中編からの続き。

 

前編、中編では、如何にサタンがあらゆる手を尽くして人間を主イエスと聖書から引き離して滅ぼそうとしよるか、自分たちの悪しき計画の実現のために人々を利用し尽くそうとしよるか、といったことを世のことと聖書を交えながら書きました。この後編では、聖書を中心にサタンの性質やそのやり口等について書きます。そうすることで、彼らが必死に否定して隠そうとしよる聖書の真理がより明らかになるからです。(長くなったため、この後編を「一」、「二」と分けます)


本記事の前編で書いたとおり、「サタン」は古代ヘブライ語の言葉(שָׂטָן)で「神に対する敵対者、異議を申し立てる者、逆らう者」等の意味があり、悪魔だけでなく人間も含みます。人間も神に逆らって敵対するならサタンであり、反キリストです。聖書では神と人間の関係を婚姻関係に例えられており(神が夫で人間が妻)、最期まで創造主であられる主なる神のみを愛して忠実に仕え、それ以外の偶像(悪魔、ローマ教皇をはじめとした支配層、自分自身も含めた人間、木や金属等で出来た像、太陽や月等の天体、山や川等の自然の物、金銭や薬、快楽等)を愛して崇拝しない(不倫、浮気、姦通をしない)真のキリスト者を、聖書では以下のように書かれちょります。

 

・神の子、神の民。(エレミヤ書三十一章三十三節、ゼカリヤ書十三章九節、ヨハネ一 三章十節参照。他多数)

・良い種、麦。(マタイ十三章参照)

・賢い乙女、忠実な良い僕、羊。(マタイ二十五章参照)

・神から出た者(世に属さない者)。(ヨハネ十五章十九節、ヘブライ十一章、ヨハネ一 四章四節参照)

・主イエスの命の書に名が記されている者。(黙示録三章五節、二十一章二十七節参照)

・神の刻印を押された霊的イスラエル人。(黙示録七章参照)

・ローマ教皇に屈服せず、獣の刻印を受けなかった純潔の者(不貞行為、姦通によって身を汚さなかった者)。(黙示録十四章一節~五節参照)

・主イエスの花嫁。(黙示録十九章七節~九節参照)等。


逆にそれ以外の、主なる神を愛して従わない者途中で信仰を捨てた者主イエスが要求されちょる完全な者になれなかった者等は、以下のとおりです。

 

・世から出た者(世に属する者)。(ヨハネ八章二十三節参照)

・悪魔の子。(ヨハネ八章四十四節、ヨハネ一 三章十節参照)

・姦通(淫行、姦淫)の女。(エゼキエル書二十三章参照。他多数)

・毒麦。(マタイ十三章参照)

・愚かな乙女、怠け者の悪い僕、山羊。(マタイ二十五章参照)

・主イエスの命の書に名が記されていない者(獣の刻印を押される者)。(黙示録十三章八節、十七章八節、二十章十五節参照)等。


本記事の中編で書いたとおり、人間が歩む道は神に仕えるキリスト道と、悪魔に仕える道の二つのみで、狭い門から入る狭く苦しいキリスト道を最期まで歩んで救われる人は極めて少なく(見出だして歩もうとする人も殆ど居ない)、逆に広い門から入る広々とした平坦な道を歩んで滅びる人は極めて多いです。「聖書は支配層の計画書だ―」等の嘘を吹聴する不信仰者や異教徒も、悪魔に仕えて神に敵対しよるので当然悪いんですが、特にキリスト者を偽装しちょるパウロ教徒(カトリック、プロテスタント、正教会等の教徒)が極めて悪質であるため、旧約聖書の箴言を中心に彼らの本質を明らかにしていきます。

 

旧約聖書 箴言二章十七節~十九節 (拙訳)

(彼女は)自分の若い頃の君を拒絶したである。彼女は自分の神の契約を忘れた。それ故、彼女の家は死へと傾き、彼女の道筋は死霊たちの方に向かっている。彼女に付いて行く者の誰もが回心せず、故に、命の道に到達しないだろう。

 

上記聖句の「」は、前節の十六節にある名詞とその形容詞と、また別の形容詞が指す存在です。それらの詳細は以下のとおりです。(左が原語の古代ヘブライ語で、右の鉤括弧内の言葉がその意味)


・「אִשָּׁה」(名詞)「女、姦婦、浮気をする女」

・「זוּר」(上記の名詞に対応する形容詞)「余所の(女)、見知らぬ(女)、他人。原義は、逸れる、冒涜、不敬虔、余所者、異邦人、異端、異教、姦通する」

・「נָכְרִי」(形容詞)「調和しない、相容れない、異質な、異邦人」


さて、そうした者が「」(「אַלּוּף」君主、支配者、統治者等を意味する言葉。当該聖句では神を指している)を「拒絶」(「עָזַב」落第する、怠る、役に立たない、期待を裏切る等の意味もある)し、「自分の神の契約を忘れた」とあることから、当該聖句の「」とは、先述した「姦通(淫行、姦淫)の女、愚かな乙女、怠け者の悪い僕」等に当て嵌まる者、つまりサタン反キリスト、そして背教者であることが分かります。この箴言の著者である古代イスラエル王国三代目の王ソロモンの時代(今から約三千年前)における「女」とは、子供を火の中に投じて生贄にする等の悪魔崇拝に明け暮れよった、モアブ人、アンモン人、エドム人、シドン人、ヘト人等の異邦人(余所の女、相容れぬ者、異質な者)と、彼らに惑わされて主なる神への信仰を捨て、彼らに倣って同じ悪魔を拝むようになった古代イスラエル人(背教者。当時は神に唯一選ばれて契約を結んだ選民であったため、正真正銘の神の妻と言うべき存在)がそれにあたり、ソロモン自身が晩年に神の戒めを無視して娶った大勢の異邦人の妻たちに惑わされて背教しました(列王記上 十一章参照)。主イエスは「異邦人の道に行ってはならない。」(マタイ十章五節参照)と戒められましたが、その一世紀当時よりもずっと前から主なる神は同様の戒めを繰り返し古代イスラエルの民に授けられちょりました(申命記七章、十二章、二十九章参照。異邦人と結婚したら絶対にいけないという訳ではない)。異邦人は、神の律法、掟、戒めを授けられたイスラエルの民とは決して「調和しない、相容れない、異質な」民であり(これは差別ではなく、異邦人も神の律法を遵守して最期まで神に従うなら救われる)、だからこそ、悪魔崇拝の要素を多く含んだ西洋文化にかぶれてはならず、彼らの道(風習、習慣、主義、思想等)に倣うと同じように堕落して神のになってしまうということです。

主イエスが人となって地上に来られた一世紀当時における「女」は、「蛇どもよ、蝮どもの子らよ。どうして、あんた方は地獄の刑罰から逃れ得ようか。」(マタイ二十三章三十三節 拙訳)、「あんた方は自分らの教えを守るために、見事に神の掟を捨てとる。」(マルコ七章九節 ミカエル氏訳。聖句引用元「真の聖書福音と預言」「偽使徒パウロの反キリスト教義 四」)等と主イエスから厳しく非難されよったファリサイ派サドカイ派律法学者たちユダヤ教の祭司長のことであり、彼らは自分たちこそが神に忠実に仕える立派な信徒だと思い込んじょりましたが実際はそうではなく、神の御心から遠く離れた数々の悪行と人間中心の間違った教義を吹聴することで、自分たちが天の王国に入ろうとしないばかりか、他の入ろうとする者をも躓かせて入らせないようにしよりました(マタイ二十三章十三節参照。当該聖句で主イエスに非難されたのはファリサイ派と律法学者たち)。故に、「それ故、彼女の家は死へと傾き、彼女の道筋は死霊たちの方に向かっている。」は正にそのとおりです。そして、この「(בַּיִת)」には「娘、蜘蛛の巣、罠」という意味もあります。「我はファリサイ派だ。ファリサイ派の子だ。」(使徒言行録二十三章六節 ミカエル氏訳。聖句引用元「真の聖書福音と預言」「偽使徒パウロの反キリスト教義 七」)と、最高法院の場で宣言した偽使徒パウロは、確かにその行いも含めて「女」(ファリサイ派)の娘(子)であり、背教者そのものです。そのパウロの反キリスト教義と異邦人である古代ローマ人の土着宗教(太陽神を崇拝するミトラ教等)が混ざり合って、「大バビロン、淫らな女ども、地の忌まわしい者どもの母」(黙示録十七章五節参照)であるローマ・カトリックが生まれ、そのローマ・カトリック(母)から正教会やプロテスタント等の無数の分派(娘たち)が現代に至るまで生じ続けており、この背教の流れは世が終わるまでずっと続くことになります。「彼女に付いて行く者の誰もが回心せず、故に、命の道に到達しないだろう。」は、現代においてもパウロに盲従し続けるパウロ教徒(彼らも背教者であり、「女」の娘と言える)のそのほぼすべてが回心せず、真の聖書福音を見聞きしても反発して「命の道」であるキリスト道に絶対に向かおうとしないその頑迷な様から、この約三千年前の聖書の言葉が確かに実現しちょることが分かります。

 

箴言には「女」に関する数多くの聖句があるため、他のものも見ていきます。

 

旧約聖書 箴言五章三節~四節 (拙訳)

余所の女のは蜂の巣のように滴り、そのは油よりも滑らかである。だが、彼女の子孫は苦よもぎのように苦い。両刃の剣のように鋭い。

 

上記聖句の下線部分にあるように、「女」の武器の一つは蜂の巣(蜂蜜)のような唇、油よりも滑らかな口、つまり甘言です。これは、パウロが「あんた方の罪は支配せえへんだろうからや。あんた方は律法の下に居るんやのうて、恵みの下に居るからや。」(ローマ六章十四節 ミカエル氏訳。聖句引用元「真の聖書福音と預言」「偽使徒パウロの反キリスト教義 五」)等と、何度も「恩寵、恵み」を強調して「あんた方はキリストの恵みによってすべての罪を贖われて救われた。こうしてあんた方は罪とは無縁になったのだから、もはや律法の下に居ないし、律法は必要なくなった」と、主イエスの御言葉とまったく違うことを教えて律法からの離脱を勧めたり、「主イエスを信じよ。そうすれば、あんたとその家族も救われるだろう。」(使徒言行録十六章三十一節参照)という実に耳触りの良い偽福音、偽教義を吹聴しよったことと重なります。また、「蜂の巣のように滴り、」の「滴る (נָטַף)」には「予言する」という意味もあり、これはパウロがキリストの再臨に関する偽預言をして、一世紀当時から現代に至るまで多くの人を惑わしよることにも重なります。以下の文章はミカエル氏の記事から引用したものです。

 


あと、パウロは偽預言もした。携挙の根拠となる聖句として有名な箇所や。「主の再臨まで生き残る我等が〜」(テサロニケ一 四章十五節拙訳)とパウロは書いた。パウロ自身を含めテサロニケに居るキリスト者たちに向け、「主の再臨まで生き残る我等」と書いたことから、パウロは彼らが生きてる一世紀中にキリストの再臨があると考え、そう言うたという事実や。携挙については過去記事「携挙の真実」で書いたとおりで、キリストの再臨時に発生するため、世の終わりに起こる。艱難期は既にこのコロナ茶番によって始まっており、為政者どもが憲法違反の悪政を平気で行って人権や自由が侵害され、ワクチンという毒物によって命や健康を害され、それらに抵抗する正しい人が迫害され、欧米や豪州では逮捕や投獄が起こってるのが現実。この現実を以ってディスペンセーション主義者どもが唱える艱難期前携挙説は外れたことは明白や。そして、パウロも携挙の時期を約二千年も外したことになる。これは立派な偽預言や。

 

引用元:「真の聖書福音と預言」(アメーバブログ)「パウロは偽使徒


 

また、「彼女の子孫」の「子孫 (אַחֲרִית)には、「後世の人々、報い、罰、終わり」等の意味があり、「苦い (מַר)」には「苛立たせる」の意味があります。確かに「女」の「子孫、後世の人々」であるパウロ教徒の終わり、その悪行の報いは、悔い改めない限りは確実に苦いもの(地獄行き)になりますし、彼らは神をこの上なく苛立たせる存在でもあります。聖書における「苦よもぎ」とは背教者を意味し(申命記二十九章十七節参照)、キリスト者の間から偽使徒パウロが出て来たように、本当に苦くて危険な敵は不信仰者ではなく信仰者の中から現れるということで、今後そうした存在が出て来る可能性は十分にあります。

 

旧約聖書 箴言七章一節から五節、七節から十三節、十五節、十八節から二十二節、二十四節から二十七節 (拙訳)

我が息子よ、我が言葉を守れ。我が掟をあんたの傍らに備えるのだ。我が掟を守れ。そして、生きよ。我が律法をあんたの目の瞳のように(守れ)。あんたの指にそれらを結び付けよ。あんたの心の書き板にそれらを書き記せ。知恵に『あんたは我が姉妹』と言え。理解力を『血族の女』と呼ぶのだ。余所の女から、自分の言葉を取り繕う相容れぬ女からあんたを守るために。(六節中略) そして、単純な者たちを我は見た。我はその者たちの中から、確固たる心の無い(一人の)未熟者を確かに見付けたのだ。その角の側の通りを過ぎて、彼は彼女の家の道を足早に進んだ。日暮れ時の黄昏の中を。夜と闇の暗黒の中を。そして、見よ。(一人の)女が娼婦の装いと隠された心(と共に)彼を出迎えた。彼女は騒々しく、また、頑なである。彼女の足は自分の家に留まらない。ある時は異邦に。ある時は大通りに。また、あらゆる曲がり角の側で彼女は待ち伏せる。彼女は彼を掴み、顔色一つ変えずに口付けして、彼に言った。(十四節中略)『そのため、私は出かけました。あなたにお会いするために。あなたのお顔を懸命に捜すために。そして、あなたを見付けたのです。(十六節~十七節中略) さあ、来てください。夜明けまで愛に浸りましょう。愛で自らを慰めましょう。夫は家に居ません。遠くへ旅に出ました。彼はその手に銀の(入った)袋を持って行きました。定めの日に家に帰って来るでしょう。』彼女はその巧言の多さによって彼を堕落させた。彼女はその唇の甘言によって彼を駆り立てさせる。彼は屠殺場に向かう雄牛のように、直ちに彼女の後を付いて行った。愚者の懲罰のための足枷のように。(二十三節中略)

そして今、我に聞け、息子たちよ。我が口の言葉を傾聴せよ。彼女の道にあんたの心を傾けてはならぬ。彼女の通り道に迷い込んではならぬ。彼女は多くの不敬虔な者を滅ぼしたからだ。彼女に屠られた者たちは皆、(意志、頭、心等が)弱い者たちである。彼女の家は陰府の道。死の最深部へと向かっている。

 

上記の聖句から、この「女」の手口や特徴、その対処法等が分かります。長いので分割して見ていきます。


◯「余所の女から、自分の言葉を取り繕う相容れぬ女からあんたを守るために。


・「取り繕う (חָלַק)」には、「媚びる、人当たりの良い、取り込む、仲を裂く、分裂させる」等の意味もあり、「神に対して不法であるのではなく、キリストに対して律法に従っているんやが、律法に従ってへん人には、律法に従ってへん人を得るために律法を持たへん人のようになりました。」(コリント一 九章二十一節 ミカエル氏訳。聖句引用元「真の聖書福音と預言」「パウロは偽使徒」)等と、聖書に無知な異邦人を取り込むために彼らに合わせて媚びたり、耳触りの良い偽福音や理解しづらく紛らわしい言葉、一貫しない矛盾した発言(ローマ十二章十四節では「人を呪ってはいけない」とあるのに、ガラテヤ一章八節では「我が福音に反することを伝える者は呪われよ」とあること等)によって、一世紀当時から現代に至るまで数多くの要らぬ論争や教会内における分裂をもたらしたパウロと重なります。


◯「(一人の)女が娼婦の装いと隠された心(と共に)彼を出迎えた。彼女は騒々しく、また、頑なである。彼女の足は自分の家に留まらない。ある時は異邦に。ある時は大通りに。また、あらゆる曲がり角の側で彼女は待ち伏せる。


・「娼婦 (זָנָה)」には「淫婦、尻軽女、偶像崇拝、姦通を犯す」

・「隠された (נָצַר)」には「陰険、狡猾」

・「騒々しい (הָמָֽה)」には「下品、しつこい、態度が大きい、喚く、うるさい、迷惑」

・「頑な (סָרַר)」には「(以前の不信仰であった状態に)逆戻りする、反逆する、堕落する、強情、手に負えない、意地を張る」等の意味が他にあります。狡猾なファリサイ派の一員且つ高慢であったパウロもこれらに当てはまり、また、ミカエル氏が「イキる自称キリスト者になるな、騙されるな」にて弾劾された「リャンピン」という自称キリスト者も、「陰険、下品、しつこい、うるさい、迷惑、反逆する、堕落する」等に大いに当てはまっちょります。その他多くのパウロ教徒たちも皆、このような品性の持ち主です(ミカエル氏には直接言わず、陰でこそこそと悪口を言い合う等)。

彼女の足は自分の家に留まらない。ある時は異邦に。ある時は大通りに。また、あらゆる曲がり角の側で彼女は待ち伏せる。」は、主イエスの御言葉「あんたら律法学者たちとファリサイ派どもよ、あんたら偽善者は災いや。改宗者を一人作ろうと海と陸を歩き回り、改宗者が出来ると、その者をあんたらよりも倍悪い地獄の子にするからや。」(マタイ二十三章十五節 ミカエル氏訳。聖句引用元「真の聖書福音と預言」「偽使徒パウロの反キリスト教義 四」)と重なり、また、パウロも一つ所にずっと留まることなく、異邦であるアンティオキア、キプロス、ガラテヤ、エフェソ、フィリピ、テサロニケ、コリント、アテネ、ローマ等、海と陸を巡り歩いて懸命に自身の偽福音と偽教義を広めよりましたし、そのパウロの座であるローマ教皇に就任しちょるフランシスコが今も世界中を飛び回って各国を訪問し、人々の間で偽りの愛を振り撒きよることとも重なります。


◯「彼女は彼を掴み、顔色一つ変えずに口付けして、彼に言った。」『そのため、私は出かけました。あなたにお会いするために。あなたのお顔を懸命に捜すために。そして、あなたを見付けたのです。』


・「掴む (חָזַק)」には「捕らえる」

 ・「口付けする (נָשַׁק)」には「支配する」

 ・「変えず (固くする) (עָזַז)」には「厚かましい、恥知らず」

 ・「見付ける (מָצָא)」には「捕まえる、手中にする」という意味が他にあり、正にサタンが獲物を捕らえて餌食にしたことが表されちょりますし、パウロ教徒が平気で嘘をついたり、他人を誹謗中傷する(彼らには罪や恥の意識がまったく無い)こととも重なります。


◯『さあ、来てください。夜明けまで愛に浸りましょう。愛で自らを慰めましょう。夫は家に居ません。遠くへ旅に出ました。彼はその手に銀の(入った)袋を持って行きました。定めの日に家に帰って来るでしょう。


・「浸る (רָוָה)」には「酔う」

・「自分を慰める (עָלַס)」には「自惚れ屋、見栄を張る、祝う、喜ぶ、浮かれる、自分を安堵させる」等の意味が他にあります。「浸る」に係る「愛 (דּוֹד)」の原義は「煮る、茹でる」で、神が人を、人が神を「愛する」といった時に良く使われる「אָהַב」とは違い、こちらは通常「伯父、叔父」といった意味で使われ、「愛する、最愛の」と訳す場合も、当該聖句や雅歌、エゼキエル書十六章八節や二十三章十七節くらいで、恋人や愛人がその対象です。

 ・「自分を慰める」に係る「」はまた別の単語です。「אֹהַב」は当該聖句のみに使われちょる単語で、偶像や情婦(情夫)を愛するという意味合いがあります。こうした偽りの愛に酔い、「キリストの恵みによって我らは救われた。我らはもうすぐ携挙されるだろう。アーメン、ハレルヤ」等と浮かれ騒いで(互いに慰め合って安堵する)、かつてのファリサイ派と同様に自分たちが義人だと自惚れちょる多くのパウロ教徒たちが思い起こされます。しかし、「」(神、主イエス)は夜が明けた後(暗黒時代である大艱難時代の終りの時)の「定めの日」(キリストの再臨の日、主の日)に、その罪の報いと激怒を携えて必ず帰って来ます。


◯「彼女はその巧言の多さによって彼を堕落させた。彼女はその唇の甘言によって彼を駆り立てさせる。彼は屠殺場に向かう雄牛のように、直ちに彼女の後を付いて行った。愚者の懲罰のための足枷のように。


・「堕落させる (נָטָה)」には「後退する、邪道に導く、始末する、降参させる」

・「巧言 (לֶקַח)」には、「教義、主義、学説、もっともらしい、耳触りの良い」の意味があり、確かにパウロの耳触りの良い偽福音や偽教義、反キリストの神学者や哲学者等が提唱する無神論や啓蒙主義、人間主義等によって人々は堕落させられ、破滅へと向いよります。


 ◯「彼女の道にあんたの心を傾けてはならぬ。彼女の通り道に迷い込んではならぬ。彼女は多くの不敬虔な者を滅ぼしたからだ。」、「彼女の家は陰府の道。死の最深部へと向かっている。


・「傾ける (שָׂטָה)」には「堕落する、後退する、逸れて行く」

・「迷い込む (תָּעָה)」には「罪を犯す、騙す、誘い込む、怠らせる、捨てさせる、唆してさせる、魅了する、心がぐらつく、さ迷う、邪道に踏み迷う、道を踏み外す、迷子になる」

・「不敬虔な (חָלָל)」には「世俗的な、異教の」

・「滅ぼす (נָפַל)」には「仲違いする、脱落する、屈服する、圧倒する、飲み込む、魅了する」等の意味があり、パウロ教徒だけでなく、その他の不敬虔な異教徒や世俗的な不信仰者も皆、そのまま神に立ち返らなければ、必ず「女」(ローマ・カトリック、イエズス会、その他パウロ教等)に騙され、魅了されて屠られる(獣の刻印を押される)ことになります。こうした「女」は、使徒ペトロが「あんた方は慎み深くなりなさい。絶えず警戒しなさい。あんた方の敵対者である悪魔が、吠え猛る獅子のように、誰かを呑み込もうと探して歩き回っているからです。」(ペトロ一 五章八節 拙訳)と警告した悪魔そのものです。市販の日本語訳聖書では「食い尽くす」といった訳になっちょりますが、原語(καταπίνω)の原義は「飲み干す、まるごと呑み込む」なので、某は「呑み込む」と訳しました。これは蛇(聖書では悪魔の象徴)のようであり、悪魔の子である「女」に呑み込まれた先は陰府と死です。「悪魔 (διάβολος)」には「嘘をつく告発者、誹謗中傷する者。(原義は中傷者、サタン)」という意味が他にあるため、ここからも、ミカエル氏に対して何の根拠も示さずに「反キリスト、悪霊に取り憑かれている、偽預言者、魔人間、教祖」等と誹謗中傷し続けよるパウロ教徒たちや不信仰の者たちが悪魔の子であることがはっきりと分かります。(このことについては後述します)


◯「そして、単純な者たちを我は見た。我はその者たちの中から、確固たる心の無い(一人の)未熟者を確かに見付けたのだ。」、「彼女に屠られた者たちは皆、(意志、頭、心等が)弱い者たちである。

・「その者 (בֵּן)」には「青二才、反抗者、騒々しい者、心の乱れた者」
・「未熟者 (נַעַר)」には「赤子、下僕」

・「心 (לֵב)」には「勇気、不屈の心、熟考、理解力、知恵、知性、正気、一致」等の意味があり、単純(愚か)で心も悪く、未熟な者たちの中の更に知性や理解力等が無い赤子のような者、「(意志、頭、心等が)弱い者」が、この「女」に捕らえられて屠られたということです。これは、パウロ教に魅了されて離れられなくなったパウロ教徒たちが皆、知性や理解力(読解力も著しく欠けている)も無く、熟考することを知らず、正気を失っちょる様とぴたりと一致しちょります。彼らはパウロの教えすらも完全に守っておらず、極めて自己中心的で聖書の「言葉」を軽視するにわか信者であるため、確固たる心や勇気など当然ある筈もなく、それ故に、今後キリスト者に対する迫害が強まった時に完全に背教するでしょう。この、特に心も頭も悪い者、弱い者からサタンの餌食になっていくというのは神の篩を思わせます。また、「弱い (עָצוּם)」には「夥しい」の意味もあり、パウロ教に躓いてキリスト道に到達することなく滅んだ人は、一世紀当時から現代に至るまで数え切れない程居るため(百億人以上は居る)、これも確かにそのとおりになっちょります。


こうした俗悪な「」(偽使徒パウロ、パウロ教徒、ローマ教皇が率いるローマ・カトリックやイエズス会等)に取り込まれないようにするためには、以下の御言葉を守るしか道はありません。


◯「我が息子よ、我が言葉を守れ。我が掟をあんたの傍らに備えるのだ。我が掟を守れ。そして、生きよ。我が律法をあんたの目の瞳のように(守れ)。あんたの指にそれらを結び付けよ。あんたの心の書き板にそれらを書き記せ。知恵に『あんたは我が姉妹』と言え。理解力を『血族の女』と呼ぶのだ。余所の女から、自分の言葉を取り繕う相容れぬ女からあんたを守るために。


・この、神の律法と掟、言葉を守って心に刻みつけるようにと強く戒めておられるのは神御自身です。故に、律法からの離脱を勧めたパウロと彼に盲従するパウロ教徒は反キリストであり、サタンなんです。神の律法、掟、戒めを固く守り、御言葉を心に刻み付け、知恵と理解力を得ることによって、「余所の女から、自分の言葉を取り繕う相容れぬ女」から自分を守ることが出来ると神は仰っています。これは以下の聖句と繋がります。


主への畏れは知恵の始まり。これを行う者は皆、ええ洞察力がある。主の賛美は永遠に続く。」(詩編百十一編十節 ミカエル氏訳)、「主への畏れは理解力(洞察力)の始まり。愚か者は、知恵と矯正を酷く嫌う。」(箴言一章七節 ミカエル氏訳 両聖句共に「真の聖書福音と預言」「現実逃避をやめよ」より引用)

だが、それらの日々の後に、我がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである。『主の宣言』我は、我が律法を彼らの内に据え、その心に書き記す。そして、我は彼らの神となり、彼らは我が民となる。」(エレミヤ書三十一章三十三節 拙訳)

しかし、その方、真理の霊が来たら、あんた方をあらゆる真理に導くだろう。確かに、(聖霊は)その方自身のことを話すんやのうて、聞いたことを話すだろう。そして、彼らは今後起こることをあんた方に知らせるだろう。」(ヨハネ十六章十三節 ミカエル氏訳。聖句引用元「真の聖書福音と預言」「パウロを偽使徒と認めない反キリストの有様」)


神の律法、掟、戒めを守った上で主イエスの御名によって洗礼して神と契約を結び、聖霊を与えられることで神の律法が心に書き記されて新生し、知恵と理解力を与えられ、あらゆる真理へと導かれることでようやく「女」の魔の手から逃れられるということです。自分の力だけで抗おうとしよる人が非常に多いですが、そうした人は悪魔と支配層から見れば正に赤子同然であり、後に必ず彼らに打ち負かされて取り込まれるようになります。


ここで実例をあげます。こちら(Twitter)の「anna」氏の投稿を見ていきます。anna氏の固定ツイートには、「自分軸、楽しむ、波動をあげる等が正解だと思ってる人達😭 それらはフリーメイソンが作ったスピで、世界統一政府を目指してる思想💧」、「第2の死、火の池、つまり地獄に沢山の人間を連れていくのが支配者層+悪魔の目論見で彼らは利権でお金が欲しくてやっているのではない💦 彼らの悲願はずっと「神になりたい」一択‼️」、「私達が闘ってるのは悪魔サタンなんですよ〜😈 創造主につくか?サタンにつくか?自由意志でどちらを選ぶか?のテストなんですよ〜」、「聖書こそ、創造主こそ全てが繋がる。唯一の道であり真理である。」等、某が本記事の前編、中編で書いたことと似たことを言いよります。これらは確かにそのとおりです。では、anna氏は信頼出来る人か、聖書のことを良く知っちょるキリスト者かと言えばそうではありません。現在は削除しちょりますが、anna氏はかつてこの固定ツイートに、「…と、ここまで繋げてなんですがトップの記事がまさかの反キリストという事実判明(笑)他の投稿見たらパウロが偽使徒と🤣私も騙されてたけど騙されないで!(笑)警告⚠️今後、キリストを用いての騙くらかし合戦だからどれが本物か?を見極める戦い😱もう陰謀系は調べずそれだけに注力すれば良い😅」と、以前はミカエル氏の記事を紹介しちょったものの、ある時急に手の平を返してミカエル氏を反キリストだと言い始めました。パウロが偽使徒、反キリストであることは、ミカエル氏が複数の記事と動画によって完璧に論証済みの事実ですし、これまで述べたとおり、パウロは背教者たる「女」の特徴と数多く重なっちょるのも事実であるため、その事実を否定して、反キリストであるパウロを聖書をもって弾劾するミカエル氏を根拠も無く誹謗中傷するこのanna氏こそが反キリストであり、悪魔の子であることは明らかです。調べると直ぐに分かるとおり、誹謗中傷は立派な犯罪です。そもそも、相手を非難するのならそれ相応の根拠を示すのはごく当然のことであり、それもせずに軽々しくSNS内で他人を誹謗中傷するその品性と思慮の浅さはまったく理解出来ません。その悪い行いを正すために、某の信仰の兄弟である白氏が以下のように返信をしました。



画像引用元
https://mobile.twitter.com/Syuniyoruai/status/1578747449685864448

「このツイートは、ツイートの作成者により削除されました。」とあるのが、anna氏が削除した例の投稿です。上記画像から分かるとおり、anna氏は聖書の使徒言行録を読んだことすらないのに「私はパウロを偽使徒とは捉えておりません」と言ってのけました。これでは、ミカエル氏のパウロを弾劾する記事もまったく読んじょらんでしょう…。要は根拠も何も無く「パウロは偽使徒じゃない。そんなことを言う人は反キリストだー」と非常に幼稚なことを言いよるということです。この様は、先の箴言にあった知性が無く、熟考することを知らない赤子のような「未熟者、弱い者」とまったく一緒です。聖書を一度も通読したことがないとか、本当に話になりません…。それでどうしてこんなことを平気で言えるのか、繰り返しますが心底理解出来ません。
さて、そんな愚言を受けた後の白氏の返信に対し、「この情報に限らず、全ての情報は100%合ってるとは思わないのでそういった意味合いでの注意喚起として載せたもので貶めてるとは思わないですがご不快に思われたのならすみません💦」とanna氏は答えましたが、いや、誹謗中傷して貶めてるやろ…、となりますし、これは不快か否かという感情的な問題でもないんです。反キリストであり、「女」の代表格でもあるパウロを「パウロは使徒ではなく偽使徒であり、主イエスの御言葉に数多く反した反キリスト。そんなパウロの偽福音、偽教義を信じた先には滅びしかない。偽り者のパウロに盲従するのをやめて、神である主イエスの御言葉に忠実に依拠して実践するべき。」と、聖書を基に正しく主張されよるミカエル氏を「このブログ管理人は、パウロを偽使徒と言う反キリストです。皆さん、騙されてはいけません。(何の証拠も無いし、この人の記事も良く見てないけど、パウロを否定するなんておかしい)」と貶めるこの行為は、かつてのファリサイ派や律法学者たちと同じように、自分が天の王国に入ろうとしないばかりか、入ろうとする他の人をも躓せて地獄行きの道連れにしよることであり、躓きをもたらす者に対する主イエスの強い警告(マタイ十八章六節~七節参照)を無視した非常に罪深い行為でもあります。

結局、anna氏は白氏の至極真っ当な指摘に窮して会話を打ち切り、ミカエル氏を誹謗中傷した自身の投稿を削除して逃亡しました。某もパウロ教徒たちと話をしたことが結構ありますが、皆このような品性と行動様式なので(程度の差はありますが)、彼らは同じ反キリストの霊を受けちょるんやなとよく思います。


画像引用元
https://mobile.twitter.com/Anna57010904/status/1593738760650620930

白氏との会話の中では明らかになりませんでしたが、上記の画像からanna氏に「ミカエル氏はパウロを偽使徒と呼ぶ反キリスト。」と言って唆したのは「愛希」氏である可能性があることが分かります。愛希氏はネット上で聖書を無償で他人に寄贈したり、安息日は神が定められた永遠の掟だから守るべきとは一応言いよりますが、この人もパウロ教徒で、ツイッターでミカエル氏を「偽預言者だ。危険人物だ」と、anna氏と同じように何一つ正当な根拠を示すことなく誹謗中傷し続けよります。anna氏は、こちら(Twitter)にあるとおり、数か月前に自分から愛希氏の許に行って接触しており、以後何度かツイッター上で交流して仲良くなったようで、これは先の箴言七章の「未熟者」が自ら暗闇の道を歩いて陰府と死に繋がっちょる「女」の家に向かったことを思わせます。こうして、anna氏は偽り者の愛希氏に取り込まれて同じ反キリスト、「女」の娘となって堕落したんでしょう。愛希氏が言いよる「ハムタロ」牧師も、神の律法を守ることを否定して「信じるだけで救われる」と吹聴する典型的なパウロ教徒でまったく話にならん人ですが、この牧師を非難しよる愛希氏も同じパウロ教徒なので同じ穴の狢です。「99%正しいことを~」、「それを読んでミカエル氏を信じてしまった方々が居た場合その責任を主から問われます。」等と言いよりますが、いや、聖書の無償配布という偽善で獲物を誘き寄せて捕らえ、嘘(毒)を吹き込んで殺しよるのはあんたの方やし、主からその罪を問われて厳しく罰せられるのもあんたの方なんやけど、となりますし、他のパウロ教徒たちと同様、その発言の悉くがブーメランになって返ってきちょることが分からなくなっちょると思われます。こちら(Twitter)にあるとおり、以前、某は愛希氏に関する注意喚起の文をツイッターに投稿しましたが、以後も愛希氏は変わらず悪行を続けよりますし、某の口座(アカウント)も遮断(ブロック)しました。anna氏にしろ、愛希氏にしろ、こんなことをして誰が一番喜ぶかといえば当然悪魔であり、「女」の行いである「分裂させる、反逆する、恥知らず、邪道に導く、騙す、誘い込む、唆してさせる、誹謗中傷する」等とまったく同じことをしよるanna氏と愛希氏は、「女」の娘、人殺しである悪魔の欲望を満たそうと励む悪魔の子(ヨハネ八章四十四節参照)、主イエスの教えに違反して留まらず、人々を惑わす反キリスト(ヨハネ一 二章二十六節、ヨハネ二 九節参照)であることが明白です。

ミカエル氏や某を含めた他の兄弟姉妹のブログを読んで「いいね」をしていながら、この愛希氏の自己愛と自己顕示欲に満ちたブログにも「いいね」をして賛同しちょる人が居ますが(愛希氏のブログに限らない)、それは聖書をまったく理解出来ちょらんということですし、人を見る目がまったく無いということでもあります。そのようにどっちつかずの道を歩み続ける人は、後に必ず反キリスト側へと堕ちることになるので、時がある内に聖書を真剣に学んで実践して欲しいと思っちょります。

また、以下の牧師も大変酷いものです。


本記事でも何度も書いたとおり、安息日は週の第七日の土曜日(金曜日の日没から土曜日の日没まで)であり、神と神の民の間の印でもある非常に重要な掟です。しかし、上記の「pastormaikuma」という日本基督教団の牧師は、「キリスト教会で、日曜日は「安息日」。」と大嘘を堂々と言いよります。「愛本出版」代表とか、「amazonからキリスト教関連本・絵本等を多数出版中」等と言って、一万二千人ものフォロワーが居ますが、結局はイエズス会由来の偽りの神学を神学校で植え付けられただけの存在であり、その言いよることは嘘ばかりの反キリストです。この牧師はコロナ犯罪すら否定しよりませんし、世界経済討論会の顧問ユヴァル・ノア・ハラリ氏の著書の題名であり、造語でもある「ホモ・デウス(神になった人類の意)」の言葉を用いた「愛は死のように強く: ホモ・デウスの審判」という彼の著書とその内容からもまったく信用ならん人物です。先述したとおり、このように嘘を広めて他人を躓かせる行為は非常に罪深いことであり、「偽りの噂を流してはならんし、罪人(犯罪者)にあんたの手を貸して悪の証人になってもならん。」(出エジプト記二十三章一節 ミカエル氏訳。聖句引用元「真の聖書福音と預言」「日本人の問題点 一」)とあるように、明確に律法違犯でもあります。律法違犯(不法行為)こそが罪であり、その罪の報いは地獄行きです。しかし、彼らパウロ教徒はまったく罪の意識を持たず、その罪を指摘して悔い改めを勧める正しい声に対しても、「何で自分にそんなことを言いに来るのか。何でそんなに攻撃的なのか。そういう自分は罪を犯したことがないのか。偉そうに人を裁くな。イエス様がたかがこのくらいで怒る訳ないだろ。」等と悔い改めを拒絶して猛反発したり、「分かりました。ありがとうございます。」と聞き入れたふりをしてその後もまったく変わらない人だらけです。これは、これまで述べたとおり、彼らが「態度が大きい、喚く、迷惑、強情、手に負えない、恥知らず」な「女」の娘で、「姦通を犯している姦婦の道もそうである。彼女は貪ってその口を拭い、『私は不法行為など行っていません。』と言う。」(箴言三十章二十節 拙訳)と開き直る悪魔の子だからです。「拭う (מָחָה)」には「(法や制度を)廃止する、意識的に忘れる、滅ぼす」等の意味が法にあり、これはミカエル氏が「安息日の重要性とモーセの律法」で書かれちょるとおり、「大バビロン、淫らな女ども、地の忌まわしい者どもの母」(黙示録十七章五節参照)であるローマ・カトリックの頭たるローマ教皇が、ダニエル書七章二十五節の預言どおりに「カトリックの十戒」と称して勝手に神の律法を変えたことと重なりますし、「意識的に忘れる」は、ミカエル氏が「聖霊を受ける条件と悪霊の働き」で取り上げて弾劾された、現ローマ教皇フランシスコが勝手に作った「幸福のための十戒」の八条「悪いことはさっさと忘れる。」を思わせます。パウロ教徒たちは、彼が作った十戒の多く(一の「人を裁かない。」、四の「余暇を楽しむ。」、五の「日曜日は家族のために。」、八の「悪いことはさっさと忘れる。」、九の「信教を強要し過ぎない。」等)に従って実践しよるため、既に獣の刻印を受けちょるも同然だと思います。愛希氏は、「カトリックは安息日を勝手に日曜日に変えた。神への冒涜行為だ」と言いよっても、他に律法違犯を何度も繰り返しちょったり、その他の悪行で結果的に悪魔とローマ教皇を手助けしよるので、結局は対立を偽装したプロレスをしよるような感じになっちょります。勿論、それは彼らが事前に対面して打ち合わせをした訳ではなく、同じ反キリストの霊を受けちょるからこそ、神と神に従う真のキリスト者への憎しみの下に協力、結託(本人たちに自覚はまったく無い)しよるということです。これは聖書をまったく読まない不信仰の人たちもそうで、ローマ教皇が「愛の行為」と言ったコロナワクチン接種を完了した人も既に彼の所有物となっちょりますし、聖書の真理や真実を嘲笑って拒絶したり、その真理に反したこと(大地球体説や地動説、進化論等)を吹聴する等して、様々な面で神に敵対しよる人も大勢居ます。そうしたことについて、以下の聖句から考えていきます。

旧約聖書 箴言二十三章二十六節~三十三節、三十五節 (拙訳)
我が息子よ、あんたの心を我に委ねよ。あんたの目は我が道を注視せよ。姦通をする女は深い落とし穴であるからだ。そして、相容れぬ女は争いの泉である。その上、彼女は追い剥ぎのように待ち伏せ、人々の間で罪人を増加させるだろう。悲哀は誰のものか。不幸は誰のものか。言い争いは誰のものか。うわごとは誰のものか。謂れの無い侮辱は誰のものか。目の充血は誰のものか。(それらは) ぶどう酒の許に留まる者どものもの。混ざったぶどう酒を味わうために押し寄せる者どものもの。あんたはぶどう酒を見つめてはならぬ。それが赤く染まる時。その色が杯の中で変わる時。それは心地好く(喉を)通るだろう。それは最後に蛇のように咬み、蝮のように苦痛を与えるだろう。あんたの目は余所の女どもを見て、あんたの心は邪なことを発するだろう。(※三十四節中略) 『奴らは我を打ったが、我は病気になどなっていない。奴らは我を叩いたが、我は認めぬ。いつ、我は目覚めるのだろうか。我は更にそれ(ぶどう酒、混ざったぶどう酒)を願い求め続ける。』

上記聖句も長いので、分割して原語の他の意味と共に見ていきます。

◯「我が息子よ、あんたの心を我に委ねよ。あんたの目は我が道を注視せよ。

・この聖句においても、「女」に気を付けるように強く戒められちょるのは神であり、「我が道」とは「彼(主)は御自分の道をモーセに、御自分の業をイスラエルの子らにお示しになる。」(詩編百三編七節 拙訳)とあるとおり、モーセに示された道のことです。それは、以下の聖句からはっきりします。

あんた方は我が僕モーセの律法を思い起こせ。それは、全イスラエルのために我が彼に命じた法と正道である。見よ、我は、大いなる恐るべき主の日が訪れる前に預言者エリヤをあんた方に遣わす。彼は、父たちの心を息子たちに向けさせ、そして、息子たちの心を父たちに(向けさせるだろう)。我が、絶滅を定めて地を撃つことがないように。」(マラキ書三章二十二節~二十四節 拙訳)
(それは)あんた方が思い起こして、我がすべての掟を行い、あんた方の神に属する聖なる者になるためである。」(民数記十五章四十節 拙訳)
天に御座すあんた方の父が完全であらはるように、あんた方も完全になりなはれ。」(マタイ五章四十八節ミカエル氏訳。聖句引用元「真の聖書福音と預言」「受け身をやめよ、行動せよ」)「もし、あんた方がモーセを信じていたなら、我(主イエス)を信じていただろうからだ。彼は、我について書いたからである。」(ヨハネ五章四十六節 拙訳)

つまり、神がモーセに示された道とは、神の律法、掟、戒めをすべて最期まで守り抜き、神と同じ完全で聖なる者を目指すキリスト道です。確かに、我は主である。我は変わらない。そして、あんた方はヤコブの息子たちである。あんた方が絶えることはない。」(マラキ書三章六節 拙訳)、イエス・キリストは、昨日、今日、また永遠に同じや。」(ヘブライ十三章八節 ミカエル氏訳。聖句引用元「真の聖書福音と預言」「偽使徒パウロの反キリスト教義 二)とあるように、神である主イエスは永遠に変わらない御方であるため、その御自身の道も永遠に変わりません。そして、「その時、シモン・ペトロは答えて言った。あんたこそメシア、生きている者の神の御子です。」すると、イエスは答えて彼に言われた。「あんたは祝福された者だ。ヨナの息子シモンよ。血肉ではなく、確かに天に御座す我が父があんたに示されたからである。そして、我もあんたに言う。あんたはペトロ(岩)である。我は、この岩の上に我が教会を築く。そして、陰府の門は、それに対して打ち勝ちはしない。」(マタイ十六章十六節~十八節 拙訳)とあるとおり、父なる神が祝福され、御自分が直接お選びになった使徒ペトロの上に「我が教会を築く」と主イエスは強く宣言され、十字架刑による死から復活と四十日に亘る滞在を経て昇天される際に、「このように書かれてる。『メシアはこのように苦しむ必要があり、三日目に復活する。また、回心と罪の赦しが、その名の下にあらゆる国の人に宣ベ伝えられる』と。エルサレムから始まり、更に、あんた方はこれらのことの証人や。」(ルカ二十四章四十六節~四十八節 ミカエル氏訳。聖句引用元「真の聖書福音と預言」「動画四回目投稿 現代語訳聖書の翻訳は間違いが多い 前編」の動画十一分十秒頃)と、「回心と罪の赦し」がエルサレムから始まるとも言われました。そして、後に主イエスの御言葉どおりにペトロが監督者となって立ち上げたエルサレム教会では、幾万人ものユダヤ人のキリスト者たちが熱心に律法を守りよりました(使徒言行録二十一章二十節参照)。陰府の門」とは、彼女の家は陰府の道。死の最深部へと向かっている。」(箴言七章二十七節 拙訳)、「姦通をする女は深い落とし穴であるからだ。」(箴言二十三章二十七節 拙訳)等から、「女」である偽使徒パウロが創始した「地の忌まわしい者どもの母」であるローマ・カトリックと黙示録の獣たるローマ教皇がそれにあたり、死に勝利して死と陰府の鍵をお持ちの主イエス(黙示録一章十八節参照)がペトロの上に築かれた、この教会(神の律法を守る真のキリスト者の集まり。建物ではない)こそが「陰府の門に負けず、獣の刻印を拒否して第二の死にも打ち勝つということではないかと思います(黙示録二十章四節~六節参照)。

◯「姦通をする女は深い落とし穴であるからだ。そして、相容れぬ女は争いの泉である。

そして、相容れぬ女は争いの泉である。」の「泉 (צַר)」には「敵、悩みの種、災い、艱難、不幸、争い、揉め事」等の意味が他にあり、「平和をもたらす者たちは幸いである。その者たちは神の子と呼ばれるだろうからだ。」(マタイ五章九節 拙訳)と主イエスが仰った神の子(神の民)とは真逆であることからも、パウロ教徒は神の子やないということが明らかです。

律法を拒絶した者どもは邪悪な者を誉め上げる。だが、律法を守る者たちは彼らと戦う。(※物理的に戦うのではなく、言葉で戦うということ)」(箴言二十八章四節 拙訳)、「律法を守る者たちの嫌悪は不法の者。邪悪な者の嫌悪は正しい道である。」(箴言二十九章二十七節 拙訳)とあるとおり、神の律法を守る者と守らない不法の者は決して交わることはありません。パウロ教徒たちが、こぞって律法遵守を説くミカエル氏を誹謗中傷して憎しみをぶつけよるのはこれが理由です。繰り返しますが、そんな彼らは「邪悪な者」であって神の民ではありません。

◯「その上、彼女は追い剥ぎのように待ち伏せ、人々の間で罪人を増加させるだろう。
・「追い剥ぎ (חֶתֶף)」には「捕食者、戦利品、略奪品」
・「罪人 (בָּגַד)」の原義は「不誠実、不貞、罪を犯す、逸脱する、裏切る、油断できない、危険な、あてにならない」
・「人 (אָדָם)」には「偽善者、猫かぶり、程度の低い人」
・「増加する (יָסַף)」には「結び付ける、協力させる、結集させる」等の意味が他にあり、これは以下のミカエル氏の言葉と重なります。(※パウロはベニヤミン族出身)


旧約聖書 創世記 四十九章二十七節(拙訳)
ベニヤミンは引き裂く狼で、朝に獲物を貪り食い、晩に戦利品を分ける。

イスラエル十二部族の祖であるヤコブは上記のとおり述べた。「ベニヤミンは引き裂く狼」とあるとおり、羊(キリスト者)の群れを散らし、仲違いを起こす存在である。序盤から獲物を貪り食い、終わりには戦利品(戦いに勝ってに相手から強奪した物)を分ける。この言葉は、一世紀、偽使徒パウロが十二使徒や初代教会のエルサレム教会員といった律法を擁護する正統派と仲違いして律法を軽視するパウロ派という分派を作り、そのせいでキリスト教業界に分裂を生み出し、聖書知識がまったく無い異邦人をはじめ多くのにわか信者を自身の偽福音の虜にして(獲物として)貪り、終わりの時代に近くなるにつれて戦利品(にわかキリスト者ども)を分けたという風に捉えられる。

引用元「真の聖書福音と預言」「偽使徒パウロの反キリスト教義 五


ローマ教皇もまた、黙示録の獣として全地を支配する時、第二の獣たる米国の暴力をもってすべての人に獣の像を拝むように強制する(偶像礼拝、姦通を強制する)ことで、背教者、裏切り者を続出させて、その者たちを真のキリスト者に対する迫害者として結集させるようになると思います。

◯「悲哀は誰のものか。不幸は誰のものか。言い争いは誰のものか。うわごとは誰のものか。謂れの無い侮辱は誰のものか。目の充血は誰のものか。
・「言い争い (מָדוֹן)」には「不和、内輪揉め」等の意味があります。
これら「言い争い、うわごと(いつまでも「自分たちは携挙されて救われる」と言い続けよること等)、「謂れの無い侮辱」(誹謗中傷)」は正にパウロ教徒のものです。この「うわごと」と言うのは、高熱を出して意識が朦朧とする中で発せられるものといった類いではなく、赤子が発する特に意味の無い言葉のこと(俗に言う「赤ちゃん言葉」)です。また、言い争いになるのは、先の箴言二十八章四節にもあったように、律法を蔑ろにしたパウロの偽福音、偽教義を信じて広めるその悪行を止めるためにこちらが指摘し、それに対して彼らが無駄に反発するから言い争いになるのであって、我らが争いの火種を作りよる訳ではないので誤解なさらぬようお願いします。

◯「(それらは) ぶどう酒の許に留まる者どものもの。

・聖書において「ぶどう酒」とは「教え、教義(善悪共に)」等の例えとして用いられちょります。当該聖句の場合は、「彼らの岩は我らの岩のようではない。我らの敵どもが(その)判定者である。彼らのぶどうは、ソドムのぶどうの木とゴモラの畑からのものである。彼らのぶどうは毒のぶどう。ぶどうの房は、彼らにとって苦いもの。彼らのぶどう酒は蛇どもの毒、蝮どもの無慈悲な毒液である。」(申命記三十二章三十一節~三十三節 拙訳)から、ソドムのぶどうの木とゴモラの畑のぶどうから出来たぶどう酒(蛇と蝮の毒)だと某は考えます。上記聖句の「彼ら」、「我らの敵ども」とは、申命記三十二章全体の文脈から分かるとおり、神とイスラエルの民に敵対する者、偽りの神々(悪魔)を拠り所(岩)とする者、つまり反キリストです。ソドムとゴモラとはかつて存在した町の名前で、そこに住む邪悪な住民が犯した甚だしい罪のために、神が天から硫黄の火を降らせて滅ぼされました(創世記十八章二十~十九章二十九節参照)。その住民の罪とは、「同様に、ソドムとゴモラ、またそれらの周辺の町々は、これらに似たやり口で姦通に没頭し、異様な肉欲(※同性愛のこと)を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて見せしめとして示されています。」(ユダ一章七節 拙訳)とあることから、姦通(偶像崇拝も含む)と同性愛であったことが分かります。他にも数多くの律法違犯による罪があったでしょうが、これらが主やったと思われます。ソドムとゴモラの原語とその意味は、סְדֹם(ソドムは「燃える」の意)、עֲמֹרָה(ゴモラは「水没」の意)であり、ソドムはこの一件とキリストの再臨時に地上が焼き尽くされることを(ペトロ二 三章十節参照。他多数)、ゴモラはかつて全地が不法と暴虐に満ちたためにノアとその家族、そして彼らと共に方舟に入った動物以外のすべての地上に生きるものが大洪水によって神から滅ぼされたこと(創世記 六~八章参照)を暗示しちょるように思います。ソドムとゴモラに関係する他の聖句は、「そして、我(主なる神)はエルサレムの預言者どもの中に実に酷いものを見た。姦通すること、偽りの内に歩むことである。彼らは悪を行う者どもの両手を強めた。各々が、その悪から回心しないように。我にとって、彼ら皆がソドムのようであり、そこに住む者どもはゴモラのようだ。」(エレミヤ書二十三章十四節 拙訳)があり、この聖句からも姦通(偶像崇拝)、偽りの内に歩むこと(律法違犯を続けて悔い改めない生き方)がソドムとゴモラの性質であることが分かります。また、人々を惑わして堕落させる偽預言者(ソドム)とそれに騙されて同じ仲間になっちょる者も、神の視点ではゴモラに等しいとあります。これは、「彼らは自らの罪を負う。尋ね求める者の罪は、その預言者の罪と同様になる。」(エゼキエル書十四章十節 拙訳)と同じで、騙す方もそれに騙される方も同罪ということです。
こうしたことから、「ソドム」と「ゴモラ」は「姦通(偶像崇拝)、律法違犯、偽預言者とそれに盲従する者、神の裁きによる滅び」を暗に示す言葉でもあると言えます。

次は、「彼らのぶどう酒は蛇どもの毒、蝮どもの無慈悲な毒液である。」から、蛇と蝮とその毒が示すものとは何かを見ていきます。「彼らは蛇のようにその舌を尖らせました。彼らの唇には蝮の毒(があります)。」(詩編百四十編四節 拙訳)、「蛇どもよ、蝮どもの子らよ。どうして、あんた方は地獄の刑罰から逃れ得ようか。」(マタイ二十三章三十三節 拙訳)等が関連聖句です。聖書において蛇と蝮は悪魔を指す言葉で、悪魔のような舌、唇に悪魔の毒があると上記聖句にあることから、毒とは言葉(嘘、甘言、偽福音や偽教義等)を意味していると考えられます。「尖らせる (שָׁנַן)」には「一生懸命教える」という意味が他にあることもそれを裏付けます。そして、「蛇どもよ、蝮どもの子らよ」と、主イエスが強く非難されたのはファリサイ派や律法学者たちなので、蛇と蝮の毒とは、一世紀当時の「女」であったファリサイ派や律法学者、ファリサイ派の子たるパウロの偽福音と偽教義、パウロ教のこととも言えると思います。

これらをまとめると、箴言二十三章二十節「(それらは) ぶどう酒の許に留まる者どものもの」の「ぶどう酒」とは、神と真のキリスト者(霊的イスラエル人)を敵視する反キリスト(ローマ教皇と彼が率いるローマ・カトリック、イエズス会を頂点とする支配層や偽預言者等。彼らに従う人々も同類)による、偶像崇拝(姦通)をはじめとした律法違犯とその罪の報いである永遠の滅び、地獄へと誘う毒を含んだ言葉(パウロ教、仏教、イスラム教、コロナ教、無神論、人間主義、大地球体説、地動説、進化論等)、つまり、聖書の真理、真の聖書福音と預言以外の反キリストたちによるあらゆる嘘であると某は考えます。

・「留まる (אָחַר)」には「延期する、怠慢、ぐずぐずした、~のままでいる、遅れる、手間取る、居残る、残留する。(原義は、道草を食う、のらりくらりと過ごす)」
・「ぶどう酒 (יַיִן)」の原義は「酔い、興奮、夢中」等であるため、パウロ教に夢中になっていつまでもそこから脱出しようとしないパウロ教徒が思い起こされますし、真の聖書福音と預言以外の悪魔とローマ教皇を頂点とした支配層が作った数々の異教や主義、思想、つまり「世俗教」に夢中になって留まり続けよる人も同じです。前にも述べたとおり、人それぞれに与えられた恩恵期間には限りがあります。故に、いつまでもその「ぶどう酒」に耽っていると恩恵期間が過ぎてしまい、ついに目を覚ますことなく深い眠りに落ちて(二度と回心出来なくなる)、永遠の滅びが確定することになってしまいます。これは、「余所の女どもの口は深い落とし穴。主に忌み嫌われた者はそこに落ちるだろう。」(箴言二十二章十四節 拙訳)とあるとおり、神が悔い改めを拒絶して「女、ぶどう酒」の許に留まり続ける人を怒りと共に見限って、完全に悪魔の手に渡すことを許可されたということでもあると考えます。「忌み嫌う (זָעַם)」に「憎悪、不快、汚らわしい、(悪に対する)憤怒」等の意味が他にあるからです。恩恵期間が過ぎ、神に忌み嫌われて完全に切り離された後は惑わしの霊(悪霊)を送られ(サムエル記上 十六章十四節~十六節、列王記上 二十二章十九節~二十五節、イザヤ書二十九章九節~十二節参照。他多数)、「そして、イザヤの預言が彼らに実現された。それ曰く、「聞くことで聞くだろうが、決して理解せえへん。見るには見るだろうが、決して認めへん。この民の心は愚かにされ、耳には鈍く聞き、彼らの目を閉じた。彼らは目で見ず、耳で聞かず、心で理解せず、悔い改めへん。そして、我は彼らを癒して完全にせえへん。」」(マタイ十三章十四節〜十五節 ミカエル氏訳。聖句引用元「真の聖書福音と預言」「現実逃避をやめよ」)とあるように、聖書の真理やその他の真実を一切理解出来なくなって反発するようになり、心が悪に染まって正しい人を憎んで迫害するようになります。先述した、ミカエル氏を誹謗中傷したり、聖書の真理を嫌って拒絶しよる人たちは既に神に見捨てられちょる可能性が高く、その後は「毒麦」としてますます悪い者へと成長(堕落)していくだけです。聞くに堪えない程の下品な言葉を吐いたり、憎しみに満ちた言葉を発する人も居ますが、「蝮どもの子らよ、あんた方は邪悪な者でありながら、どうして良いことを話すことが出来ようか。なぜなら、口は心に充満することから話すからだ。」(マタイ十二章三十四節 拙訳)と主イエスが仰ったとおり、そうした言葉が外に漏れるということは、その人の心の中はそれだけ邪悪な思いで満ち溢れちょるということです。

ツイッターを見ると、「ワクチンや個人番号(マイナンバー)等が獣の刻印だ」と言いよる人を結構見かけます。そして、そうした話に興味を持っちょる人も少なくありません。しかし、獣の刻印の本質は獣たるローマ教皇が定める反聖書的な秩序に従った末に押される目に見えない霊的な刻印であることを受け入れる人は殆ど居らず(皆無かもしれない…)、また、ローマ教皇が黙示録の獣で支配層の頂点ということも信じることなく(聖書やミカエル氏の記事を真剣に読んだり、歴史や支配層の計画等のその他のことを調べない)、そうしたことを見聞きした後も変わることなく「ワクチンがー、マイナンバーがー、仮想通貨がー」と、うわごとのように言い続ける人が多いのには「ちょっと心が鈍すぎやしないだろうか…。」と正直思いますし、特に獣の刻印を押すことを許可されてそのようにするようお命じになるのは神であられることに注意すべきです。目に見えるワクチンやマイナンバー、クラウス・シュワブ氏やビル・ゲイツ氏等の支配層の方がどうしても気になるのかもしれませんが、すべてを支配してお決めになっちょるのは目に見えない神です。コロナの欺瞞を見抜いた人の中には、既に神に見限られて悪霊を送られちょるのではないかと思われる人が居ますし、「コロナはもう飽きた。」等と言っている人も見かけますが、どうかそんな愚かで呑気なことを言ってないで、ご自身の恩恵期間が過ぎぬ内に聖書とミカエル氏のブログから学ばれてください。

後編 (二)に続きます。