こんにちは!

ジャカルタ在住、3ヶ月。

まだまだ働きたい駐妻のまきこです。

 

ご訪問いただきありがとうございます。

 

 

私のリアル自己紹介ストーリー。

【My Story】シリーズ

 

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今までのストーリーはこちら。

 

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【幼少期】

①お母さんのいない運動会

②ずっとは続かないかもしれない

③私が挑戦できるわけ

【番外編①】書いたら気が付く今の私

 

【中学~高校、浪人】

④挫折の始まりと原点

⑤見せかけ優等生の終焉と新しい決意

⑥間違った努力

【番外編②】本気であの間違えを私はしていたのか!?

 

【大学~就活編】

⑦広がる世界

⑧そこにあったリアル

⑨選ぶ?選んでもらう?

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第10回目の私は新入社員。

いよいよ社会人。

 

 

女性の少ない工作機械業界の

会社に選んでもらった私。

 

 

意気揚々と社会人になるものの

そこでそんな自信は早々に打ち砕かれる。

 

 

 

早く社会人になりたい。働きたい。

 

 

大学最後の1年間は

すごく強くそれを思っていた。

 

 

浪人&休学で

周りよりも2年遅れた就職。

 

 

小学生から大学を卒業するまで18年も

学生をやってきた。

 

 

 

もう社会から貰うだけの

学生生活は十分。

 

 

 

そろそろ自分の力を

社会に返していかなくては。

 

 

 

それに自分の行きたい業界の内定ももらえた。

 

 

ここで私は

日本のモノづくりを通して

アジアの国々に雇用を生む仕事をする。

 

 

2008年4月、

リーマンショック直前の

新入社員だった私たちは

今では考えられないくらい手厚い会社の歓迎を受け、

社会人としての第一歩を踏み出した。

 

 

私はそれはそれはやる気のある

新入社員だった。

 

 

自信もあった。

 

 

 

が、その根拠のない自信は

ほんの数日で打ち砕かれた。

 

 

 

 

配属された部署は海外部。

 

 

北米やアジア各地の海外駐在員の商談を

日本側で受ける仕事。

 

 

商品の見積もり、注文、

輸出許可、船積みの手配、支払いの管理。

 

 

大型だと総額何億ともなる

何台もの工作機械の輸出。

 

 

会社としても重要な海外案件を扱う部署だった。

 

 

でも新入社員の私が

もちろんいきなり何億もの商談の

担当をさせてもらえる訳がない。

 

 

海外経験も多いし、

仕事は私はできる。

 

 

そんな根拠のない自信をもって

入社した私が任された仕事は、

 

 

 

分厚い会議の資料のコピー、

簡単な社内向け資料作成、

ちょっとしたお使い。

 

 

 

それくらい。

 

 

 

私の面倒を見る担当になった

先輩社員の女性は

自分の仕事も忙しく手いっぱいで

ほぼ私の面倒は見てくれなかった。

 

 

 

彼女から仕事を

振ってもらわなければ何もやることがない。

 

 

 

 

何もないパソコンと睨めっこしつつ

だた待つ。

 

 

 

 

そんな日もあった。

 

 

 

 

待ってても仕方ないから

書類の棚の整理をする。

 

 

 

 

浪人して、休学して、

海外経験もある私が書類整理!?

こんなことをしてていいのか。

 

 

 

何のためにここにいる?

 

 

 

学生までは

社会からある程度守られた存在。

そこで醸成された「根拠のない自信」。

 

 

 

私はもっとできるのに。

 

 

 

それがガラガラと崩れていく。

 

 

 

 

私はアジアの国に雇用を生むために

仕事をしたいのに!

 

 

 

そんなやり切れない思いは、

お昼休み、同期の女子社員たちとの

ランチタイムでで発散されていた。

 

 

 

 

「仕事、面白くないね」

 

 

 

 

 

そんな負の空気が常に漂う

ランチの時間だった。

 

 

 

 

そんな"面白くない”仕事がほどんど

だったけれど好きな仕事もあった。

 

 

 

それは海外からのお客様のアテンド。

 

 

 

海外のお客様が

実際に日本に来て注文した商品の確認をする。

 

 

 

その為に、新入社員の私が

お客様をメーカーの工場にお連れし、

メーカーとお客様を繋ぐ役目。

 

 

 

とは言っても新入社員。

文系出身の私が工作機械のアレコレが

わかる訳もなく。

 

 

日本のエンジニアと

海外からのお客様のエンジニアの

簡単な通訳をするくらいな役目だった。

 

 

というか、現場ではほぼ通訳は必要なかった。

 

 

 

言語が違っても

エンジニア同士はやり取りができていた。

 

 

 

職人としての会話。

 

 

 

 

工作機械の世界は0.01ミリ、それ以上の

精度を追いかける世界。

 

 

 

その世界で

国を超えて職人が一つのモノづくりを

している姿は純粋にかっこよかった。

 

 

 

私がやりたいこと、目指したいのは

こんな国の括りがない現場。

 

 

 

それを唯一感じられる仕事だった。

 

 

 

 

 

コピーして、

社内資料を作って、

時々、お客様のアテンドをして。

 

 

 

「仕事辞めたいねー」

 

 

 

がランチタイムの合言葉な

入社1年目が終わった。

 

 

こんな日々が永遠に続いてしまうのかと

思っていた入社2年目。

 

 

部署内で異動することになった。

 

 

工作機械の部門から

工具の部門へ。

 

 

何億円の注文を受ける部門から

注文が数千円の時もある部門へ。

 

 

 

私は遂にここで担当を持たせてもらった。

 

 

インドネシア、フィリピン、中国。

 

 

各地の駐在員が手配する注文を受けて

輸出の手配をする。

 

 

 

小さく細かい注文の数々。

現地駐在員からの無理難題。

現地ローカル社員とのやりとりのすれ違い。

 

 

 

なかなか大変なことも多かったけれど

社内書類を作って整理している毎日よりは

何倍もやりがいを感じられた。

 

 

 

そんな中、

部署的に事件ともいえることが起きる。

 

 

 

仕事の全てが超細かい、

日本側にもその細かさを半強制的に求める

しかも毎度本気でこちらを怒る。

言ってしまえばとにかくやり難い。

 

 

で、有名な駐在員が本帰国し、

私のいた部署に帰ってきた。

 

 

もちろん私の直属の上司となった。

 

 

 

「エクセルを保存するときのセルはここ」

 

 

「ホチキスの止め方はこう」

 

 

「書類の置き方はこれ」

 

 

「棚の中の書類はこうおく」

 

 

 

 

とにかく、とにかく細かかった。

 

 

 

私も毎日、毎日細かく

全ての仕事について指摘を受けた。

 

 

 

そしてできるまで本当に帰してくれなかった。

 

 

 

終電の電車に何とか飛び乗り、

帰り道で悔しくて泣きながら帰ることもあった。

 

 

 

その当時はもう

「細かくてうるさいおじさん」

正直それくらいにしか思っていなかった。

 

 

 

でも今思い返すと彼はいつも

 

 

「お客さんにこんな書類出せるか!」

 

「お客さんがやりにくいだろ!」

 

 

と常に主語は「お客様」だった気がする。

 

 

なぜちゃんとやるのか、

それはお客様の為。

 

 

 

その姿勢が一貫していた。

 

 

 

それに、彼のもとで鍛えられた

事務処理の力や細かい作業の力、

そしてお客様を主語に置くことは

その後も十分に私の中に残っている。

 

 

 

彼に感謝できたのは

次の職場で自分が部下を持ってから。

 

 

 

でもあの当時の私は彼から逃げたくて

仕方なかった。

 

 

 

 

 

そんな上司に鍛えられつつ

仕事のやりがいも感じてきた2年目。

 

 

引き続き、海外からのお客様の

アテンドの仕事もあった。

 

 

このままがんばって、

私も数年後には

女性初の海外駐在員になる。

 

 

 

そんな気持ちもあった。

 

 

 

でも、あの一言。

そこから私の違和感は一気に加速する。

 

 

 

つづく。

⑪芽生えた消えない違和感

 

 

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