民法(債権法)改正について
民法(債権法)改正については、市民生活のもっとも基本的な法律の改正であるにもかかわらず、あまり注目がされていないということから、あえてこのブログで取り上げてきましたが、6月1日からパブリックコメントを実施するとの発表がありました。
http://www.moj.go.jp/shingi1/shingi04900074.html
ぜひ、論点整理をご覧いただいて、国民から広くコメントをよせられるよう、ご案内いたします。
前のエントリーで書きましたが、私の意見は下記のとおりです。
私は、民法(債権法)の改正に反対します。
(1)まず、なぜ民法を改正するのか、理由が明確ではないこと。
(2)次に、条文を増やし、複雑なものにする方向で検討されていること。
(3)社会経済政策の問題を、民法に取り込む内容になっていること。
(1)わが国の民法は、高度に整合性のとれた優れた法典であるため、抜本的な改正が必要だとは思えません。あえて問題をあげるとすれば、民法に書かれた内容と、裁判の判決とが事実上異なるものとなっており、法律を見ても裁判の結果が予想できなくなっているということがあります。
しかし、これは、ちゃんと民法にしたがって、判決をすればよいだけのことです。
勝手に、民法を無視した判決がなされ、それを学者やマスコミが支持しているから、このような問題が生じているわけです。
民法と判決が分離したため、判決にあわせて民法を部分的に改正したりしたために、いまの民法がわかりにくく、かつ、一貫性のないものになりつつありますが、それは部分的な問題です。
また、わたしは、全体としてみれば、旧来の民法の規定で素直に判決をしたほうがよい結果であり、民法を無視した判決や、そうした判決を踏まえて改正された民法の規定は、かえって悪い結果になっていると思っています。旧来の民法に貫かれた考え方を理解せず、行き当たりばったりに、判決をしたり、法改正がされてきたというのが実態に近いと考えています。
旧来の民法は、たとえば、事実を調べる材料がなかった場合には知らなかったことについて保護されることがあるが、誤った情報をうのみにした場合(たとえ誤った情報でもそれが事実か否かを調べるもととなる情報が提供されていたにもかかわらず調べなかった場合)には保護されない、といった一貫した考え方で高度に整合性をとって規定されています。
改正をするならば、旧来の民法を貫く考え方を明らかにするとともに、民法を無視した判決がなされないように規定をより明確にするべきです。
決して、誤った裁判にあわせて、民法を改正すべきではないと考えています。
なお、今回の民法改正で、契約を守れなかった場合には故意や過失がなくとも責任を負うということが検討されていますが、今の民法でも、条文をみていただければ、契約を守れなかった場合には故意や過失がなくとも責任を負うということは明らかです。これは、今の民法を無視した議論が学者の間でなされて、裁判官も判決に書いてしまったということですので、それを正すために、より規定を明確にすることには賛成です。
(2)条文を増やし、複雑なものにすることには反対です。
民法のような個人のことを定める法律は、原則的な考え方を、明確かつ簡潔に定めるべきであり、個人が読んでもわからない複雑な法律を作っても、意味がありません。
また、民法はもっとも基本的な法律ではありますが、法律というのは、実際には、ほとんど、市民の問題解決に使われず、裁判になるのは、ごく一部です。
争いは、ほとんどが自力で解決されるのです。
法律や裁判で、くまなく、どんな問題も、正しく解決しようというのは、そもそも無理なことですし、それができると考えるのは、法律家の傲慢でしかないと思います。
まれに問題のあるケースがあっても、基本的な考え方を重視し、簡素・明快を優先するということは、ありえる選択ですし、とるべき選択であると思っています。
問題のあるケースは、法律によらない、社会的な解決をはかるべきです。
(3)社会経済政策の問題を民法に取り込むことにも無理があります。
取引における公平といったことは法律・民法の根幹ですが、消費者保護などは社会経済政策の観点から検討すべきことです。
しかし、民法について検討しているのは、法律・民法の専門家でしかありませんので、社会経済政策の観点からの検討が十分になされずに、問題のある、誤った法律になる可能性があります。
これまでも、社会経済政策について十分な検討がなされずに、判決がなされたり、法律が改正されたりしました。
たとえば、借地借家法です。
弱い立場の借家人を保護するという考え方から、借家人の権限を強くし、高額の「立ち退き料」を認める判決がなされ、それが法律に取り込まれました。
その結果、いったん家屋を貸し出すと立ち退いてもらうことが困難になるため、借家の供給が少なくなり、また、きわめて高い家賃が設定されるようになりました。
独身、同棲・新婚、子が小さい時期、子が成長した時期、子が独立した時期といったライフステージにあわせて家屋を変えていくということが、とてつもなく難しくなり、わが国では、家は一生住むものとなってしまったのです。
すなわち、借家人を強く保護するということは、今の借家人のために、将来、家を借りたいと思っている人を犠牲にするということです。
また、解雇についての制度も同じです。
いまの日本では、正社員を解雇することは、きわめて困難です。
民法では、いつでも解雇できると書いてあったにもかかわらず、それを無視して、原則として解雇できないという判決がなされ、それが一部労働契約法などの法律に取り込まれました。
その結果、正社員を解雇できないため、非正規社員の契約更新が拒絶されるようになりました。
また、いったん正社員を雇用すると解雇することが困難であるため、できるだけ正社員を雇用せず、派遣などの非正規社員を使うようになりました。
どれだけ能力に劣る正社員がいて、どれだけ将来性のある人が働きたいといってきても、現在の正社員を解雇できないので、新しい人を雇うことができません。
解雇を厳しく制限して今の正社員の雇用を守るということは、これから働きたい人を犠牲にするということなのです。
こうしたことは社会経済政策からいえればあまりにも明らかなことでしたが、借地借家や解雇に関する法制度について検討したとき、そうした点が十分検討されたとは思えません。
(これらの結果の是非についてはいろいろ意見はあると思いますが、十分検討されて決断されたわけではないということを私は問題と考えているのです。)
取引や権利義務の原則を定める民法と、社会経済政策の検討が必要な土地法制・労働法制・経済法制は、別のものとして検討すべきと考えます。
このような考え方から、わたしは、民法改正の基本的な考え方に反対します。