどうかは別にして、自分が過去に体験した新国の演奏でも、1番良かったぐらいかと思います。

 

一応、新国も招聘したメンバーが抜けなければ、主催者が考える「こうしたい」、というような感じは出るのかと思います。

 

ちゃんと歌える歌手、それをパオロ・オルミの幅のある指揮でサポートすることによって、歌の饗宴と思える瞬間が何度かありました。やはり、ルチアーノ・ガンチの滑らかで回転の良いテノールが、いかにもロドルフォに聴こえ、素晴らしかったように思います。

 

終演後も白人の老夫婦がパンフレットを買い求める様子もあり、それなり印象を残したコンサートだったのではないでしょうか。オペラも何曲か生で聴いてきて、色々思うことが出てきました。やはりインストゥルメンタルなコンサートとは違う感動があります。また時間がある時にそのことは、まとめてみようかと考えています。

 

ヴァイグレによる悲愴 |  ヒマジンノ国

 

 

10月14日、サントリーホール。セバスティアン・ヴァイグレによる、ロシア系プログラムの渋いコンサートでした。

 

個人的に、モロソフはたまには良いかな、と思える程度の内容の曲かと思います。チャイコフスキーの交響曲が始まると、やはりモロソフとは作曲家の能力の違いを感じざるを得ませんでした。

 

ヴァイグレのチャイコフスキーは中々筋肉質な演奏。平均的なコンサートという感じの内容だったでしょうか。

 

ビシュコフ・チャイコフスキー |  ヒマジンノ国

 

 

11月に、ウィーン・フィル、ベルリン・フィル、ロイヤル・コンセルトヘボウが来日。どれか1つ聴きたいと考えていましたが、スケジュールの都合で、どれも聴くことができませんでした。

 

代案でチェコ・フィルを聴くことを考えていました。ぎりぎり取れそうだったので、前日にチケットを買い出かけてきました。

 

10月23日、サントリーホールで、ドヴォルザークのチェロ・コンチェルトとチャイコフスキーの交響曲5番という定番曲のコンサートでした。演奏まあまあといった印象。個人的には、聴いていて1番気になったのがオーケストラの音色です。

 

昔本で読んだ、ヴァイオリニストの天満敦子さんの話が蘇ってきました。

 

人種の差と演奏1 |  ヒマジンノ国

 

↑、以前の記事で触れたことがあるのですが、人種と演奏から出る音の違いの話です。

 

再び日本のヴァイオリニスト、天満敦子さんの言葉を引用します。

 

「それこそ音程の話ではないですけど、A(イ音)というこの音に幅があるとすれば、その下澄みをとるんです。日本人は上澄みをとるんです。ヨーロッパ人はすべてをとっている。ユダヤ人は下をとる。

 

・・・(中略)・・・

 

私たち、演奏会のときピアノでAの音をもらいますでしょう。「ターン」とピアノが音を出す、「ター」と音を出したとき、――これもいろいろありますが、「ターン」と弾いて、しばらく聴いてから合わせると上澄みになるんです。

 

ピアノの音というのは時間がたつと余韻が少し上がるんです。Aの音を弾いて伸ばしていると高くなる。叩いた瞬間にパッと感知してヒュッとやると下になる。それはその人の性格好みです。それで下をとりなさいって言われても、自分の耳がカーンと鳴っていたら音程は上がってしまいます。

 

・・・(中略)・・・

 

そう。目立ちたいときは上をとりなさいとか言うことがあるんですよ。でも、それはその人の感覚です。ただ、ある人からおもしろいことを言われたのは、日本人は特に高目をとる。それは、そいういう知識があるからなんです。高目をとれば人より目立つという、そしてまた、すぐそれを鵜呑みにするでしょう。」

 

当日の感想にも書きましたが、日本のオケは高音部が綺麗に響くように思えることが多いです。スピーカーなんかでも小さめのスピーカーは、音は小さいですが、高音部は綺麗に出ます。そして曲の輪郭がはっきりしやすい。逆に大きなスピーカーは充実した低音部が出るようになりますが、高音部はややぼやけます。

 

こういう例え方はちょっとおかしいかもしれませんが、チェコ・フィルは日本のオケに比べると、大型のスピーカーのよう、ともいえるのかもしれません。ただ思ったより音質はざらざらしています。高音部をあまり意識しないからかもしれません。その辺が雑味になって、あの独特の音になっているのかもと感じます。

 

チャイコフスキーはそんな厚めの響きのオーケストラで、やや魁夷な表現でした。自分はチャイコフスキーの演奏には、ブラームスの時と違って、あまりこだわりがないので楽しめました。チャイコフスキーについては割と雑駁です。とにかく迫力があって面白かったです。

 

ジャニーヌ・ヤンセンのリサイタル |  ヒマジンノ国

 

 

11月はジャニーヌ・ヤンセンとデニス・コジュヒンのコンサートに行ってきました。

 

このコンサートは大変よく、感動したコンサートでした。やはり主役はヤンセンかなと思います。ヴァイオリニストはコンチェルトで聴くことが多かったのですが、こういったリサイタルで聴くと、ソリストが本来の地の能力を生かした演奏をするので、面白いなと思います。11月13日のオペラパレスです。

 

この日1番素晴らしかったのは、ブラームスのヴァイオリン・ソナタ3番の演奏でしょう。明らかに力が入った演奏で、非常に彫りの深いブラームスでした。

 

あれぐらい彫りが深いというのは、楽譜を細部まで読みこんでいて、何処にどういった表情を付けるのか?と、考え抜いた結果だからだと思います。ちょっとしたフレーズに、不気味な雰囲気が宿ったり、あるいは攻撃的な熱を持ったり、かなりこだわった表現だったかと思います。非常に印象に残りました。

 

こういう演奏を聴くと、ヤンセンは日々、相当ヴァイオリンに人生をかけて練習しているのかな、と思わせるものがありました。

 

マキシム・パスカルの第9 |  ヒマジンノ国

 

 

12月23日のサントリーホールで、年末の第9を鑑賞。

 

マキシム・パスカルの第9を聴いて少し時間が経ちました。もう1度思い起こすと、新時代の第9という感じがしますね。

 

ちょっと前にトスカニーニの第9のレコードを聴いていました。テンポ感だけいえば、パスカルの第9も似たようなものでした。トスカニーニの演奏は、音楽をコンポジションと捉え、音符の動きを人間の活動的な側面として表現していきます。リズミックな部分の進行など、演奏者の内部にある音楽的素養によって、演奏者と音楽が一体になっているかのような感じです。

 

パスカルにも似たような部分はありました。リズムに乗った心地よさとか、そういう部分も出ていました。しかし少し違うのは、音楽から現れてくる、表面的な美感や効果にも時折、気を割いていたことです。

 

音楽を完全にコンポジションとして捉えず、部分ごとに、劇的な伴奏のような表現としても、第9を演奏していたように見えました。このような2重のスタンスをうまく繋ぎ合わせ、ベートーヴェンのイメージを壊さない程度にまとめ上げているようでした。

 

特にフィナーレは管弦楽部分が早く、声楽の部分は割と粘って演奏させているようで、歌劇的な傾向は強かったように思います。

 

トスカニーニのように音楽を「構成」として捉え、そこを突き通していくと、一本のそそり立つ槍のような雄渾さが出ますが、パスカルの場合、テンポは良く似ているものの、時折歌劇的な表現なども顔を出し、聴きようによっては一貫性に欠ける、と聴こえた人もいるのかもしれません。

 

深みを感じないのは、そういった折衷的な表現になっていたせいかもしれません。

 

〈まとめ〉

 

今年1番心に残っているのは「ラ・ボエーム」です。新国の演奏がどうのこうのという話はありますが、そういう問題とは別に、再現された歌劇の良さを実感しました。

 

次点はルイージのブラームス、ヒコックスのショスタコーヴィチ、ヤンセンのリサイタルです。この辺りのコンサートはどれも美しかったと思います。

 

昨日はサントリー・ホールで、マキシム・パスカル指揮、読売交響楽団を鑑賞。年末恒例のベートーヴェン第9交響曲の演奏会です。


流石に寒くなってきた中、溜池まで出かけてきました。

 

演奏自体は、まあまあという感じでしょうか。聴いているときは結構面白いと感じていましたが、聴き終わってみるとそこまで心に残っていないかな、とも感じました。

 

テンポは速く、同時に割と分かり易く、場面の描き分けがありました。指揮ぶりは情熱的で、ティンパニの強打を多用した鋭い叩きつけや、表情付けありで、聴いているとそれなりに興奮はしました。

 

歌劇的な解釈と、純音楽的な解釈が混じりあっている雰囲気です。旋律やテンポの取り方は、ドイツ的でもイタリア的でもなく、フランス的とでもいうべきでしょうか。メロディーの歌わせ方の抑揚に、そういったテイストが垣間見えます。

 

だからといって、異質なベートーヴェンでもありません。この辺は情報が先行する、現代の指揮者という感じ。ちゃんと調整していると思わせます。

 

フィナーレが1番盛り上がったと思います。人の声が入ってからの方が、パスカルは生き生きしていたように見えました。以前第9を生で聴いたのはコロナ明けの時です。密状態を避けてのコーラスで、人数が少ない形でした。しかし、ノットの指揮で、少数ながら、研ぎ澄まされたコーラスを披露したのを覚えています。あれはれで面白いなと思いました。

 

昨日は厚みのあるコーラスで、大変な迫力がありました。新国の合唱団は元々緻密な響きなんでしょうが、この日は荒ぶるような感じさえありました。指揮者の指示で、全力で歌わせているように見えました。

 

立派な演奏で、それなりの形に仕上げているという感じです。

 

 

しかしそれほど心に残らなかったのは、深みが足りないからなんでしょう。その辺は難しいですけどね。オーケストラの響かせ方なんかは面白いという感じでしょうか。


とはいえ、東京に居ながら、色んな国の指揮者の演奏を聴けるというのは、恵まれているのかなと思います。これで年内のコンサート鑑賞は終了です。