第6の権力 logic starの逆説
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派遣法改正と同一賃金同一労働推進法について

国会で、派遣法の改正と、いわゆる同一労働同一賃金促進法の制定が可決されました。


派遣法の改正については、以前にも書いたように、派遣が問題ではなく、派遣元のいわゆる派遣業者において、労働者が、いわゆる正社員ではなく、派遣期間に限って雇用される非正規雇用であることが問題です。派遣先の問題ではありません。今回の改正は、本来の問題により焦点をあてることになっており、前進と考えますが、いまだ、派遣先の問題ととらえているところがあります。


それよりも、いわゆる同一労働同一賃金促進法のほうが問題です。この法律は、国の方針を定めるだけの実効性のない法律ですが、今後、この法律にもとづいて、具体的な措置がなされた場合には、現在のわが国の労働慣行を大きく変えることになります。この法律は、同一の労働をするものは、同一の賃金を払うべきとして、職務給を実現することを、趣旨としています。これは、平社員ならみな同じ給料、主任ならみな同じ給料、係長ならみな同じ給料になる、ということです。すなわち、毎年の昇給がない、ということになるのです。係長などに昇格しない限り、昇給はない。こうした賃金体系をとっている企業も、わが国でも、すでにあります。また、国際的には、それがスタンダードだといってよいでしょう。しかし、わが国の多くの企業では、1年在籍することで、能力向上が見られると考え、少しずつ給料があがっていくのが普通です。また、長期雇用を前提として、企業が社員の能力開発をするという、わが国の雇用慣行とも整合しません。さらに、将来、幹部職員を期待される社員も現場も知っておくべきだということで店頭での販売をさせた場合でも、あるいは、外国語が堪能な職員について海外派遣を予定しつつ商品について知ってもらうために店頭での商品の販売をさせた場合でも、そのほかの業務を担うことができないとして商品の販売をさせた場合でも、同じ給料を支払うべきだということになるわけです。


ざっくりといえば、同一労働同一賃金は、いわゆる正社員の、とりわけ役職についていない正社員の給料を削減し、いわゆる非正規職員の給料をあげることになります。


そうしたことを理解して、この法律が制定されたのが、疑問に思います。


なお、私は、個人的には、職務給に賛成です。しかし、多くの国民・労働者は、そうではないのではないか、と感じています。

国会でおこなわれている集団的自衛権の憲法論議

国会で、集団的自衛権の行使(を前提とする法律)の合憲性が議論をされているようです。

その内容、あるいは、その報道の内容に疑問を持ちましたので、書いておきたいと思います。


国会は、立法府です。そして、国会議員は政治家です。

他方、合憲か違憲かを判断するのは、裁判所です。

しかし、どうも、国会で、裁判所でおこなうような議論がなされているかのようです。


政治家である国会議員がまずおこなうべきなのは、政策論争であり、政治判断であるべきです。

わが国が集団的自衛権を行使するのが是か非か、という議論が先になければなりません。

そして、(場合によっては)集団的自衛権を行使する必要がある、という結論にいたった場合、それが憲法や法律に違反するならば、立法府として、憲法や法律を修正すればよいはずです。

しかし、国会での議論も、報道も、集団的自衛権の行使(を前提とする法律)が、憲法に違反するのかどうか、という形式論に終始しています。


与党政府サイドは、少なくとも、限定された事態においては集団的自衛権を行使する必要があるという政策判断を示し、そのうえで、一定の限界を明記しているため法案は違憲ではない、というスタンスをとっています。

自らの政策判断を示さずに、批判だけしている人たちよりは、真摯な態度だと言ってよいのではないでしょうか。

政治家なのですから、まず政治的な議論をしてほしい、と思うのです。憲法や法律をつくったり変えたりする立法府に属する政治家が、憲法や法律に違反するから反対だ、というようなことでは、その役割を果たしていないと思います。

集団的自衛権の行使(を前提とする法律)が違憲だと主張するのであれば、政治家として、「だから憲法を変えるべき」というべきです。

そもそも、集団的自衛権の行使をすべきではない、と主張するならば、憲法を持ち出すことではないはずで、たんに理由を示して、集団的自衛権の行使に反対し、集団的自衛権を行使せずにどのように国を守るのか主張すべきです(あるいは国を守る必要がないと主張するのか)。

違憲論を主張している政治家や報道は、こうした真摯に議論をする姿勢に欠けています。憲法を改正することの賛否を示さずに、憲法に違反するから反対だなどというのは、フェアではない、卑怯な態度であるといわざるをえないと思います。


なお、政治政策論から離れて、解釈論として、憲法に違反すると主張するならば、憲法の何条のどの文言に違反をするのか、ということを明示すべきです。

違反するということは具体的に言えなければなりません。違憲や違法は、それを主張するほうが、具体的に示さなければならないはずです。




ここまで書くと、では、お前はどうなのだ、と言われそうです。

わたしは政治家ではないのですが、あえて書いておきたいと思います。

まず、解釈論からです。


憲法は、自衛権も集団的自衛権も、否定をしていません。憲法第9条第1項は「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」とあり、わざわざ「国際紛争を解決する手段としては」という文言を入れているわけです。自衛権をも放棄しているとすれば、この文言は入らず、かわりに「理由のいかんを問わず」といった文言が入るはずです。

しかし、憲法第9条第2項は「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」と明示しています。

したがって、自衛権はあっても、戦力がないため、実際には行使ができないことになります。

すなわち、自衛隊は明らかに「戦力」であるので明らかに違憲です。

自衛隊が活動する集団的自衛権行使も違憲ということになります。


しかしながら、わたしは自衛隊は必要だと認識しています。

第二次大戦後、日本国民が守られてきたのは、自衛隊があってこそだと思います。

したがって、憲法を改正して、自衛隊を合憲の存在として、明確にすべきだ、というのがわたしのスタンスです。

日本国民を守るために危険な任務についている自衛隊員のためにも、憲法に位置づけるべきで、それもせずに、なにかあったら守ってほしい、というのは、ムシがよいのではないかと思います。


もし、自衛隊は合憲であるが、集団的自衛権の行使は違憲であるという方がいたとしたら、それは、どう憲法を読むとそうなるのか、わたしにはまったく理解できません。


なお、これまで自衛隊に入隊している隊員のみなさんは、集団的自衛権行使を前提としていなかったと思います。したがって、命令により強制的に自衛隊員に集団的自衛権行使をさせるべきではなく、制度として、個々の隊員の拒否権を認めるべきだと思います。


念のために最後に書いておきますが、このブログの趣旨は、わたしの考えを主張することではありませんし、集団的自衛権の是非について論じたいということではありません。

立法府に属する政治家が、政策論議をせずに、法解釈論議をし、マスコミもそればかりをとりあげていることがおかしいのではないかということを、考えてほしいということです。

学校や職場が原因とされる自殺に関する報道などについて

最近、自殺に関する報道がなされており、話題になっているようです。

この問題を、それも逆説で書くというのは、懸念もあるのですが、それでも報道や話題のされかたに疑問があるので、書いておきたいと思います。


まず、相談されたのに、知っていたのに、対処できなかったということは、あまり言うべきではないと思います。日ごろから冷淡な態度で、役に立たなければ、相談を受けません。相談を受けるということは、知っているということは、信頼をされていたということであるし、信頼を得るように、いろいろなことを知るように、努力をしていた、ということです。知らなかったということは、相談を受けなかったということは、その逆だということなのです。相談を受けていたことで、知っていたことで責められるなら、できるだけ相談を受けないように、知らないようにしようとするほうがよい、ということになってしまうのではないでしょうか。問題に気づいた熱心で有能な人が責められ、知らなかった無能あるいは冷淡な人は仕方がないとされることは、なにか、おかしくないでしょうか。


そして、自殺というのは、多くの場合は、複合原因だと思います。ただ一つのことが原因で自殺をするということはあまりないと思うのです。

社会人の場合、職場、家庭、プライベートのすべてがうまくいかない場合に、自殺にまで至るということが多いと思います。ひとつでもうまくいっていれば、自殺にまでは至らないことが多いのではないでしょうか。

児童生徒の場合いは、学校、家庭以外に、プライベートを持っていないことも多いでしょう。学校、家庭の両方がうまくいっていない場合に、自殺にまで至ることが多く、どちらかがうまくいっていれば、自殺にまでは至らないことが多いのではないかと思います。

しかし、報道などでは、誰か、責任者を、悪者を見つけるようなかたちで、話題とされていないでしょうか。


遺族は、自殺の責任の一端が、自分にあるのではないのか、なぜ気付けなかったのか、なぜ対処できなかったのか、ということを感じているのではないでしょうか。そうなると、自分を責めずにはいられません。そこで、誰かほかに、責任を問うことができる人がみつかれば、その人の責任だと思うことで、その人を攻撃することで、自分を慰めようとします。それは、当然の反応ですし、家族をなくしていることからすれば、やむをえない反応だと思います。そうしないと、遺族も精神的にまいってしまいます。周囲は、見守るしかありません。おそらく、いきつくことろまでいかないと、遺族は気持ちの整理できないと思います。しかし、そこで、無関係の第三者が、遺族を焚き付けるように、誰かを悪者として糾弾するようなことは、誰にとってもよい結果にはならないと思います。遺族も気持ちの整理がつかなくなると思います。


いじめという言葉を使うことで分かりにくくなってしまいますが、暴力や脅迫は犯罪です。そして、上司や教師は、強制力を使うことができません。職場でも学校でも、体罰は禁止されています。とくに教育現場では、体罰をした教師が処分されたということも報道で耳にすると思います。そうしたなかで、個人の結果責任と問うことはできないと思います。そもそも、上司や教師はスーパーマンではないのです。そして、多くの場合には、児童生徒が自殺した場合の教師も、部下が自殺した場合の上司も、遺族ほどではないかもしれませんが、大きなショックを受けて、精神的にまいってしまうことが多いと思います。

(もちろん、社員間で暴力や脅迫があった場合には雇用主が民事損害賠償法上の使用者責任を負うということはあります。これは、社員の行動により発生した損害は、いったんは会社が賠償する義務があるということであり、悪い・悪くないとは別の問題です)


誰か悪者を見つけて、バッシングしたい、というのは、ほとんど人間が本能的にもっている欲望だと思います。事実関係をよく知らない第三者であるのに、悪者にしてよさそうな人が見つかると、バッシングをしたくなります。しかし、それは被害者のためでも、遺族のためでも、社会のためでもなく、自分が気持ちよくなるためだということはないでしょうか。そこで理性を失うべきではないと思うのです。みず知らずの他人を公然と非難するということは、よっぽどのことがない限り許されないことです。そのような言動をする前に、そのような言動は、いったい誰のためになるのか、どのような影響を及ぼすのか、ということを冷静に考えてみてほしいと思うのです。もちろん、報道機関こそ、もっとも考えていただきたいと思っています。

沖縄の新聞社に関する百田氏の発言について

平成27年6月25日に、自民党の勉強会で作家の百田尚樹氏が、沖縄の新聞社2社について「潰さないといけない」などと批判する発言をしたとされる件について、「言論弾圧」という文字を使った報道もされ、また、バッシングとも思える非難がされているように思えますので、書いておきたいと思います。


このブログの趣旨からは、百田氏と自民党サイドを擁護することになります。(逆説ですから)


まず、百田氏は私人です。そして、この勉強会は、公開されていない会合です。だとすれば、どのような発言をしようと、百田氏が非難をされることはないはずです。ここで百田氏の発言を非難することこそ、言論弾圧になります。この発言の対象となった当の新聞社でさえ、百田氏を非難していないということに留意すべきです。


わたし自身も含めて、人間というものは、悪者をみつけてバッシングして、気持ちよくなりたい、という欲望があると思います。今回の件は、まさに、それが噴出したケースだと思います。冷静に、客観的に考える、理性が必要です。


非公開の勉強会なのですから、対外的な影響などを考えず、素直に発言をしなければ、勉強になりません。あやまった発言をするかもしれません。しかし、あやまちを知ることこそが、勉強の本質だともいえると思います。そこでの発言が、外部から非難されるということは、妥当ではないと思います。


また、この発言は、実際には、勉強会が終了した後の、雑談の場での発言だとも言われています。誰かとの雑談したときの内容が新聞などで報道され、ネットで拡散され、社会的な非難を浴びるということになるということは、自分がそうなったときのことを考えれば、妥当ではないと思います。


ところで、この非公開の勉強会の内容(あるいは雑談の内容)を、公表・報道した人たちは、いったい、なにを考えていたのでしょうか。「言論弾圧」という表現もされていますが、この勉強会の内容(あるいは雑談の内容)が公表・報道されなければ弾圧になりようがないのです。公表・報道・拡散され、相手に伝わるからこそ、圧力になるのです。自分たちで公表・報道・拡散しておいて、弾圧だというのは、ちょっとおかしくないでしょうか。


昔、「産む機会」という発言について、やはり、自ら公表・報道・拡散しておいて、「それを聞いた女性たちがどう思うか」とか「女性を傷つけた」という非難をぶつけたのと、同じ雰囲気を感じました。


これらの報道や拡散行為は、社会をよくするためのものではなく、非難をすること自体を目的としたものではないのでしょうか。


そして、こうした非難に屈して関係者を処分したりすれば、ますます、他人を攻撃することを目的として発言をあげつらったり、失言を誘ったりする、無益で、むしろ有害な行為が、助長されることになるのではないか、と心配しています。

民法改正案について

民法改正案が閣議決定され、国会に提出される運びとなりました。

わたしは、反対です。改正自体に賛成・反対ということではなく、改正内容が悪いので反対だということです。よい内容なら賛成しますが、今回の改正内容は、あまりにも酷く、無残としか言いようがありません。とんでもなくひどかった当初の案よりは、改正内容が薄まりましたが、「とんでもなくひどい」が「とてもひどい」くらいになっただけです。百害あって一利なしが、十害あって一利なしになった、という程度のものです。


わたしも、2回のパブリックコメントにおいて、それぞれ意見を書いて出しましたが、弁護士会などの有力団体以外の意見は、その他何件、という処理で、審議会の委員に紹介すらされなかったようです。


原案を読んでいない人にはわからないと思いますが、「記念に」、わたしが2回目のパブリックコメントで提出した意見を、以下に残しておきたいと思います。


<以下、提出意見>


0 改正への反対

私は、民法(債権法)の改正に反対します。

その理由は以下の3点です。

(1)まず、なぜ民法を改正するのか、理由が明確ではないこと。

(2)次に、条文を増やし、複雑なものにする方向で検討されていること。

(3)社会経済政策の問題を、民法に取り込む内容になっていること。

(1)わが国の民法は、高度に整合性のとれた優れた法典であるため、抜本的な改正が必要だとは思えません。あえて問題をあげるとすれば、民法に書かれた内容と、裁判の判決とが事実上異なるものとなっており、法律を見ても裁判の結果が予想できなくなっているということがあります。

しかし、これは、ちゃんと民法にしたがって、判決をすればよいだけのことです。

勝手に、民法を無視した判決がなされ、それを学者やマスコミが支持しているから、このような問題が生じているわけです。

民法と判決が分離したため、判決にあわせて民法を部分的に改正したりしたために、いまの民法がわかりにくく、かつ、一貫性のないものになりつつありますが、それは部分的な問題です。

また、わたしは、全体としてみれば、旧来の民法の規定で素直に判決をしたほうがよい結果であり、民法を無視した判決や、そうした判決を踏まえて改正された民法の規定は、かえって悪い結果になっていると思っています。旧来の民法に貫かれた考え方を理解せず、行き当たりばったりに、判決をしたり、法改正がされてきたというのが実態に近いと考えています。

旧来の民法は、たとえば、事実を調べる材料がなかった場合には知らなかったことについて保護されることがあるが、誤った情報をうのみにした場合(たとえ誤った情報でもそれが事実か否かを調べるもととなる情報が提供されていたにもかかわらず調べなかった場合)には保護されない、といった一貫した考え方で高度に整合性をとって規定されています。

過去の債権法改定について具体例で述べれば、民法は、これから契約に入る場合には、契約する義務があるわけではないので、保護されるには故意・過失がないことを要求していますが、債務の弁済の場面では履行が義務づけられているので知らなければ保護されるという考え方をとっていました。しかし、こうした考え方を理解しない学説や判決が横行し、債務の弁済の場面でも故意・過失を必要とし、契約に入る段階と同じに扱うような改定もなされてしまいました(478条)。

改正をするならば、旧来の民法を貫く考え方を明らかにするとともに、民法を無視した判決がなされないように規定をより明確にするべきです。

決して、誤った判決や学説にあわせて、民法を改正すべきではないと考えています。

(2)条文を増やし、複雑なものにすることには反対です。

民法のような個人のことを定める法律は、原則的な考え方を、明確かつ簡潔に定めるべきであり、個人が読んでもわからない複雑な法律を作っても、意味がありません。

また、民法はもっとも基本的な法律ではありますが、法律というのは、実際には、ほとんど、市民の問題解決に使われず、裁判になるのは、ごく一部です。

争いは、ほとんどが自力で解決されるのです。

法律や裁判で、くまなく、どんな問題も、正しく解決しようというのは、そもそも無理なことですし、それができると考えるのは、法律家の傲慢でしかないと思います。

まれに問題のあるケースがあっても、基本的な考え方を重視し、簡素・明快を優先するということは、ありえる選択ですし、とるべき選択であると思っています。

問題のあるケースは、法律によらない、社会的な解決をはかるべきです。

(3)社会経済政策の問題を民法に取り込むことにも無理があります。

取引における公平といったことは法律・民法の根幹ですが、消費者保護などは社会経済政策の観点から検討すべきことです。

しかし、民法について検討しているのは、法律・民法の専門家でしかありませんので、社会経済政策の観点からの検討が十分になされずに、問題のある、誤った法律になる可能性があります。

これまでも、社会経済政策について十分な検討がなされずに、判決がなされたり、法律が改正されたりしました。

たとえば、借地借家法です。

弱い立場の借家人を保護するという考え方から、借家人の権限を強くし、高額の「立ち退き料」を認める判決がなされ、それが法律に取り込まれました。

その結果、いったん家屋を貸し出すと立ち退いてもらうことが困難になるため、借家の供給が少なくなり、また、きわめて高い家賃が設定されるようになりました。

独身、同棲・新婚、子が小さい時期、子が成長した時期、子が独立した時期といったライフステージにあわせて家屋を変えていくということが、とてつもなく難しくなり、わが国では、家は一生住むものとなってしまったのです。

すなわち、借家人を強く保護するということは、今の借家人のために、将来、家を借りたいと思っている人を犠牲にするということです。

また、解雇についての制度も同じです。

いまの日本では、正社員を解雇することは、きわめて困難です。

民法では、いつでも解雇できると書いてあったにもかかわらず、それを無視して、原則として解雇できないという判決がなされ、それが一部労働契約法などの法律に取り込まれました。

その結果、正社員を解雇できないため、非正規社員の契約更新が拒絶されるようになりました。

また、いったん正社員を雇用すると解雇することが困難であるため、できるだけ正社員を雇用せず、派遣などの非正規社員を使うようになりました。

どれだけ能力に劣る正社員がいて、どれだけ将来性のある人が働きたいといってきても、現在の正社員を解雇できないので、新しい人を雇うことができません。

解雇を厳しく制限して今の正社員の雇用を守るということは、これから働きたい人を犠牲にするということなのです。

こうしたことは社会経済政策からいえればあまりにも明らかなことでしたが、借地借家や解雇に関する法制度について検討したとき、そうした点が十分検討されたとは思えません。

(これらの結果の是非についてはいろいろ意見はあると思いますが、十分検討されて決断されたわけではないということを私は問題と考えているのです。)

取引や権利義務の原則を定める民法、社会経済政策の検討が必要な土地法制・労働法制・経済法制は、別のものとして検討すべきと考えます。

このような考え方から、わたしは、民法改正の基本的な考え方に反対します。

また、上記(1)から(3)の考え方を理解していただければご理解いただけると思いますが、今回提案された改正の内容も、「改正」ではなく「改悪」と言わざるをえません。民法の基本的な理念や考え方を理解しておらず、整合性も欠き、妥当性をもそこなう、きわめて低レベルの案であり、現在のままのほうが、はるかによい、と言わざるをえません。多くの意見が、前回のパブリックコメントでもよせられましたが、残念ですが、本当に考えてつくられた試案なのかどうか、疑わしいレベルです。改正内容にも全面的に反対します。

以下、できる限り、具体的な条文についても記載します(以下略)

松本復興対策大臣の辞任について

松本復興対策大臣が辞任しました。

また失言による辞任です。

前のエントリーでも書きましたが、私は失言で辞任すべきではない、と基本的には思っています。


http://ameblo.jp/logic--star/entry-10727132107.html


柳沢厚生労働大臣が「産む機械」発言で辞任してから、、政敵も、マスコミも、失言を狙い、失言をとりあげることに注力するようになり、本来行われるべき政策についての議論や報道がなされなくなり、他方で、失言辞任が相次ぐことにより、政治や行政が停滞してしまっています。


ただ、松本復興大臣の発言は、柳沢厚生労働大臣や、柳田法務大臣とは違います。

柳沢厚生労働大臣や、柳田法務大臣は、国会や省庁の外での、職務外での発言でした。

松本復興大臣の、被災地の地元知事らに「知恵を出さないやつは助けない」などと発言したとされ、まさしく、職務としての発言です。

そういう意味では、「罪が重い」と言え、職務上の責任を追及されうると思います。


しかし、それでも、閣僚の評価は、なによりも、どのような仕事をしたのか、あるいは、しなかったのか、ということで評価をされるべきだと思いますので、就任したばかりの閣僚が、発言だけで辞めるべきではない、と思うのです。

福島原発について

大震災は、また水の怖さを想い知ることとなりました。

過去においても、地震そのもので大量の死者が出たということはなく、大災害は水害か火災によるものでした。


さて、そろそろ冷静に振り返ることができるのではないかと思い、福島原発をテーマにして書いてみたいと思います。

反発はあろうかと思いますが、あえて、ほかの人とは違う、逆説を書いてみたいと思います。


福島原発の事故は、後世で、どのようにとらえられるのでしょうか。

原発の危険性という文脈でもって語られるのでしょうか。

私は、逆のことを考えています。

炉心溶融しているといわれ、住民が避難を余儀なくされている状況ですが、いまのところ、放射能が大量に漏れたり、被ばくで死者や健康被害が大量に発生するということには至っていません。

すなわち、福島原発は、未曾有の大地震と大津波があったにもかかわらず、何重もの安全確保策が功を奏して、大惨事にならなかった事例ともいえるのではないでしょうか。


それでも、ぎりぎりのところで助かったというもので、将来についてもまだ予断を許しません。

より安全を追及してほしいという気持ちに変わりはありません。


そう考えると、東京電力の賠償問題については、やはり、全損害を負担させるべきで、株主責任も追及すべきです。

安全をおこたったら、株は紙切れになり、株主は大損する。だからこそ、株主は、安全を求めるのです。

株主責任を追及すると決めさえすれば、株主が、率先して安全に目を光らせてくれます。

悪しき前例にしないためにも、株主責任から逃げてはいけないと思います。

いわゆる地域主権一括法(第1次)の成立について

いわゆる「地域主権一括法」(第1次)が国会で可決成立しました。

なお、法律名等から「地域主権」という言葉が削除され、地域の自主性・・・といった言葉になっていますが、このエントリーでは「地域主権一括法」という言葉を使います。


内容の柱は2点で、

(1)国と地方の協議の場の法制化

(2)国が地方を縛ってきた基準の緩和

です。


新聞各社の社説やコメントも出てきており、おおむね好意的にとらえているようです。


たとえば、保育園の基準を緩和することにより、保育の質の低下につながると反対する向きもあるようですが、それこそ地方議会や地方行政の場でしっかりと議論し、監視していけばよいことですし、地方で、いままでの国の基準よりも厳しい基準をつくることもできるわけです。保育園が足りない自治体は多少手狭でもたくさんの子どもが保育園に入ることができるようにしたいと考えるし、余裕がある自治体は広めの基準をとることができ、まさに地方の実情にあわせて判断することができます。

こうした反対の主張に理由があるとは思えません。


それでも、あえて反対の立場で書いてみたいと思います。


まず(1)国と地方の協議の場の法制化ですが、国が決定をして地方が国の決定・指示どうり動くという関係を前提にしているから、このような発想がでてくるわけです。協議もせずに一方的に国が決定・指示するよりは、協議をするほうがましですが、根本は変わっていません。協議の場を設定するのではなく、地方の拒否権を明確にすれば、国は協議をせざるをえない、ということになります。

また、地方代表が、知事会・市長会・町村会というのも、問題です。これらの事務局は、みな、総務省の役人がつとめています。また、同じ基礎自治体を市長会と町村会で分断し、利害を対立させています。さらに、都道府県の仕事を一部担っている指定都市・中核市・特別市は、都道府県の仕事について意見集約をする場がありません。


次に(2)国が地方を縛ってきた基準の緩和ですが、この内容をよく読むと、基準をなくするというのではなく、基準は維持したまま

(ア)絶対守らなければいけない基準

(イ)原則として守らなければならない基準

(ウ)参考にする基準

という分類にするだけです。

(ウ)であっても、「参考にする」義務があるということであり、違う基準を設定した場合、参考したということを地方自治体が証明できない限り、違法となるということのようです。

さらに、これらの基準は、法律ではなく、省令等で定めることが、明らかになりました。

なおかつ、これらの基準によって、地方自治体は条例を定めなければならないということです。

国会の議決を必要としない省令等が、地方議会の議決を必要とする条例よりも、上位に立つことを、明確に定めてしまったわけです。

なおかつ、条例を定める、という義務を新たに自治体に課しています。

地域主権、地方分権どころか、中央集権・官僚支配の強化です。


したがって、地域主権・地方分権に逆行しかねないものといえます。



現在、第2次地域主権一括法案が、国会に提出されています。

これは、仕事を、国から地方に、都道府県から市町村に移すことが内容となっています。

まさに地方分権、といえるわけですが、仕事だけ移して、仕事に必要となるお金を移さなければ、地方にとっては、ただの負担の増加です。

もしそうなれば、まさに地域主権・地方分権どころか、地域・地方を苦しめ、国が楽をするためのものになってしまいます。

なお、4月に国会に提出され、来年の4月には施行する予定ということですが、地方は1年未満で新しい仕事の準備をできるのでしょうか。地方自治体の職員採用試験はもう募集がはじまっています。職員の手当てもできないのではないでしょうか。国は、多くの地方や天下り団体に職員を派遣したり、海外に留学させたりといったかたちで、人を余らせているわけですが、地方自治体はそうした状況にはないと思います。



地域主権や地方分権といった言葉に騙されることなく、内容をよく見ていく必要があるし、地方のための改革だとうのであれば、マスコミは、地方がどう捉えているのかという声を捉えて、知らせていく必要があると思います。

民法(債権法)改正について

民法(債権法)改正については、市民生活のもっとも基本的な法律の改正であるにもかかわらず、あまり注目がされていないということから、あえてこのブログで取り上げてきましたが、6月1日からパブリックコメントを実施するとの発表がありました。

http://www.moj.go.jp/shingi1/shingi04900074.html


ぜひ、論点整理をご覧いただいて、国民から広くコメントをよせられるよう、ご案内いたします。


前のエントリーで書きましたが、私の意見は下記のとおりです。



私は、民法(債権法)の改正に反対します。


(1)まず、なぜ民法を改正するのか、理由が明確ではないこと。

(2)次に、条文を増やし、複雑なものにする方向で検討されていること。

(3)社会経済政策の問題を、民法に取り込む内容になっていること。


(1)わが国の民法は、高度に整合性のとれた優れた法典であるため、抜本的な改正が必要だとは思えません。あえて問題をあげるとすれば、民法に書かれた内容と、裁判の判決とが事実上異なるものとなっており、法律を見ても裁判の結果が予想できなくなっているということがあります。

しかし、これは、ちゃんと民法にしたがって、判決をすればよいだけのことです。

勝手に、民法を無視した判決がなされ、それを学者やマスコミが支持しているから、このような問題が生じているわけです。

民法と判決が分離したため、判決にあわせて民法を部分的に改正したりしたために、いまの民法がわかりにくく、かつ、一貫性のないものになりつつありますが、それは部分的な問題です。

また、わたしは、全体としてみれば、旧来の民法の規定で素直に判決をしたほうがよい結果であり、民法を無視した判決や、そうした判決を踏まえて改正された民法の規定は、かえって悪い結果になっていると思っています。旧来の民法に貫かれた考え方を理解せず、行き当たりばったりに、判決をしたり、法改正がされてきたというのが実態に近いと考えています。

旧来の民法は、たとえば、事実を調べる材料がなかった場合には知らなかったことについて保護されることがあるが、誤った情報をうのみにした場合(たとえ誤った情報でもそれが事実か否かを調べるもととなる情報が提供されていたにもかかわらず調べなかった場合)には保護されない、といった一貫した考え方で高度に整合性をとって規定されています。

改正をするならば、旧来の民法を貫く考え方を明らかにするとともに、民法を無視した判決がなされないように規定をより明確にするべきです。

決して、誤った裁判にあわせて、民法を改正すべきではないと考えています。

なお、今回の民法改正で、契約を守れなかった場合には故意や過失がなくとも責任を負うということが検討されていますが、今の民法でも、条文をみていただければ、契約を守れなかった場合には故意や過失がなくとも責任を負うということは明らかです。これは、今の民法を無視した議論が学者の間でなされて、裁判官も判決に書いてしまったということですので、それを正すために、より規定を明確にすることには賛成です。


(2)条文を増やし、複雑なものにすることには反対です。

民法のような個人のことを定める法律は、原則的な考え方を、明確かつ簡潔に定めるべきであり、個人が読んでもわからない複雑な法律を作っても、意味がありません。

また、民法はもっとも基本的な法律ではありますが、法律というのは、実際には、ほとんど、市民の問題解決に使われず、裁判になるのは、ごく一部です。

争いは、ほとんどが自力で解決されるのです。

法律や裁判で、くまなく、どんな問題も、正しく解決しようというのは、そもそも無理なことですし、それができると考えるのは、法律家の傲慢でしかないと思います。

まれに問題のあるケースがあっても、基本的な考え方を重視し、簡素・明快を優先するということは、ありえる選択ですし、とるべき選択であると思っています。

問題のあるケースは、法律によらない、社会的な解決をはかるべきです。


(3)社会経済政策の問題を民法に取り込むことにも無理があります。

取引における公平といったことは法律・民法の根幹ですが、消費者保護などは社会経済政策の観点から検討すべきことです。

しかし、民法について検討しているのは、法律・民法の専門家でしかありませんので、社会経済政策の観点からの検討が十分になされずに、問題のある、誤った法律になる可能性があります。

これまでも、社会経済政策について十分な検討がなされずに、判決がなされたり、法律が改正されたりしました。

たとえば、借地借家法です。

弱い立場の借家人を保護するという考え方から、借家人の権限を強くし、高額の「立ち退き料」を認める判決がなされ、それが法律に取り込まれました。

その結果、いったん家屋を貸し出すと立ち退いてもらうことが困難になるため、借家の供給が少なくなり、また、きわめて高い家賃が設定されるようになりました。

独身、同棲・新婚、子が小さい時期、子が成長した時期、子が独立した時期といったライフステージにあわせて家屋を変えていくということが、とてつもなく難しくなり、わが国では、家は一生住むものとなってしまったのです。

すなわち、借家人を強く保護するということは、今の借家人のために、将来、家を借りたいと思っている人を犠牲にするということです。

また、解雇についての制度も同じです。

いまの日本では、正社員を解雇することは、きわめて困難です。

民法では、いつでも解雇できると書いてあったにもかかわらず、それを無視して、原則として解雇できないという判決がなされ、それが一部労働契約法などの法律に取り込まれました。

その結果、正社員を解雇できないため、非正規社員の契約更新が拒絶されるようになりました。

また、いったん正社員を雇用すると解雇することが困難であるため、できるだけ正社員を雇用せず、派遣などの非正規社員を使うようになりました。

どれだけ能力に劣る正社員がいて、どれだけ将来性のある人が働きたいといってきても、現在の正社員を解雇できないので、新しい人を雇うことができません。

解雇を厳しく制限して今の正社員の雇用を守るということは、これから働きたい人を犠牲にするということなのです。

こうしたことは社会経済政策からいえればあまりにも明らかなことでしたが、借地借家や解雇に関する法制度について検討したとき、そうした点が十分検討されたとは思えません。

(これらの結果の是非についてはいろいろ意見はあると思いますが、十分検討されて決断されたわけではないということを私は問題と考えているのです。)

取引や権利義務の原則を定める民法と、社会経済政策の検討が必要な土地法制・労働法制・経済法制は、別のものとして検討すべきと考えます。


このような考え方から、わたしは、民法改正の基本的な考え方に反対します。

民法(債権法)の改正について

このブログでは、しばしば民法の改正について書いてきました。

民法は、市民生活の基本になるにもかかわらず、子ども手当や、年金のように、マスコミにもあまりとりあげられません。

そこで、ときどきこのブログでとりあげてきたわけです。


さて、政府では民法改正に向けた検討が進み、平成23年4月には、改正について国民の意見を聞く「パブリックコメント」が行われようとしています。

前のエントリーで、改正の検討は穏当なものになりそうだと書きましたが、私にとって、現在の検討は、かなり疑問のある内容になっています。


(1)まず、なぜ民法を改正するのか、理由が明確ではないこと。

(2)次に、条文を増やし、複雑なものにする方向で検討されていること。

(3)消費者保護を、民法に取り込む内容になっていること。


すでに以前のエントリーで書きましたが、

(1)わが国の民法は、高度に整合性のとれた優れた法典であるため、抜本的な改正が必要だとは思えません。あえて問題をあげるとすれば、民法に書かれた内容と、裁判の判決とが事実上異なるものとなっており、法律を見ても裁判の結果が予想できなくなっているということがあります。

しかし、これは、ちゃんと民法にしたがって、判決をすればよいだけのことです。

勝手に、民法を無視した判決がなされ、それを学者やマスコミが支持しているから、このような問題が生じているわけです。

民法と判決が分離したため、判決にあわせて民法を部分的に改正したりしたために、いまの民法がわかりにくく、かつ、一貫性のないものになりつつありますが、それは部分的な問題です。

また、わたしは、全体としてみれば、旧来の民法の規定で素直に判決をしたほうがよい結果であり、民法を無視した判決や、そうした判決を踏まえて改正された民法の規定は、かえって悪い結果になっていると思っています。旧来の民法に貫かれた考え方を理解せず、行き当たりばったりに、判決をしたり、法改正がされてきたというのが実態に近いと考えています。

旧来の民法は、たとえば、事実を調べる材料がなかった場合には知らなかったことについて保護されることがあるが、誤った情報をうのみにした場合(たとえ誤った情報でもそれが事実か否かを調べるもととなる情報が提供されていたにもかかわらず調べなかった場合)には保護されない、といった一貫した考え方で高度に整合性をとって規定されています。

改正をするならば、旧来の民法を貫く考え方を明らかにするとともに、民法を無視した判決がなされないように規定をより明確にするべきです。

決して、誤った裁判にあわせて、民法を改正すべきではないと考えています。

なお、今回の民法改正で、契約を守れなかった場合には故意や過失がなくとも責任を負うということが検討されていますが、今の民法でも、条文をみていただければ、契約を守れなかった場合には故意や過失がなくとも責任を負うということは明らかです。これは、今の民法を無視した議論が学者の間でなされて、裁判官も判決に書いてしまったということですので、それを正すために、より規定を明確にすることには賛成です。


(2)条文を増やし、複雑なものにすることには反対です。

民法のような個人のことを定める法律は、原則的な考え方を、明確かつ簡潔に定めるべきであり、個人が読んでもわからない複雑な法律を作っても、意味がありません。

また、民法はもっとも基本的な法律ではありますが、法律というのは、実際には、ほとんど、市民の問題解決に使われず、裁判になるのは、ごく一部です。

争いは、ほとんどが自力で解決されるのです。

法律や裁判で、くまなく、どんな問題も、正しく解決しようというのは、そもそも無理なことですし、それができると考えるのは、法律家の傲慢でしかないと思います。

まれに問題のあるケースがあっても、基本的な考え方を重視し、簡素・明快を優先するということは、ありえる選択ですし、とるべき選択であると思っています。

問題のあるケースは、法律によらない、社会的な解決をはかるべきです。


(3)消費者保護を民法に取り込むことにも無理があります。

消費者保護は、社会経済政策の問題です。

取引における公平といったことは法律・民法の根幹ですが、消費者保護は社会経済政策の観点から検討すべきことです。

しかし、民法について検討しているのは、法律・民法の専門家でしかありませんので、社会経済政策の観点からの検討が十分になされずに、問題のある、誤った法律になる可能性があります。

これまでも、社会経済政策について十分な検討がなされずに、判決がなされたり、法律が改正されたりしました。

たとえば、借地借家法です。

弱い立場の借家人を保護するという考え方から、借家人の権限を強くし、高額の「立ち退き料」を認める判決がなされ、それが法律に取り込まれました。

その結果、いったん家屋を貸し出すと立ち退いてもらうことが困難になるため、借家の供給が少なくなり、また、きわめて高い家賃が設定されるようになりました。

独身、同棲・新婚、子が小さい時期、子が成長した時期、子が独立した時期といったライフステージにあわせて家屋を変えていくということが、とてつもなく難しくなり、わが国では、家は一生住むものとなってしまったのです。

すなわち、借家人を強く保護するということは、今の借家人のために、将来、家を借りたいと思っている人を犠牲にするということです。

また、解雇についての制度も同じです。

いまの日本では、正社員を解雇することは、きわめて困難です。

民法では、いつでも解雇できると書いてあったにもかかわらず、それを無視して、原則として解雇できないという判決がなされ、それが一部労働契約法などの法律に取り込まれました。

その結果、正社員を解雇できないため、非正規社員の契約更新が拒絶されるようになりました。

また、いったん正社員を雇用すると解雇することが困難であるため、できるだけ正社員を雇用せず、派遣などの非正規社員を使うようになりました。

どれだけ能力に劣る正社員がいて、どれだけ将来性のある人が働きたいといってきても、現在の正社員を解雇できないので、新しい人を雇うことができません。

解雇を厳しく制限して今の正社員の雇用を守るということは、これから働きたい人を犠牲にするということなのです。

こうしたことは社会経済政策からいえればあまりにも明らかなことでしたが、借地借家や解雇に関する法制度について検討したとき、そうした点が十分検討されたとは思えません。

(これらの結果の是非についてはいろいろ意見はあると思いますが、十分検討されて決断されたわけではないということを私は問題と考えているのです。)

取引や権利義務の原則を定める民法と、社会経済政策の検討が必要な土地法制・労働法制・経済法制は、別のものとして検討すべきと考えます。


このような考え方から、わたしは、民法改正の基本的な考え方に反対するという意見を、パブリックコメントで提出しようと思っています。


一人でも多くの方にぜひ考えて意見を提出していただきたいと思いますし、マスコミでもとりあげてほしいと思っています。



このテーマに関する過去のエントリー

http://ameblo.jp/logic--star/entry-10422778257.html

http://ameblo.jp/logic--star/entry-10279938493.html

http://ameblo.jp/logic--star/entry-10279917449.html

http://ameblo.jp/logic--star/entry-10159508529.html


関連ブログ等

http://blog.goo.ne.jp/9605-sak/e/ee236aa20fa9e76b30c305bddabfc7e7

http://koiso-law.cocolog-nifty.com/houreikeiyaku/2010/04/post-20dd.html

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http://blogs.yahoo.co.jp/ryuji24guchi/33744185.html

http://sihousyosiakamatu.blog97.fc2.com/blog-entry-547.html

http://d.hatena.ne.jp/n1516e/20110217/1297906943

http://d.hatena.ne.jp/n1516e/20110217/1297906943

http://mallini.iza.ne.jp/blog/entry/2167579/

http://knakayam.exblog.jp/15995682/

http://freshorange.at.webry.info/201102/article_12.html

http://tb.bblog.biglobe.ne.jp/ap/tb/cee02c33e6


法務省ホームページ

http://www.moj.go.jp/shingi1/shingikai_saiken.html

http://www.moj.go.jp/MINJI/minji99.html


民法(債権法)改正検討委員会

http://www.shojihomu.or.jp/saikenhou/indexja.html

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